Infoseek 楽天

六本木・銀座は基地の街だった──売春、賭博、闇取引が横行した時代

ニューズウィーク日本版 2019年9月27日 16時45分

<機密資料が公開され、敗戦直後の1年、すなわち「戦後ゼロ年」の闇に光が差すようになった。それは、米軍の将校とヤミ商人が結託し、好き放題に稼いでいた時代だった>

「戦後」と聞いて、高度成長期の繁栄、東京オリンピックや日本万国博覧会の熱狂などを思い浮かべる人は少なくないだろう。それは「廃墟から見事に復興を成し遂げ、世界有数の経済大国として平和と繁栄を実現した日本」というサクセスストーリーを浮かび上がらせるからだ。

しかし、2017年8月に放送されて話題を呼んだNHKスペシャルを出版化した『戦後ゼロ年 東京ブラックホール』(貴志謙介・著、NHK出版)においては、全く異なった「戦後」の側面に焦点が当てられている。

イメージの中にある華やかな戦後日本などではなく、敗戦直後の1年、すなわち「戦後ゼロ年」である。その時代は通常、高度成長期の"前座"として過去の遺物のように見なされているが、決してそうではないというのだ。

近年、戦後ゼロ年に関する機密資料が相次いで公開された。それによってこれまでは推測の域にとどまっていたことを含め、戦後ゼロ年の闇に光が差すようになったのである。

 たとえば、占領軍は、表向きは「日本を民主化し、軍国主義者を追放する」政策を推進したが、裏では大本営の参謀を戦犯の訴追から外し、資金を与えて対ソ諜報戦の手先にしていた。米軍の諜報機関に囲い込まれた軍や特務機関の残党は、密輸や謀略を重ね、ひそかに影響力を拡大していく。彼らは「地下政府」と呼ばれ、占領軍と結託して、戦後社会に暗躍した。 あるいは、上海の特務機関にいた右翼が、中国で略奪した財宝を政治家や米軍にばらまいて戦後の保守政治のパトロンになった。

つまり戦後ゼロ年は、戦前のしがらみを断ち切った年ではない。むしろそれを温存し、戦争を推進した旧支配層と米軍の密着が始まった年であったのだ。そこでは軍国主義の残党、ヤミ成り金、官僚や政治家を問わず、占領軍に深く食い込んだ者だけが生き延びた。

戦後の東京がいかにして成り立っていったかの経緯も、戦後ゼロ年を知ることで明らかになるという。事実、銀座・六本木・原宿は"基地の街"であり、占領軍に接収された施設や米軍住宅が多く、治外法権の「東京租界」を抱えていたのだ。

そこでは米軍の将校とヤミ商人が結託し、闇ドル、麻薬、売春、賭博、闇取引によって好き放題に稼いでいた。

東京の戦後史の底には、根深く戦後ゼロ年の遺産が眠っているにもかかわらず、多くは見えなくなってしまっている。 たとえば、六本木。 この一帯は、戦前、歩兵連隊が集中していたエリアで、いわば軍の"城下町"であった。占領後は、陸軍の施設の大半が接収され、代わってアメリカ第八軍の宿舎ができ、周囲は植民地の租界を思わせる街へ変貌する。「最先端の流行を発信する街・六本木」の原型は、このときにできた。米軍兵士の暴力沙汰やヤクザの発砲事件が頻発し、米軍相手のいかがわしい店が激増した。 コザ(現・沖縄市)や横須賀と同様の、典型的な"基地の街"の雰囲気に覆われ、何か事件が起きるたびに「六本木界隈」という文字が新聞に躍るようになった。(15〜16ページより)



六本木は接収によって流入したアメリカ文化の産物であり、都心に忽然と出現した「東京租界」だったということだ。しかし当然ながら、それは六本木に限った話ではない。

「モンペ姿で銃後を守っていた」女性が「鬼畜米英」のダンスパートナーに

加えて注目すべきは、そこで生きた日本人たちの姿である。米軍が接収した都市空間は「オフリミット」(日本人の立ち入りが禁止された"聖域")だったが、焼け跡で食いつめた日本人は、そこに生き延びるチャンスが転がっていることに気付いたのだ。

 GHQのお膝元である銀座界隈には、占領軍の兵士を当て込んだ土産物屋、靴磨きから闇ドル交換、得体の知れない秘密クラブにいたるまで、占領軍兵士を客にしてかせぐ日本人が群がった。 銀座界隈は、急速に、そして濃厚にアメリカの植民地のような様相を呈し始め、「リトルアメリカ」と呼ばれるようになった。横文字が氾濫し、銀座の通りの名前はすべてアメリカ風に書き換えられた。たとえば、尾張町の交差点(銀座四丁目)は「タイムズスクエア」。銀座通りは「ニューブロードウェイ」、内幸町の電車通りは「Aアベニュー」といった具合である。(148ページより)

敗戦の年の11月、銀座に占領軍専用のキャバレーやダンスホールが登場すると、ダンスや酒の相手を務める日本人女性が大量に雇われ、熱狂的なダンスブームが巻き起こる。銀座松坂屋の地下に誕生した「オアシス・オブ・ギンザ」は100坪以上、日本でも一、二を争う大きさで、在籍ダンサーは300人以上に達した。ところがそのほとんどが、ダンスの未経験者であったという。

「ほんの数十日前まで彼女達は防空ズキンをかぶり、モンペ姿で銃後を守っていたのである」と「ダンスファン」(一九八七年三月号)という専門誌で回想しているのは、「オアシス・オブ・ギンザ」の支配人を務めていた川北長利。 「それが一転して鬼畜米英と教えられた国の兵隊のダンスのパートナーになる......。暗たんとした気持ちになったのは私ひとりの感傷だったかも知れないが」(同)(153ページより)

だが、ダンサー志望の若い女性は絶えることがなかった。当時、女性にとってはこれほど高収入が約束される仕事はなかったからだ。

華やかな空間から一歩外に出れば、目の前に広がるのは深い闇に包まれた焼け跡。浮浪児が街頭で眠り、強盗が物陰で息を潜める廃墟に、突如としてゴージャスなアメリカンスタイルのダンスホールが続々と出現し、そこで女性たちが働いていたのである。

しかも煌々としたネオンの輝きを眺め、路上に漏れてくる嬌声に耳を傾けることこそできても、決して内部に足を踏み入れることはできない。



 焼け残った目ぼしいビルのあれこれが、大抵は、僕たちは淋しく、聞こえてもこない、アメリキャン・ジャズのメロディをあれこれと想像して、出入りするあちらの兵隊さん、日本の娘さんの足どりに、うたた敗戦の現実を、身に沁みこませているのだが、歌え! 太陽と朗らかには、ちょいとなれない。 早く云えば、みんな食うための、生活のための接客婦であり、ダンサアなんですよ......(略)[踊っているのは]失業した女工さん、収入のあてのない若い未亡人、生活苦のショップ・ギャアル(山本武利ほか編『占領期雑誌資料大系 大衆文化編1』所収、岩波書店)(156ページより)

これは当時の雑誌「新生活」(二号、一九四六年二月発行、新生活社)に掲載された漫画家・富田英三のエッセイだが、あの頃の空気感を見事に言い表している。

いずれにしても、租界と化した戦後ゼロ年の東京の真実を映し出した書籍としての本書の価値は大きい。

東京五輪後の日本がどうなってしまうのかという不安感が世間を覆う今だからこそ、なおさら読んでみる価値はある......とは、あまりにこじつけがすぎるであろうか。


『戦後ゼロ年 東京ブラックホール』
 貴志謙介 著
 NHK出版


[筆者]
印南敦史
1962年生まれ。東京都出身。作家、書評家。広告代理店勤務時代にライターとして活動開始。現在は他に「ライフハッカー[日本版]」「東洋経済オンライン」「WEBRONZA」「サライ.jp」「WANI BOOKOUT」などで連載を持つほか、「ダ・ヴィンチ」などにも寄稿。『読んでも読んでも忘れてしまう人のための読書術』(星海社新書)をはじめ、ベストセラーとなった『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)、『世界一やさしい読書習慣定着メソッド』(大和書房)、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)など著作多数。

印南敦史(作家、書評家)

この記事の関連ニュース