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韓国政府が無視していた慰安婦問題を顕在化させたのは「記憶の活動家」たち

ニューズウィーク日本版 2019年8月7日 18時55分

<慰安婦の存在は一般に知られていたが、当初は戦争の物語から抜け落ちていた。なぜ語られるようになったのか。キャロル・グラック教授が学生たちとの対話を通してあぶり出す「慰安婦問題の背景」>

日本近現代史を専門とするコロンビア大学のキャロル・グラック教授(歴史学)。新著『戦争の記憶 コロンビア大学特別講義―学生との対話―』(講談社現代新書)には、グラック教授がコロンビア大学で多様な学生たちと「戦争の記憶」について対話をした全4回の講義と、書きおろしコラムが収録されている。

本書の元となったのはニューズウィーク日本版の企画で、学生たちとの対話は2017年11月から2018年2月にかけ、ニューヨークの同大学にて行われた。本誌では「戦争の物語」「戦争の記憶」「『慰安婦』の記憶」そして「歴史への責任」と、全4回の特集として掲載し、大きな反響を呼んだ。

ここでは3回目の講義、「慰安婦の記憶」を、『戦争の記憶 コロンビア大学特別講義―学生との対話―』から3回にわたって全文掲載。

第2回目となる今回は、「慰安婦問題」がなぜ最初は語られなかったのか、そして語られるようになったのはなぜなのか、その背景に学生たちが迫った。

※第1回はこちら:「慰安婦」はいかに共通の記憶になったか、各国学生は何を知っているか
※第3回はこちら:韓国と日本で「慰安婦問題」への政府の対応が変化していった理由

◇ ◇ ◇

戦後長らく、慰安婦問題が語られなかった理由

ディラン 前回の講義で話されたように、アメリカと日本の戦争の物語は基本的にはパールハーバーから始まって原爆で終わります。そのような主要な物語があると、中国や韓国といった東アジア側の物語は丸ごと語られなくなってしまうのかもしれません。

グラック教授 それも一つの理由ですね。慰安婦はアジアの話として抜け落ちてしまった、と。ほかに、慰安婦が物語に登場しなかった理由は?

クリス 女性だったからでしょうか。

グラック教授 そうですね。さきほどニックが言ってくれたように、戦時中の女性に対する暴力はほかの国にもありましたが、戦争の物語には組み込まれにくいものなのです。終戦時のドイツでソ連軍が大勢の女性を強姦したという話は、ドイツの戦争の物語には長い間含まれませんでした。

なぜ戦争の物語に入らなかったのか、理由の一つは、慰安所の存在が当たり前だった点。二つ目は、性的被害に遭った女性というのは、どの物語にも登場しづらいという点です。 では、戦後に行われた戦犯法廷で慰安婦の問題がどのように扱われたか知っている人はいますか?

ニック 少数ですが、オランダ人女性の慰安婦問題が戦犯法廷で取り扱われました。一方で日本人や中国人や韓国人の慰安婦については問題にされませんでした。

グラック教授 そのとおりです。東京裁判で連合軍の調査官は「慰安ガール」について触れていましたが、訴追しませんでした。一方で、日本占領中のオランダ領東インド(現在のインドネシア)で一部の日本軍人が民間人抑留所のオランダ人女性を慰安婦にした件は、戦後のインドネシアで行われたオランダによるBC級戦犯裁判で裁かれたのです。 なぜオランダ人慰安婦に対する罪では日本人を裁いたのに、中国人や日本人、韓国人やフィリピン人などの慰安婦については訴追しなかったのでしょう。明らかな答えがありますね。

クリス 人種でしょうか。



グラック教授 そうです。オランダ人女性の中には白人もいたからです。また、日本では「慰安婦が存在した」というのは終戦直後の時点では秘密でもなんでもなく、一般的に知られている事実でした。1947年には田村泰次郎による慰安婦についての短編『春婦伝』が出版されていましたし、慰安所という言葉は知られていて、1960年代には日本の国会で戦傷病者戦没者遺族等援護法(1952年制定)に関連して元日本人慰安婦について触れられてもいました。

では、みんなが知っていた慰安婦という存在が、どのようにして戦争の物語の中に入ってきたのか。慰安婦とは、どのような人たちだったでしょうか。皆さんが持っているイメージを教えてください。

ダイスケ 若い女性でしょうか。

グラック教授 とても若い女性たちでした。13歳や14歳もいました。ほかには?

数人 貧しい。

トム 田舎に住んでいる?

グラック教授 そうですね。若い女性で、貧しい人が多く、田舎出身の人もいました。では、1990年代にはこうした慰安婦たちはどうなっていましたか。

ジヒョン とても年を取っていました。

グラック教授 とても年を取り、貧しい人もいて、アジア諸国に散らばっていました。そんな彼女たちが「運動」を起こせるでしょうか。元慰安婦がどのような人たちかを想像すると、無力で、ほかの元慰安婦と直接的な関わり合いがない場合が多いです。

ではそんな彼女たちが、なぜ現在の私たちの記憶の中に入ってきたのか。前回の話の「記憶の作用」について思い出してみてください。四つあった「記憶の領域」、すなわちオフィシャルな領域、民間・大衆文化の領域、個人の記憶、メタ・メモリー、この中で慰安婦が記憶として姿を現した領域とはどこだと思いますか。

誰が記憶に変化を起こしたか

クリス ソウルにある日本大使館でしょうか。

グラック教授 それは後になってからですね。

ジヒョン 元慰安婦たちの証言を取り始めた学者がいました。

グラック教授 韓国人の学者ですね。名前は覚えていますか?

ジヒョン 名前は覚えていません。

グラック教授 1980年代後半ですね。例えば梨花女子大学校の尹貞玉がセックスツーリズムの問題に関連して、慰安婦についての研究を発表しました。

スペンサー 日本の学者もその研究をしていたと思います。ヨシミが重大な役割を果たしたことは知っています。

グラック教授 歴史学者である吉見義明が慰安所への軍関与を示す資料を発見しましたが、彼はなぜその資料を探しに行ったのでしょうか。

サトシ 河野談話がきっかけだったかもしれません。

グラック教授 面白い視点ですが、少し違います。1991年に韓国の元慰安婦3人が日本政府に補償を求めて提訴したことを受けて、1992年に吉見が資料を発見し、翌1993年に自民党の河野洋平(内閣官房長官)が旧日本軍の直接的・間接的関与を認めた上で謝罪と反省を表明したという流れです。

いわゆる「河野談話」はそれ以来、大きな論争を呼んできましたが、なぜ彼はこうした談話を発表したのでしょうか。 自民党が慰安婦問題についてどうしても謝罪したかった、ということではないでしょう。何があったのですか。前回の内容から、記憶に変化を起こすのは誰だったでしょうか。



クリス 政治家ですか?

グラック教授 慰安婦の場合は、違います。韓国政府は初め、慰安婦問題を無視しようとした、という話が先ほど出ていましたね。慰安婦が人々の共通の記憶に入ってくる前の1990年代初めにさかのぼってみましょう。慰安婦を「問題化」しようとしていたのは、日本政府や韓国政府だったでしょうか。

コウヘイ メディアでしょうか。新聞とか?

グラック教授 メディアは、起きたことを積極的に報じてはいました。では、報じられるような行動に出ていたのは誰だったでしょうか。

スコット 利益団体ですか?

グラック教授 そうです。そういったグループを何と呼んでいましたか?

数人 「記憶の活動家」

グラック教授 そのとおり。民間の領域に属する、いい意味での、記憶の活動家ですね。特に1991年に元慰安婦3人が訴訟を起こした後に運動が活発化して、慰安婦が「問題」化したのです。慰安婦問題を顕在化させようとしたのはどのような人たちでしたか。

ダイスケ 人権活動家ですか。

グラック教授 人権活動家もそうですね。ほかには?

トム フェミニスト?

グラック教授 はい。第二波フェミニズムではなく、その後である1990年代のフェミニズムです。1995年に北京で国連主催の第4回世界女性会議が開かれ、有名なスピーチで「人権とは女性の権利であり、女性の権利とは人権なのです」と語られたように、この頃には人権としての女性の権利がさまざまな枠組みで大きく取り上げられるようになっていました。

戦後50周年の1995年には慰安婦が政治問題化しており、北京では女性の権利と結び付けられることになりました。では、人権活動家やフェミニストとはどのような立場の人たちでしたか。

ヒロミ 人権を侵害された人たちの家族でしょうか。

グラック教授 そうではありません。実は、NGO(非政府組織)だったのです。グローバル化が進展した1990年代には国際的な市民ネットワークが広がり、いわゆる「グローバル市民社会」が拡大し続けていました。1990年代の韓国で、元慰安婦を支援しようとした記憶の活動家とはどのような人たちだったか分かりますか。韓国の人たちが、日本について考えたときに思い浮かべたことは何でしょう。

クリス 植民地支配でしょうか。

グラック教授 そうですね。韓国にとっては、日本に植民地にされていたという背景が重要です。韓国のある元慰安婦の支援団体の名前は「韓国挺身隊問題対策協議会」と言います。挺身隊という言葉は「日本統治下で強制労働させられた」という意味合いが強いです。つまり、韓国では植民地支配という視点からも慰安婦問題の活動が行われていました。

日本では、1998年に「『戦争と女性への暴力』日本ネットワーク」という団体を設立した松井やよりという女性が慰安婦問題に取り組んでいましたが、彼女たちの活動は、植民地支配というより女性に対する暴力というフェミニズムの視点に基づいていると言えそうです。では、1990年代から北米で慰安婦を支援している、とても影響力のある記憶の活動家は誰でしょう。



ニック 韓国系アメリカ人や中国系アメリカ人ですか。

グラック教授 そのとおりです。韓国系アメリカ人、韓国系カナダ人、中国系アメリカ人と中国系カナダ人です。では、彼女たちの活動が行われている背景にあるものは何でしょうか。

コウヘイ 人種問題でしょうか。声を上げることでアメリカでの自分たちの立場を強めたい、ということなのかと。

グラック教授 彼女たちがアメリカで声を上げ始めた背景には、1990年代にアイデンティティー・ポリティクスが盛んになったという事情がありました。アジア系アメリカ人たちは元慰安婦のために活動しているとはいえ、一方で慰安婦問題が自分たちのアイデンティティー・ポリティクスの一部になっていると言えます。

カリフォルニア州選出の下院議員マイク・ホンダが、2007年、「従軍慰安婦問題の対日謝罪要求決議」を下院に提出したのはなぜなのでしょう。ホンダは日系アメリカ人なのに、なぜ日本を非難する決議を求めたのか、考えてみてください。

スペンサー アジア系アメリカ人の票が欲しかったからですか。

グラック教授 そうです。彼の選挙区には韓国系アメリカ人や中国系アメリカ人がたくさんいたからです。つまり国によって、慰安婦問題を取り上げる背景というのは違うものなのです。背景は違えど、コウヘイが指摘してくれたようにこの問題をメディアが報じると、「公の」問題として注目されるようになります。

証言者たちが果たした役割

グラック教授 重要なポイントに近づいてきました。これまでは、記憶の活動家について話してきましたね。では、元慰安婦自身は記憶をつくる上でどのような役割を果たしたのでしょうか。

1991年に3人の元慰安婦が名乗りを上げ、日本政府を相手に訴訟を起こしたことで、元慰安婦たちの長い沈黙が破られました。それから、一人、また一人と自分たちの話を語り始めました。終戦直後はトラウマあるいは不名誉という思いがあって、語ろうとする人は少なかったでしょうが、なぜ1990年代には話せるようになったのですか。

ディラン 女性に対する暴力について、社会の態度が変わったからですか。

グラック教授 それは一つの要因ですね。では、元慰安婦たちがそれぞれ一人で声を上げていただけだったら、その声は社会に響いたでしょうか。

数人 ノー。

グラック教授 なぜ彼女たちの声が注目を集めることができたのか。記憶の活動家も、重要な役割を果たしたのです。前回の講義で個人の記憶の話をしましたが、個人の過去について話せない理由としては、トラウマがあるという心理的な要因も、誰もその声に耳を傾けたがらないという社会的要因もあります。ですが、今は社会が聞く耳を持つようになった。それがあってやっと、元慰安婦たちが口を開くことができるようになりました。ほかに、彼女たちが話せるようになった理由は何でしょうか。



ダイスケ これが理由であってほしくはないですが、補償してほしかったということはありますか。

グラック教授 元慰安婦たちが証言した主な目的は、補償を求めることよりも自分たちが苦しんだ過去を公然と認められるようにする点にありました。補償というのは、訴訟の際に出てくる考えですね。

ニック 終戦から1990年代まで長い時間が経過して被害者の家族たちが亡くなったことで、家族に押される烙印を心配する必要がなくなったからではないですか。

グラック教授 そうですね。理由の一つは、証言をしたときに元慰安婦たちが年を召していたこと。退役軍人を含め、年を重ねて人生のある時点に来ると、十分な時間が経ったとか最後のチャンスであるという理由で、話したくなることもあります。証言した元慰安婦たちのうち何人かは、夫が亡くなってから話そうと思っていた、と明かしました。20歳の時には話せなかったことを話せるほどに高齢になっていたのです。

では彼女たちが何を求めていたかと言えば、公に知ってもらいたい、自分たちの話を伝えてほしいということです。日本政府による認知、謝罪、補償、そして次の世代への教育です。この四つは、ホロコースト犠牲者の家族や強制労働者など、第二次大戦の被害者が求めているものと同じです。

歴史というのは、通常は史料に基づいて書かれるものです。それが、この頃にはオーラルヒストリー(口述歴史)や証言が「認められる」ようになり、「証言の時代」とも呼ばれました。ではなぜ、慰安婦の証言は認められるようになったのですか。

トム 以前から慰安婦の存在は皆知っていたのに、慰安婦自身は声を上げていなかったところ、声を上げ始めたからでしょうか。

スコット 日本政府が史料を廃棄していたからでしょうか。

グラック教授 終戦時、たしかに日本政府は史料を廃棄しましたが、史料を廃棄するのは日本だけではありませんよ(笑)。それが理由ではありません。慰安婦について、そもそもどれほど史料があったと思いますか。

一同 全く(なかった)!

グラック教授 そのとおり。特に性的暴力というのは、一般的には「記録化」されていない性質のものです。強姦の記録が、史料として残っているでしょうか。そんななかで、慰安婦のような被害者の声によって何が起きたのかが明るみに出ることがあります。

※第3回に続く:韓国と日本で「慰安婦問題」への政府の対応が変化していった理由

※第1回はこちら:「慰安婦」はいかに共通の記憶になったか、各国学生は何を知っているか


『戦争の記憶 コロンビア大学特別講義―学生との対話―』
 キャロル・グラック 著
 講談社現代新書




キャロル・グラック(米コロンビア大学教授)

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