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香港の運命を握るのは財閥だ

ニューズウィーク日本版 2019年9月10日 17時0分

<ブルース・リーの「水のごとく」を体現する抗議活動だが指導者不在は当局も同じ。力を持つのは財界有力者だ>

香港映画の伝説的俳優ブルース・リーは、正統派の格闘スタイルを嫌っていた。即興を愛するジャズミュージシャンのごとく、彼は相手の意表を突く攻撃を次から次に繰り出した。リングの中の格闘家ではなく、ストリートの闘士だった。

いま香港のストリートを埋める抗議活動の若者たちも、どこかでブルース・リーの反逆精神と通じているのだろう。リーはかつて「水のようになれ」と言ったが、今の若者たちも水になろうとしている。捉えどころがなく、滴るかと思えば脅威の奔流とも化す水に。

こうした「水のごとき」運動は、抗議活動としては有効だろう。しかし政治的な運動には成り得ない。権力側との取引には向かない。ストリートファイターの常として、一発勝負には勝てても、戦局を変える力は持ち合わせていない。

とはいえ今の香港では、権力側も指導者不在だ。行政長官の林鄭月娥(キャリー・ラム)は9月4日に、逃亡犯条例改正案の全面撤回を表明した。非公開の場で辞めたいと漏らしたことも明らかになった。

中国政府は香港当局の権威を支えているが、直接的に命令することはできない。香港政庁にはデモ隊の要求の大半に応じる権限があるが、その構造的な矛盾ゆえに身動きが取れない。そうなると気になるのは香港経済を支える財界の重鎮たちの出方だが、彼らも一般市民と中国政府の板挟みで、状況を打開する答えを持たない。

指導者も交渉者も不在

「水のごとき」運動は明確な指導者や組織を持たず、参加者がネットを通じて連携するオープンソース型の抗議活動だ。そこにトップダウンの組織はない。行動を呼び掛ける人はいるが、リーダーはいない。何をするかはネット上の投票で決まる。誰もが自分の考えを投稿し、賛成か反対かを表明する。最も多くの票を集めた人が、その場限りのリーダーとなる。

もっと政治的な運動体ならば一定の組織や構造を持ち、具体的な目的を掲げ、目的のための抗議行動を行うはずだ。しかし「水のごとき」運動には顔のあるリーダーがいない。当局に要求を突き付け、当局と交渉する指導者がいない。

そのことに中国側は戸惑っている。国営メディアは誰かを反体制派の指導者に仕立てたい。「ここまでの混乱が生じている以上、庶民を操って世論を形成する反体制活動家や欧米の手先がいるはずだ」と盛んに論じている。だが反体制派の重鎮と目される81歳の李柱銘(リー・チューミン)でさえ、今の若者たちに指導者はいないと明言している。



デモ隊が手にする「傘」は2014年に続き運動のシンボルになっている KAI PFAFFENBACH-REUTERS

香港のデモでは、見る人によって異なる意味を持つさまざまなシンボルが使われている。欧米のポップカルチャーと香港特有の広東語の駄じゃれ、中国本土のデモの文化が入り交じっている。映画の授業で学んだソーシャルメディア活用法を実践することもあり、日本のアニメやアメリカの広告の手法も参照している。彼らは欧米諸国の政治家にダイレクトに訴え掛けようとし、外国の国旗を振ったり、国際的な新聞に広告を出したりもする。身内のチャットルームではフェイクニュースの排除に力を入れている。

そして何よりも、これは香港人から生まれた運動だ。デモ参加者はこう言う。「香港人なら自分で香港を救え」。掲示板やポスター、チャットルーム、バナーには、香港人にしか分からない独特な広東語の漢字が躍っていることも多い。

美意識も独特だ。いざ抗議デモに向かうときは全員が服装を黒で統一する。集結地点に向かうために乗り込んだ地下鉄の車内が真っ黒になるほどだ。

抗議活動を終えて帰るときは着替えて、一般の乗客に紛れ込む。地下鉄駅構内のトイレには事前に、着替えを入れた袋が用意されている。そして主要な駅構内の通路には、彼らを支持する文言を記した大きな付箋が所狭しと貼られている。

対する中国政府の意思伝達方法は全く違う。報道機関は共産党機関紙「人民日報」の論調に従う。どの新聞も記事については党宣伝局の承認を得なければならない。中国本土の庶民は交流サイト(SNS)をよく利用しているが、これも検閲される。政府の見解を代弁する書き込みをして稼ぐやからもいる。

そんな事態を許せないから、香港の若者たちは体制側の報道を信用しない。メッセージアプリのテレグラムを利用する若者たちはファクトチェック(事実確認)のセグメントを立ち上げ、自分たちの撮った動画で官製ニュースに反論している。

命令しないが妥協もせず

中国政府から香港への意思伝達には構造的な問題がある。直接の命令はできないから、しかるべきサインを用いて指示を送らざるを得ない。

「一国二制度」の建前を掲げる以上、中国政府は香港の既存制度を受け入れつつ実効支配を維持しなければならない。香港で選挙をすれば必ず民主派候補が一般投票で勝つが、彼らが行政長官を指名することはできない。長官候補は上から決められた「選挙委員会」を構成するさまざまな職能・社会団体の意向で選別されている。

中国政府が香港当局に直接の命令を出すことはないようだ。中国本土では、共産党支配は明瞭な命令と大まかな指示の二本立てで、中央からの漠然とした要望に現場は忖度で対応する。



もちろん林鄭も、中国政府の出先機関である駐香港特区連絡弁公室から直接に命令されることはない。目的なり目標なりを示されるのみで、あとは本人が最善を尽くすしかない。

つまり、指導者なき抗議活動が相手にしている香港政庁の指導者に実権はなく、遠く離れた北京政府の指示に従うしかないが、あいにく北京は具体的な命令を出さず、それでいて妥協ということを知らない。

中国は香港でもトップダウンの支配を試みた。思想とエリート層を支配すれば国民全体を従わせることができると考えたからだ。しかし香港は違った。今どきの世界のご多分に漏れず、住民は政府機関や伝統的な指導層を全く信用していない。

抗議の若者たちはこの現実を百も承知だ。中国政府の側もそれを承知していて、だからこそ香港に大人数の調査チームを送り込み、地元政財界のエリート層から事情を聴取している。

いったい誰なら事態収拾に向けた手を打てるのだろう。期待できるのは香港財界の大物たちか。彼らは基本的に体制側だが、彼らの会社や資産はまだ抗議の標的になっていない。

香港の上流階級と並んで、財閥系の大物たちにはまだ一定の影響力がある。この夏の混乱で一定の損害を被ったのも事実。彼らに政治的な権限はないが、社会的・経済的な面で彼らにできることはあるはずだ。

その筆頭は土地問題だろう。デモ隊はこんな落書きを残している。「ベッド1台がやっとの部屋にしか住めない私たちが、独房送りを恐れると思う?」

香港の不動産がべらぼうに高いのは、地価下落で損をしたくない財閥や富豪が土地を手放さないからだ。土地の放出は、経済・社会的開発がデモ隊の怒りを鎮める唯一の手段と考える中国政府の見解に一致しそうだ。

それに手詰まり感もある。公立病院で入院費の約90%が公的資金で賄われていることからも分かるように、香港の社会保障や福祉サービスはかなり充実している。ということは、その方面の支援をこれ以上増やしたところで、事態が好転するとは考えにくい。

鍵となるのは財界の動き

選択肢は2つ。1つは財閥が自ら土地を差し出すか、中国政府が(マカオと珠海市の間で行ったように)香港と隣接する広東省政府に掛け合って広大な用地を提供させ、公共住宅を建設するというもの。これなら財閥も開発を受け入れやすい。



もう1つ考えられるのは立法からのアプローチだ。市民とは異なり、財界の大物たちには香港立法会(議会)の代表を通じて、政策や行政長官の任命に意見を言う正式なルートがある。林鄭は、重要な判断については事前に彼らの意見を聞く。

また立法会の「職能別議席」は、産業界ごとの投票による間接選挙だ。香港の不動産業界の代表は、業界の一般労働者ではなく企業の所有者、つまり財閥が選んでいることになる。

彼らが委員会や行政長官任命に関わる自分たちの権限の一部を手放せば、立法会はもっと民主的になるはずだ。そして中国政府が交渉すべき相手もはっきりするかもしれない。

中国政府は香港財閥を好ましく思ってはいない。だがそれでも、抗議デモが起きると真っ先に、深圳と香港の境界越しに彼らに助言を求めた。財閥は今なお中国政府と香港の仲介役として重要な役割を担っている。

どちらの道を選んだとしても、デモ隊からの賛同を得る必要があるだろう。彼らは、抗議デモを続けるもやめるも自分たち次第だと考えている。

若いリーダーの1人は林鄭にこう訴えている。「私たち市民は、政府と交渉し、問題に効果的に対応するために必要な手段も能力も持ち合わせている。つまり香港市民こそが、この運動における交渉相手なのだ」と。とはいえ、それで話がまとまるかどうかは別問題だが......。

確かに、ここに示した選択肢はどちらも現実離れしているように見える。しかしブルース・リーが今の若者たちの抗議活動のシンボルになっていること自体、現実離れしている。

この香港出身の大スターは、自身も裕福な実業家一族の出だった。父親は不動産の取引で財を成した。「水のごとき」という考えは行き場のない不満から生まれた。のちに名声を手に入れることになるアメリカへ向かう直前に、彼は書いている。

「私は諦め、一人で海にこぎだした。海で、今までの武術の修行を振り返り、自分に怒りを覚え、水にパンチを食らわせた。そのときだ。水のごとくありたいと思ったのは」

水は流れて、どこへ行くのだろうか。

From Foreign Policy Magazine

<本誌2019年9月17日号掲載>

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ライアン・マニュエル(元豪政府中国アナリスト)

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