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イギリス史上最悪の首相? あのお馬鹿な「最短命」首相が、政治の表舞台に戻ってきた

ニューズウィーク日本版 2023年9月20日 17時48分

<ついには貧困層向けの「万引き」代行業者まで登場。賃金が低迷し、公共サービスが機能低下するなど、英国経済は危機に瀕している>

[ロンドン発]「彼女ほど恥知らずな政治家はいない。あるいは芸術的に自己認識を欠いているとでも言うべきか。史上最低の英国首相という称号で人気者になることを想像してみてほしい。デービッド・キャメロン、テリーザ・メイ、ボリス・ジョンソン、リシ・スナクよりひどい。普通の感覚を持った人間なら永遠に石の下に隠れてしまうところだ」

左派系英紙ガーディアンの議会担当ジョン・クレイス記者は、約1年前の秋に財源の裏付けがない恒久減税策(ミニ予算)をぶち上げ、英国衰退のフタを開けた与党・保守党のリズ・トラス前首相がロンドンのシンクタンクで講演したことを容赦なくこき下ろした。確かに、ここまで自己認識を欠いた政治家は日本にもいまい。

「彼女のミニ予算が経済を破綻させ、国に数十億ポンドの借金、住宅ローンに数千ポンドを上乗せした。自党に屈辱的な辞任を求められるまで英国史上最短の49日間しか首相を続けられなかった彼女は何も後悔していない。すぐにでもすべてをやり直したいと思っている。ナルシシズムは最近の首相に見られる特徴だが、彼女の妄想は膨れ上がる」(クレイス氏)

英国の秋は各党の年次党大会が開かれる「政治の季節」だ。政党支持率で保守党は欧州連合(EU)離脱の悲惨な現実、コロナ後遺症、インフレ、エネルギー危機、ウクライナ戦争による困窮で最大野党・労働党に20ポイント前後の大差をつけられる。それでも賭けに出ず、安全運転を続けるスナク首相に対する保守党内の不満にトラス氏は火を放とうとしている。

「25年にわたる経済的コンセンサスが停滞を招いた」

トラス氏は演壇に立った理由について「自分が首相官邸に戻りたいからではない」と断ったものの、保守党内に再びEU強硬離脱派のマグマが渦巻いていることをうかがわせた。次期総選挙は2025年1月までに行われる。強硬離脱派が「政界の道化師」ジョンソン元首相やトラス氏を担いでスナク氏を引きずり下ろすタイミングはこの秋しか残されていない。

しかし保守党十八番の内輪もめは労働党のキア・スターマー党首を利するだけだ。トラス氏は「成長至上主義」を掲げて首相になり、無謀すぎる予算を組んでアッという間に国債市場から退場させられた。英国の政府債務は国内総生産(GDP)の100%を超える。海外の国債保有者やインフレ連動債(いずれも約25%)が多く、財政は脆弱だ。

英国財政の信認を支える予算責任局(OBR)のリチャード・ヒューズ局長は「政府が現在の政策を続ける場合、300%程度まで上昇する」との警鐘を鳴らし続けている。「インフレ税」による政府債務(対GDP比)の低減という究極の手段が使えない英国には「増税・歳出削減」という茨の道しか残されていない。

その教訓から学べなかった浅はかなトラス氏は「英国の平均的な国民は米国より9100ポンドも貧しい。このような問題を引き起こしたのは25年にわたる経済的コンセンサスが停滞を招いたためだ。将来さらに深刻な問題を避けるためには、経済的コンセンサスを打ち砕く必要がある」との持論を繰り返した。トラス氏の言う経済的コンセンサスとは何なのか。

競争に重きを置く米国は政府支出の割合が低い

「1980年代や90年代に比べて英国はよりコーポラティズム的な(競争より協調を重視する)社会民主主義国家へと移行した。政府支出はGDPの46%を占めるようになった。ギリシャとスペインを除けば、これほど国家支出が伸びた国は欧州にはない。規制の負担も昨年だけで100億ポンドと増大している」などとトラス氏はネオケインズ主義や環境主義を切り捨てる。

先進国では対GDP比の政府支出はフランス58%、イタリア57%、ドイツ50%、日本45%、米国37%(統計会社トレーディング・エコノミクス)。確かに競争に重きを置く米国では政府支出の割合が低く、協調を重視するフランスは高い。「西側が冷戦に勝利した後、私たちはみな楽観的で明るい未来に目を向け、自由市場から目を離した」とトラス氏は言う。

トラス氏が唱える「3つの矢」は(1)減税(2)構造改革(3)福祉の切り詰め、年金受給年齢の引き上げなど公共支出の抑制である。しかし高齢者の割合が大きくなる国が競争力を取り戻すのは難しい。公共サービスの効率性を上げることができない限り、年金・医療・介護の支出は膨らみ続け、教育や研究・開発への投資は抑えられるからだ。

元保守党上院議員の実業家マイケル・アシュクロフト氏が私財で実施している世論調査では72%が「英国は壊れている。人々はより貧しくなり、何もかもが適切に機能していない」と回答した。英国が壊れていくように感じるのは実質賃金がずっと上がらないことや、警察、原則無償で診療が受けられるNHS(国家医療サービス)の機能低下が主な原因だろう。

万引きが前年比37%も激増

エネルギー・生活費の危機で英国では万引きが前年比37%も激増。英紙デーリー・テレグラフは「食べ物を買う余裕のない人たちから注文を受けて盗みに入るプロまであらゆる種類の犯罪が起きている」と店員の眼の前で酒、菓子、剃刀、コーヒー、肉など転売価値のあるものなら何でも持ち去られる様子を伝える。NHSの待機患者数は過去最悪の768万人に達した。

世論調査会社Ipsosが7月19~23日に実施したポリティカル・モニターでマーガレット・サッチャー以降の歴代首相が英国を良くしたか、悪くしたかを尋ねている。72%がトラス氏は英国を悪くしたと答え、良くしたと答えたのはわずか5%だった。62%がジョンソン氏は英国を悪くしたと回答、25%が良くしたと答えた。

英国を良くした首相ランキングは以下の通りだ。
(1) サッチャー46%(悪くしたとの回答は37%)
(2) トニー・ブレア42%(同36%)
(3) キャメロン29%(同45%)
(4) ゴードン・ブラウン28%(同33%)
(5) ジョン・メージャー26%(同19%)
(6) ジョンソン25%(同62%)
(7) メイ21%(同49%)
(8) トラス5%(同72%)

英中銀・イングランド銀行元総裁のマーク・カーニー氏は「民間部門での経験がほとんどなく、自由市場主義者の仮面をかぶった政治家人生を送ってきた人々は強い経済にとって使命、制度、規律の重要性を著しく過小評価している。極端な保守派には経済を動かすものに対する根本的な誤解がある」と厳しい。

総裁在任中、保守党の強硬離脱派から激しい攻撃を受けたカーニー氏は「EU離脱派は英国を『テムズ川のシンガポール(規制緩和で成功した国家)』にするという夢を達成するどころか、トラス政権は『英仏海峡のアルゼンチン(財政破綻した国家)』を実現した」と、脱炭素化経済への移行の妨げになりかねないトラス氏の主張を一蹴した。


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