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不寛容な排他主義:カシミールの自治を剥奪したモディには「裏の顔」がある

ニューズウィーク日本版 2019年8月16日 16時15分

「マハトマ(偉大なる魂)」とたたえられたインド独立の父、ガンジーが、凶弾に倒れる間際まで訴え続けていたヒンズー、イスラム両教徒間の融和が今、崩れ去ろうとしている。

ヒンズー至上主義のインド人民党(BJP)の単独政権を率いるナレンドラ・モディ首相(68)が、イスラム教徒が多い北部ジャム・カシミール州の自治権を強引に剥奪した。人口14億人近い多民族・多宗教国家インドで、その8割を占めるヒンズー教徒の立場ばかりを擁護する「ヒンズー・ナショナリズム」が暴走し始めた。

世界を見渡せば、トランプ米大統領が「米国第一」を唱えて少数派の人々を排撃している。欧州連合(EU)離脱を決めた英国をはじめ、欧州各国では移民排斥の風潮が広がっている。中国もイスラム教徒の少数派ウイグル族に対する弾圧を強めている。こうした不寛容な排他主義の波が、南アジアにまで押し寄せてきた。

パキスタン首相、「人種差別」と非難

カシミール地方は世界の屋根、ヒマラヤ山脈の西方に位置する風光明媚(めいび)な山と渓谷の地だ。とりわけインド側にあるジャム・カシミール州の中心都市スリナガルは、古くから避暑地として知られ、夏には多くの観光客でにぎわう。

ところが、このところ街中から人影がほとんど途絶え、商店街のシャッターは日中も降ろされたまま。有刺鉄線が張られた道路で検問が行われ、銃を手に警戒中の治安部隊が目を光らせている。

この異様な光景をもたらしたのが、8月5日、インド政府が突如布告した自治権剥奪だった。6日には上下両院で、同州に特別な自治権を認めていた憲法370条の規定を削除し、二つの連邦直轄領に分割する法案が可決・成立した。

これにより、1947年8月に英領インドからインドとパキスタンが分離独立した後も70年余にわたって住民が享受してきた自治は消滅した。

カシミール地方は、住民の大半がイスラム教徒だが、分離独立の際、この地を治めるヒンズー教徒の藩王はインドへの編入を望んだため、インドとパキスタンの最大の火種として、3度にわたる印パ戦争の戦場になった。

自治権が与えられた背景には、意に反するインド編入への住民の不満を和らげる狙いもあったとされる。しかし、モディ首相は8月8日の国民向け演説で、この自治権を利用してパキスタンが住民の反インド感情をあおってきたと非難し、それを剥奪すれば「ジャム・カシミールをテロや分離主義から解き放つことができる」と今回の措置を正当化した。



だが現地では、抗議行動を防ぐために治安部隊が増強され、何百人もの政治家や活動家が身柄を拘束された。電話回線が遮断され、インターネットの接続も規制を受けている。このように一方的な弾圧で、本当にカシミールを安定させられるのか。パキスタンのイムラン・カーン首相は、インドの対応を「人種差別政治」「民族浄化」と強く非難した。

ガンジー暗殺犯も宗教過激派

ガンジーやネール(初代首相)らが率いた独立運動の政党、国民会議派は、多民族・多宗教国家を守るために、インド憲法に信教の自由の保障と宗教による差別の禁止を盛り込み、政教分離のセキュラリズム(世俗主義)を国是に掲げた。一方でインドには、ヒンズー教を絶対的なものと考え、イスラム教徒など少数派を敵視する右翼的なヒンズー・ナショナリズムも早くから存在していた。

独立達成から間もない1948年1月、ガンジーを暗殺したのは、このようなヒンズー至上主義団体の民族奉仕団(RSS)に所属していたとされる男だった。印パ分離独立後もイスラム教徒との対話のために奔走を続けるガンジーのことを憎悪していたという。

実は、このRSSの事実上の政治部門と見なされているのがモディ現政権の与党BJPだ。独立以来長く与党だった国民会議派の人気に陰りが見えた1980年代の末以降、BJPは急速に台頭した。

筆者は当時、時事通信社のインド特派員としてこの動きに注目し、1989年11月の総選挙の選挙戦取材で、首都ニューデリー市内をBJPの宣伝カーについて回ったことがある。資金力にものをいわせて派手な演出をする国民会議派のキャンペーンと違って、BJPの運動は下町の家々を一軒一軒訪ねる典型的なドブ板選挙。夜には商店街の小さな広場で集会を開く。白ひげのアドバニ総裁(当時)が演壇から「国民会議派は腐敗にまみれている。今が変革の時だ」と訴えた。経済開放や都市中流層に対する税の免除を唱え、新鮮なイメージを売り込む演説に、聴衆は熱心に聞き入り、和やかな雰囲気だった。

だがそのころ、首都から500キロ東のヒンズー教聖地アヨーディヤでは、RSS傘下の宗教団体「世界ヒンズー会議」(VHP)が、モスク(イスラム礼拝所)を破壊してその場所にヒンズー寺院を再建しようという過激な運動を開始し、約600人が死亡する流血の惨事が起きていた。これがBJPの「選挙運動」でもあったことは疑いない。

この過激な運動も奏功して、選挙の結果、BJPは下院(定数545)で、それまでのわずか2議席から86議席へと大躍進した。



その後、ヒンズー至上主義者らは1992年、アヨーディヤのモスクをついに破壊した。インド各地で宗教暴動が連鎖的に発生する中、BJPは96年総選挙で国民会議派を破って第一党に躍り出る。98年総選挙にも勝利して、念願の政権を手中にした。

危機扇動で総選挙に圧勝

こうしてBJPは、多数派のヒンズー教徒民衆の琴線に触れるイスラム敵視の運動を踏み台に、国民会議派と勢力を二分する大政党にのし上がった。

BJPが政権を取ったときのインドの政策は、ヒンズー・ナショナリズムを高揚させるような、右翼的で反パキスタンの色彩が濃いものが多くなる傾向がある。

例えば1998年の総選挙勝利からわずか2カ月後、BJPのバジパイ首相(当時)は、西部ラジャスタン州の核実験場で24年ぶりの地下核実験を強行し、「強いインド」を誇示した。それを激しく非難するパキスタンも直後にイスラム圏初の地下核実験を成功させた。新たな核保有国が対峙(たいじ)する南アジアの緊張は一段と高まった。

印パの対立は翌1999年5月から7月にかけて、カシミール地方の停戦ラインのインド側にあるカルギルで武力衝突に発展し、両軍合わせて1000人以上が死亡した。

今回のジャム・カシミール州の自治権剥奪に先立つ今年2月にも、同州プルワマでインド治安部隊40人が殺害される自爆テロが発生した。モディ首相は、パキスタンを拠点とするテロ組織の仕業だとして、1971年の第3次印パ戦争以来48年ぶりにパキスタン領内への越境空爆を命じた。

そして、この強硬姿勢が再びヒンズー教徒民衆から喝采を浴び、BJPはそれを足掛かりに、当初は苦戦も予想された今年4~5月の総選挙で圧勝した。勢いに乗るモディ首相は一気にジャム・カシミール州の自治権剥奪に踏み切った。このようにBJPには、危機を扇動することで党勢を拡大してきた歴史がある。

「裏の顔」が頭をもたげたモディ首相

もちろんBJPも、ヒンズー・ナショナリズムをあおるだけで大政党になったわけではない。モディ首相はもともと西部のグジャラート州の州首相として、外国企業誘致などで地元経済を発展に導いた実績を持つ。2014年総選挙に勝ち、インド首相に就任した後も、毎年7%の経済成長を実現させてきた。

もっともモディ氏は、青年時代にRSSの活動に関わっていたといわれる。グジャラート州首相当時の2002年には、州内で起きた流血の宗教抗争の際に警察を出動させず、住民保護を意図的に怠った疑いがあり、それがヒンズー教徒によるイスラム教徒1000人以上の虐殺につながったとして、イスラム教徒側から反発を浴びた過去もある。



つまり、経済通という「表の顔」と、強硬なヒンズー至上主義者という「裏の顔」を合わせ持っているということになる。

今回のジャム・カシミール州の自治権剥奪では、「裏の顔」が前面に出てきた。折しも世界的にトランプ米大統領らの偏狭なナショナリズムやポピュリズム(大衆迎合主義)がまん延する中、今なら排他的な政策が国際社会で批判されることも比較的少ない。モディ首相はこうした潮流にも便乗する形で、イスラム教徒との融和実現というガンジーの悲願を葬り去った。

それがモディ首相の言うような「平和をもたらすための歴史的決断」なのか、「歴史的大失敗」に終わるのかはまだ分からないが、少なくともカシミールのイスラム教徒住民の反インド感情を一層高めていくことは間違いない。

[執筆者]
杉山文彦(すぎやま・ふみひこ)
時事通信社解説委員兼Janet編集長
ニューデリー特派員、カイロ特派員として、アフガニスタン内戦や中東情勢など途上国の問題を幅広く取材。パリ支局長を経て2012年外信部長。16年10月から編集局総務兼解説委員。18年7月から現職。編著に『世界テロリズム・マップ 憎しみの連鎖を断ち切るには』(平凡社新書)など。

※当記事は時事通信社発行の電子書籍「e-World Premium」からの転載記事です。



杉山文彦(時事通信社解説委員)※時事通信社発行の電子書籍「e-World Premium」より転載

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