<著名な研究者も「現時点で最も重要な研究」とコメントするこの人工ヒト胚の誕生は、不妊治療を前進させる朗報か、それとも「人造人間」発生の可能性を示した禁断の研究だったのか>
イスラエルのワイツマン研究所のジェイコブ・ハンナ教授らは、卵子と精子から形成される受精卵を使わずに、多能性幹細胞を使って受精後14日目のヒト胚(成長した受精卵)にそっくりな「人工胚モデル」を作ることに成功しました。さらに、この人工ヒト胚は、母体の子宮内ではなく実験室で成長させていますが、妊娠検査薬で陽性反応を示すシグナルを出していることも確認されました。
研究成果は英科学総合誌「Nature」に6日に掲載され、報道機関の取材に対して「現在、行われている中で最も重要な研究」とコメントする幹細胞や発生学の研究者も現れるなど、注目を浴びています。
妊娠初期は、胚の中で各種の臓器のもととなる器官が形成される大事な時期です。妊活がなかなかうまくいかない人や、体外授精の成果が出るまでに時間がかかる人では、初期胚の異常や不定着が原因の場合が多いのですが、「赤ちゃんになる受精卵を使って実験し、廃棄する」ことの倫理的なハードルの高さから、原因解明のための研究は容易ではありません。
今回の研究は、不妊治療を前進させる朗報なのでしょうか。それとも、卵子も精子もなく、育てる環境である子宮も使わずに、単なる細胞から「人造人間」が発生する可能性を示した「禁断の研究」の側面が強いのでしょうか。詳細を見ていきましょう。
「人工胚モデル」はこうして作られた
2012年に京大の山中伸弥博士(現・京大IPS細胞研究所名誉所長)とケンブリッジ大名誉教授のジョン・ガードン博士が「再プログラム化(リプログラミング、初期化)によって分化した細胞に多能性をもたせる」研究でノーベル生理学・医学賞を受賞して以来、培養した多能性幹細胞からヒトの臓器や器官を作り出す研究は飛躍的に進んでいます。
近年は、「生命の源」と言える胚を多能性幹細胞から人工的に作り出す研究も盛んに行われており、今回、人工ヒト胚の作成に成功したハンナ教授の研究チームは、昨年夏にマウスで成功させています。
ハンナ教授らは、個体を構成するほぼすべての細胞に分化する能力(多分化能)を持つ多能性幹細胞を再プログラム化して、さらに未分化な「ナイーブ型」と呼ばれる多能性幹細胞にする方法を開発しました。
今回の研究では、ナイーブ型多能性幹細胞に化学物質を使って、初期ヒト胚で見られる4種の細胞(胎児になるエピブラスト細胞、胚盤になる栄養膜細胞、胎児の栄養となる卵黄嚢のもととなる内胚葉細胞、栄養膜の内側を覆う胚外中胚葉細胞)になるように誘導しました。約120個の細胞を正確な比率で混ぜ合わせて8日間培養すると、約1%の確率でヒト胚とよく似た状態が形成されました。
この人工ヒト胚は、子宮内で14日間成長した典型的なヒト胚が持つ、すべての構成要素を再現しているといいます。つまり、この日齢で形成されるべき胎盤や卵黄嚢といった構造物が、サイズや形状も適切に、正しい位置に形成されたそうです。さらに、妊娠検査の判断基準となるホルモン(ヒト絨毛性ゴナドトロピン、hCG)を作る細胞も存在し、実際に妊娠検査キットで陽性反応となるのに十分な量のhCGを分泌していました。
また、本研究では、発生から10日後に当たる段階で胚が正しく胎盤形成細胞に包まれていないと、卵黄嚢などの内部構造は適切に発達しないことも示唆されました。ハンナ教授は英ガーディアン紙の取材を受け、「妊娠の失敗の多くは、大半の女性が妊娠に気づかない発生初期に起こっています。多くの先天性欠損症はこの時期の胚で起きていることも知られていますが、発見はずっと後になる傾向があります。私たちのモデル(人工ヒト胚)は、発生初期での適切な発達に必要な生化学的、機械的シグナルと、発達がうまくいかない原因を明らかにするために使用できるでしょう」と話しています。
妊婦や胎児のほか一般患者への応用も視野に
人工ヒト胚は、倫理問題をクリアしながら体の器官の初期形成を観察したり、遺伝性疾患や発達異常に起因する妊娠の不継続について知見を集めたりすることに役立つと期待されます。ただし、作成の失敗率が99%である現在、初期流産の防止や体外受精の成功率アップにつなげるには、しばらく時間がかかりそうです。
そのうえ、人工ヒト胚の作成成功率が上がったとしても、実験室で培養しているため、胚が子宮内膜に着床するステップは再現できていません。人工ヒト胚を使えば、妊娠不継続の原因のすべてが解明できるということにはならないでしょう。
一方、胚の薬物に対する反応という面では大いに期待できます。医薬品の臨床試験では、妊婦はほとんどの場合除外されます。一般的な医薬品でも、胎児や母親が妊娠中に摂取した乳児への影響は、大半が作用機序(薬が効果を及ぼす仕組み)から勘案されています。人工ヒト胚を使えば、直接的に薬物の副作用を評価できるかもしれません。
さらにハンナ教授は、人工ヒト胚の研究成果を、妊婦や胎児だけでなく一般患者にも応用することも視野に入れています。たとえば、患者の皮膚細胞を処理して多能性幹細胞を作り、さらに人工ヒト胚を作成して1カ月ほど育てれば、患者に移植したい臓器の細胞のもととなる器官が発達するだろうと言うのです。人工ヒト胚をドナーとして自家移植すれば、拒絶反応などのリスクが少ない移植が期待されます。もっとも、ハンナ教授は「ただし科学者たちは、人工ヒト胚を生育させる前に、脳や神経系が発達しないように遺伝子に手を加えて微調整するだろう」と注釈を加えています。
今回の報告では実際のヒト胚の発生14日目までを模した成功という成果でしたが、この人工ヒト胚をこのまま成長させれば「人造人間」ができあがるのでしょうか。
研究のためのヒト胚の培養は、1978年に体外受精による出産が初めて成功したことを受け、40年ほど前に「14日を超える(あるいは原始線条という構造が現れたら)培養の禁止」が提唱され、国際的に広く受け入れられていました。ところが21年5月に、ヒト胚の研究で強い影響力をもつ国際幹細胞学会が指針を改定し、14日を超える培養を認めました。現在、日本でも、科学者による14日を超える培養についての意識調査などが進められています。
ハンナ教授は「人工ヒト胚はナイーブ型多能性幹細胞のみを用いているので、実際の胚とは区別される」と語っています。けれど、人工ヒト胚の作成成功率が高まったり、培養日数が延びたりすればするほど、通常のヒト胚と同様に取り扱うべきなのか否かについては議論が必要になるでしょう。
海外では、すでに「人工ヒト胚モデルを使って妊娠することは、非倫理的かつ違法行為である」との議論も登場しました。もっとも、ヒト胚の研究者である英バブラハム研究所のピーター・ラグ・ガン博士は「今回作成された人工ヒト胚は、子宮内膜に着床するために必要な段階をスキップしているため、子宮に移植したとしても発達できないだろう」との見解を述べています。
受精の仕組みを人工的に省いてヒトの発生を可能としても、胚を育む子宮の問題に突き当たる。生命の神秘の解明には、まだまだ時間がかかりそうですね。
作成した「人工ヒト胚」の仕組みについて語るジェイコブ・ハンナ教授
イスラエルのワイツマン研究所のジェイコブ・ハンナ教授らは、卵子と精子から形成される受精卵を使わずに、多能性幹細胞を使って受精後14日目のヒト胚(成長した受精卵)にそっくりな「人工胚モデル」を作ることに成功しました。さらに、この人工ヒト胚は、母体の子宮内ではなく実験室で成長させていますが、妊娠検査薬で陽性反応を示すシグナルを出していることも確認されました。
研究成果は英科学総合誌「Nature」に6日に掲載され、報道機関の取材に対して「現在、行われている中で最も重要な研究」とコメントする幹細胞や発生学の研究者も現れるなど、注目を浴びています。
妊娠初期は、胚の中で各種の臓器のもととなる器官が形成される大事な時期です。妊活がなかなかうまくいかない人や、体外授精の成果が出るまでに時間がかかる人では、初期胚の異常や不定着が原因の場合が多いのですが、「赤ちゃんになる受精卵を使って実験し、廃棄する」ことの倫理的なハードルの高さから、原因解明のための研究は容易ではありません。
今回の研究は、不妊治療を前進させる朗報なのでしょうか。それとも、卵子も精子もなく、育てる環境である子宮も使わずに、単なる細胞から「人造人間」が発生する可能性を示した「禁断の研究」の側面が強いのでしょうか。詳細を見ていきましょう。
「人工胚モデル」はこうして作られた
2012年に京大の山中伸弥博士(現・京大IPS細胞研究所名誉所長)とケンブリッジ大名誉教授のジョン・ガードン博士が「再プログラム化(リプログラミング、初期化)によって分化した細胞に多能性をもたせる」研究でノーベル生理学・医学賞を受賞して以来、培養した多能性幹細胞からヒトの臓器や器官を作り出す研究は飛躍的に進んでいます。
近年は、「生命の源」と言える胚を多能性幹細胞から人工的に作り出す研究も盛んに行われており、今回、人工ヒト胚の作成に成功したハンナ教授の研究チームは、昨年夏にマウスで成功させています。
ハンナ教授らは、個体を構成するほぼすべての細胞に分化する能力(多分化能)を持つ多能性幹細胞を再プログラム化して、さらに未分化な「ナイーブ型」と呼ばれる多能性幹細胞にする方法を開発しました。
今回の研究では、ナイーブ型多能性幹細胞に化学物質を使って、初期ヒト胚で見られる4種の細胞(胎児になるエピブラスト細胞、胚盤になる栄養膜細胞、胎児の栄養となる卵黄嚢のもととなる内胚葉細胞、栄養膜の内側を覆う胚外中胚葉細胞)になるように誘導しました。約120個の細胞を正確な比率で混ぜ合わせて8日間培養すると、約1%の確率でヒト胚とよく似た状態が形成されました。
この人工ヒト胚は、子宮内で14日間成長した典型的なヒト胚が持つ、すべての構成要素を再現しているといいます。つまり、この日齢で形成されるべき胎盤や卵黄嚢といった構造物が、サイズや形状も適切に、正しい位置に形成されたそうです。さらに、妊娠検査の判断基準となるホルモン(ヒト絨毛性ゴナドトロピン、hCG)を作る細胞も存在し、実際に妊娠検査キットで陽性反応となるのに十分な量のhCGを分泌していました。
また、本研究では、発生から10日後に当たる段階で胚が正しく胎盤形成細胞に包まれていないと、卵黄嚢などの内部構造は適切に発達しないことも示唆されました。ハンナ教授は英ガーディアン紙の取材を受け、「妊娠の失敗の多くは、大半の女性が妊娠に気づかない発生初期に起こっています。多くの先天性欠損症はこの時期の胚で起きていることも知られていますが、発見はずっと後になる傾向があります。私たちのモデル(人工ヒト胚)は、発生初期での適切な発達に必要な生化学的、機械的シグナルと、発達がうまくいかない原因を明らかにするために使用できるでしょう」と話しています。
妊婦や胎児のほか一般患者への応用も視野に
人工ヒト胚は、倫理問題をクリアしながら体の器官の初期形成を観察したり、遺伝性疾患や発達異常に起因する妊娠の不継続について知見を集めたりすることに役立つと期待されます。ただし、作成の失敗率が99%である現在、初期流産の防止や体外受精の成功率アップにつなげるには、しばらく時間がかかりそうです。
そのうえ、人工ヒト胚の作成成功率が上がったとしても、実験室で培養しているため、胚が子宮内膜に着床するステップは再現できていません。人工ヒト胚を使えば、妊娠不継続の原因のすべてが解明できるということにはならないでしょう。
一方、胚の薬物に対する反応という面では大いに期待できます。医薬品の臨床試験では、妊婦はほとんどの場合除外されます。一般的な医薬品でも、胎児や母親が妊娠中に摂取した乳児への影響は、大半が作用機序(薬が効果を及ぼす仕組み)から勘案されています。人工ヒト胚を使えば、直接的に薬物の副作用を評価できるかもしれません。
さらにハンナ教授は、人工ヒト胚の研究成果を、妊婦や胎児だけでなく一般患者にも応用することも視野に入れています。たとえば、患者の皮膚細胞を処理して多能性幹細胞を作り、さらに人工ヒト胚を作成して1カ月ほど育てれば、患者に移植したい臓器の細胞のもととなる器官が発達するだろうと言うのです。人工ヒト胚をドナーとして自家移植すれば、拒絶反応などのリスクが少ない移植が期待されます。もっとも、ハンナ教授は「ただし科学者たちは、人工ヒト胚を生育させる前に、脳や神経系が発達しないように遺伝子に手を加えて微調整するだろう」と注釈を加えています。
今回の報告では実際のヒト胚の発生14日目までを模した成功という成果でしたが、この人工ヒト胚をこのまま成長させれば「人造人間」ができあがるのでしょうか。
研究のためのヒト胚の培養は、1978年に体外受精による出産が初めて成功したことを受け、40年ほど前に「14日を超える(あるいは原始線条という構造が現れたら)培養の禁止」が提唱され、国際的に広く受け入れられていました。ところが21年5月に、ヒト胚の研究で強い影響力をもつ国際幹細胞学会が指針を改定し、14日を超える培養を認めました。現在、日本でも、科学者による14日を超える培養についての意識調査などが進められています。
ハンナ教授は「人工ヒト胚はナイーブ型多能性幹細胞のみを用いているので、実際の胚とは区別される」と語っています。けれど、人工ヒト胚の作成成功率が高まったり、培養日数が延びたりすればするほど、通常のヒト胚と同様に取り扱うべきなのか否かについては議論が必要になるでしょう。
海外では、すでに「人工ヒト胚モデルを使って妊娠することは、非倫理的かつ違法行為である」との議論も登場しました。もっとも、ヒト胚の研究者である英バブラハム研究所のピーター・ラグ・ガン博士は「今回作成された人工ヒト胚は、子宮内膜に着床するために必要な段階をスキップしているため、子宮に移植したとしても発達できないだろう」との見解を述べています。
受精の仕組みを人工的に省いてヒトの発生を可能としても、胚を育む子宮の問題に突き当たる。生命の神秘の解明には、まだまだ時間がかかりそうですね。
作成した「人工ヒト胚」の仕組みについて語るジェイコブ・ハンナ教授