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自由と銃とアメリカ史──憲法発祥、マグナ・カルタの地で考えた「銃所有」の意味

ニューズウィーク日本版 2023年9月4日 17時55分

<「自由の制定」であるマグナ・カルタ署名の地を訪れて、アメリカの銃所持について思考を巡らせたわけ>

最近僕は、何年もやりたいと思っていたことを実行に移した。マグナ・カルタ署名の地である(イングランド南東部サリーの)ラニーミードを訪れたのだ。マグナ・カルタ成立はイギリス史にとって、そしてもちろん世界史にとっても大きな出来事だった。壮大な言い方をすれば、1215年のこの日は「憲法というものが誕生した日」と呼べるだろう。自由の制定における重要な瞬間だ。

僕はちょっとした歴史オタクだから、今までラニーミード訪問に至らなかったのが不思議なほどだ。弁解すると、僕は現存する4つのマグナ・カルタの「原文」のうち3つを見たこともある。2つはロンドンの大英図書館で、もう1つは普段リンカン大聖堂(イングランド東部)に所蔵されているものが2015年に800周年記念でベリー・セント・エドマンズ(イングランド南東部)にやってきた時に見に行った。この街では1214年、男爵たちが集まり、ジョン王に自由憲章を受け入れさせることを誓った。

 

さらに弁解するなら、ラニーミードはイギリス人の多くがわざわざ訪れようとするような場所ではない。僕がラニーミードに行ったと誰かに話せば、10人中9人は「そこで何が?」と聞くと思う。誰でも歴史の授業でマグナ・カルタを習っているから、彼らはもちろん言われれば漠然と思い出すだろう。

ラニーミードで自分がいったい何を「感じ取る」のか、予想もできなかった。わりと近くに滞在する機会があったから、この地を訪ねたまでだ。ところが、この訪問で思いもよらなかった方向に考えが進み、自分でも本当に驚いた。

銃を所持するアメリカ人の頭の中

第一に、ラニーミードのマグナ・カルタ記念碑を作ったのは僕たちイギリス人ではなかった。建てたのは米国法曹協会で、1957年のことだ。それ以前は単なる田舎の一角だった。ここがどんなに偉大な場所だったか、外国人が僕たちイギリス人に教えてやる必要があったわけだ。特に、アメリカ人が。アメリカ人は自由獲得に向けた歴史の歩みに本当に夢中になるからだ。さらに具体的に言えば、アメリカ人の弁護士たちだ。彼らは、僕たちの多くが日ごろ当たり前だと思ってしまっている「法の支配」と「法の下の平等の原則」の重要性をよく理解している。

僕にはたまたまアメリカ人の、しかも弁護士をしている親友がいて、いつしか僕は彼のことを考えはじめていた。彼が以前、議論めいた調子でこう聞いてきたことがあるからだ。「集結した男爵たちがもしも武装していなかったら、ジョン王は果たしてマグナ・カルタに署名したと思うか?」

このとき彼は、武器保有の権利を規定したアメリカ合衆国憲法の修正第2条を擁護していた。

多くのイギリス人、それに日本人も、アメリカの銃社会の現状には愕然としているだろう。最新の「銃乱射事件」でなければほとんどニュースにもならないくらい、大量銃所持による暴力が日々続いている。僕は本能的に、自分の国は決してこんな状況になってほしくないと考える。でも銃を所有するアメリカ人がみんな「頭のおかしいヤツ」だと決めつけてかかることもしたくない。彼らの考え方には、あまり理解されていないが何かしらの論理があるのだ。

修正第2条は自己防衛の権利について述べているものではないので、「大量銃所有は事実、社会の安全を損なう」という主張は的を射ていない。狩猟目的での銃所有の議論も修正第2条とは関係ない。修正第2条は、武装した市民は自由社会の維持のために欠かせないものであるから、と述べている。奇妙な言い分かもしれないが、第一にこれは、アメリカの歴史から育て上げられた考え方だ。アメリカ人は、イギリスの植民地支配に武装蜂起することによって、民主主義を確立した。

 

国民の銃所有が政府に対するチェック機能を果たす?

次に、周知されるべきもっと大きな歴史的論理がある。スターリンの秘密警察は文字通り何千万もの市民を捕らえ、強制労働収容所送りにした。もしも秘密警察が家々を回った時に銃を持つ市民が待ち構えていたら、彼らの試みはもっとはるかに労力とリスクと時間がかかるものになっていただろう。

自由国家に暮らす人々は、自分たちの自由は「安泰」であって、先進国が今後、独裁体制に転落するリスクなどない、と考えがちだ。それに対して明確な事実を示そう。自由で民主主義的だったワイマール共和国は、歴史上最も嘆かわしい独裁政権であるナチスドイツに取って代わられた。

多くのアメリカ人は、政府とは本質的にいつでもより大きな力を求めるものであり、それゆえに市民の自由を食いものにすると考えているようだ。その考え方は僕にはむしろ原理主義者的に思えるのだが、そんな僕でも、政府はプロセスを「単純化」したがったり「安全を強化」したがったりして、そのためにしばしば法的権利が縮小されたり監視体制を強めたりすることはあるだろうとは思う。

そんなわけで自由が撤廃されることはないが、損なわれていくことはある。僕の友人は、修正第2条は政府に対する「チェック」の役割を果たすと主張している。数多くのアメリカ人が反乱を起こす力を有しているのだから、政府もやりすぎな方向に行こうとはしない、というわけだ。そのため、実際のところ反乱の必要性はなくなる。

アメリカ人の友人のこの考え方に、僕が賛同しているわけではない。全体的に見れば反対で、なぜならこうした銃社会のせいで、アメリカでは犯罪にしろ事故にしろ暴力が必然的に多発しているからだ。それでも僕は、修正第2条が単にアメリカの狂気を示しているわけではないこと、修正第2条の支持者が単に銃をぶっ放すのが大好きな狂人ではないことを理解することは重要だと思う。

 

そしてもちろん、ジョン王は武力に脅されてマグナ・カルタに署名させられた。その後に状況が変化すると、彼は合意を破棄しようとした。だからこそ後にマグナ・カルタが何度か改正される時には、ジョン王や王位継承者たちは皆、議論を通してではなく脅しを受けて改正を受け入れる羽目になった。



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