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イギリスが強硬離脱すれば、南北アイルランドは統合へ向かう

ニューズウィーク日本版 2019年8月13日 16時25分

<北アイルランド紛争が終結して20年余り、EU離脱で国境が復活すれば南北統合の機運は高まる>

丘を越え、緑の草原や深い森を抜けて延々500キロ。英領北アイルランドと南の独立国アイルランド共和国を分かつ国境線を車で走破するのは楽じゃない。カーナビは役に立たず、携帯電話の電波も時に途絶える。村の一本道かと思えば泥んこの農地を突っ切り、境界が分からない場所も多い。

今はそれでも困らない。国境を越えたかどうかは、道路標識を見れば一目瞭然だ(制限速度の標示が、北ならマイル、南ならキロで書いてある)。しかしそう遠くない昔には、この国境沿いに208カ所の検問所があり、あちこちに爆弾の炸裂した痕があった。丘の上にはイギリス軍の監視塔があり、その下で何度も銃撃戦が繰り返され、人の命が奪われていた。

1960年代後半から30年以上も続いた北アイルランド紛争では、約3600人が犠牲になった。南の独立国と一緒になりたい「共和国派」にも、イギリスとの連合王国を維持したい「統一派」にも強力な民兵組織があり、イギリスの軍隊や警察もいた。犠牲者の多くは、この国境地帯で命を落とした。

その悲しみと怒り、そして後悔の念を、今こそ胸に刻むべきだろう。「どんな大義があったにせよ」、と言ったのは北アイルランドの歴史家ニール・オブライエンだ。「そんなものは一滴の血にも値しなかった」

そのとおり。北アイルランドの平和(と、それなりの繁栄)は多くの血であがなわれた。しかし今、それが新たな脅威にさらされようとしている。

「ブレグジット(イギリスのEU離脱)のせいだ」と、英クイーンズ大学ベルファスト校教授のコリン・ハーベイは言う。「イギリスがEU離脱を決めてから状況は急激に悪化した」

アイルランドの寛容化

北アイルランドとの「連合王国」を形成するイギリスが10月末に合意なき離脱に踏み切れば、この国境線はその日から、再び越えられないものとなる。北アイルランドは連合王国の一部としてEUを離脱することになるが、南のアイルランド共和国はEUの忠実な加盟国だ。この分断は経済から政治、治安の問題まで深刻な影響を及ぼす。

それだけではない。いざEU離脱となれば、北アイルランドの人たちは「自分はどこの国の人間か」という深刻な問いを突き付けられることになる。この島は南北に分断されているよりも、統合されたほうが幸せなのではないか。和平成立後は忘れられていたそんな疑問が、再び頭をもたげている。



国境の建造物に描かれた「ハードボーダー反対」の文字(北アイルランドの国境の村ジョーンズボロー) CLODAGH KILCOYNE-REUTERS

こうした論争は、今や親英派か親アイルランド派かという従来の対立軸を超えて広がっている。穏健な親英派を代表するアルスター統一党(UUP)の前党首マイク・ネスビットでさえ「親英派住民の多くが、南北統合でEUに残るべきか、EUを離脱してイギリスに残るべきかで悩んでいる」と語る。

アイルランドの南北統合というテーマは、ブレグジットをめぐる大混乱がもたらした予期せぬ副産物と言えそうだ。

北部のアルスター6州(英領)と南部26州を隔てる国境は常に争いの種だった。1921年に引かれた境界線は、もともと「国境」ではなく、イギリスの自治領を分かつ境界だった。

だから敵の襲撃に備える防衛線ではなく、地元の領主が持つ土地の境界線をなぞっただけ。結果、北はイギリスに忠誠を誓うプロテスタントで自分はイギリス人だと思う人の土地となり、南はカトリックで自分はアイルランド人だと思う人の土地となった。

当然のことながら、南にいるアイルランド人の多くはこの分割を受け入れていない。北にも少数派ながら自分はアイルランド人だと信じるカトリック教徒がいるが、彼らは多数派の親英プロテスタントから無慈悲な差別を受けることになった。

紛争は1998年に、いわゆるベルファスト合意で終結を迎えた。この合意にはイギリス政府とアイルランド政府、そして現地のプロテスタント系政党とカトリック系政党の大半が署名し、南北アイルランドの国民投票によって承認された。

ネスビットによれば、この合意の特筆すべき点は北アイルランド住民に、自身の帰属を選ぶ自由を認めた点にある。そこには「イギリス人でもアイルランド人でも、その両方でもよく、そこには何の上下関係も存在しない」と記されていた。

その後の歳月において、この寛容さは長年にわたる党派的・民族的な分断を癒やすのに役立った。英リバプール大学教授で両国関係に詳しいジョン・トンジによれば、今年に入ってからの世論調査では「北アイルランド住民の50%前後が、自分は親英でも親アイルランドでもないと答えている」。この数字は1998年の和平合意時点では約33%だったし、紛争の続いていた時期にはもっと低かった。



一方、南北アイルランドが統合されたら厳格なカトリック教会の支配下に置かれるというプロテスタント系住民の昔ながらの懸念は、南の社会の劇的な変化によって薄らいでいる。カトリックのアイルランドは2015年に同性婚を合法化、昨年には中絶も自由化し、今や北よりも寛容な社会になっている。「今のアイルランドは近代的な多元主義の民主国家だ」とトンジは言う。

北の世論は「EU残留」

人口動態の問題もある。かつての北アイルランドでは親英派のプロテスタントが大半を占めていたが、今は違う。親アイルランドのカトリック教徒の人口がプロテスタントと同じレベルに近づいている。

EU離脱の是非を問う2016年の国民投票では、北アイルランドの親英派の3分の2が離脱を支持する一方、親アイルランド派の約85%はEU残留に票を投じた。結果、北アイルランドに限れば「残留派」が多数を占めた。

それでも「イングランド人の票で離脱が決まった」と言うのは、シンクタンク「変わりゆくヨーロッパのイギリス」のニコラ・マキューエン。北アイルランドの人口はイギリス全体の3%にすぎないが、イングランドの人口はイギリス全体の84%。数では勝てない。

ブレグジットが決まった時点で、1998年の和平合意の理念は破棄されたに等しい。マキューエンは言う。「北アイルランドの詩人ジョン・ヒューイットの言葉を借りるなら、『私はアルスターの男でアイルランド人でイギリス人、そしてヨーロッパ人だ。どれか1つでも欠ければ私は否定される』のだ。ところがブレグジットは、私たちのこうしたアイデンティティーを突き崩す。おまえはアイルランド人でもヨーロッパ人でもあり得ないと宣告されるに等しい」

そして経済の問題がある。北アイルランド経済省の7月の報告によれば、イギリスの合意なきEU離脱は「直ちに極めて深刻な影響」をもたらす。人口180万人の北アイルランドで約4万人分の雇用が失われかねないという。

「あらゆる経済指標が既に下降している。どこまで下がるか分からない」と、ベルファストにあるネビン経済研究所のポール・マクフリンも言う。ちなみにブレグジットの国民投票以来、北アイルランドの公用通貨である英国ポンドはユーロに対して15%、米ドルに対して17%も下落している。

南北の統合を求める声

南側にも影響はある。アイルランドのサイモン・コベニー外相は7月、合意なき離脱なら5万ないし5万5000人分の雇用が犠牲になると述べた。GDPも大幅に落ち込む可能性があり、合意なき離脱は「あらゆる面で」経済に「深刻な影響」をもたらすという。



南北双方の警察当局も、リアルな国境が復活すれば過激な勢力が武装闘争を再開する可能性があると警告を発している。実際、4月には北アイルランドのカトリック系過激派が女性ジャーナリストのライラ・マッキー(29)を殺害する事件があった。

こうした状況であればこそ、アイルランドの南北統合を求める声が増えている。

「北アイルランド住民の過半数は残留を選んだのに、それでもEUを追い出される。そういう事態だから流れが変わった」とクイーンズ大学ベルファスト校のハーベイは言う。「98年の和平合意はアイルランドの将来に関する住民投票の権利を認めている。今こそ私たちはその準備を始めるべきだ」

4月段階の調査によると、南側では有権者の62%前後が南北統合を支持。一方、北では3月の調査で45%が統合に反対し、賛成は32%にとどまった。ただし「分からない」という回答も23%あった。

「『分からない』派の多くが支持に転じたら僅差の勝負になる」とリバプール大学のトンジは言う。「離脱後に国境管理が厳しくなればなるほど、統合への支持が増えるだろう」

イギリスのボリス・ジョンソン首相は「合意なき離脱」に舵を切っているから、リアルな国境が復活する可能性は高い。それを見越して、アイルランドのレオ・バラッカー首相は7月26日の演説でこう言ったものだ。「皮肉なもので、強硬離脱を選べば(大ブリテンと北アイルランドの)連合王国の団結が揺らぎかねない」と。

そのとおり。トンジも言う。強硬離脱のシナリオは「連合王国の一体性に対する前例のない挑戦を招いている。北アイルランドだけでない。スコットランドやウェールズにも反発がある。30年後も連合王国が今の形で存続しているかと問われれば、極めて難しい問題だとしか答えようがない」。

From Foreign Policy Magazine

<本誌2019年8月13&20日号掲載>


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ジョナサン・ゴーベット(アイルランド在住ジャーナリスト)

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