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共産党支配に苦しんだ国のはずなのに...スロバキアで体感した「親ロシア」の謎

ニューズウィーク日本版 2023年10月12日 12時40分

<旅行中に偶然居合わせたスロバキア総選挙では、親ロシアを掲げる政党が第1党に。旧ソ連兵を大事にまつり、欧米に反発するスロバキアの背後にある複雑な事情とは>

僕が英デイリー・テレグラフ紙記者として働いていた時、同僚の1人が「偶然」スクープをモノにする外国特派員、との評判を確立していたのは伝説的だった。

彼はよく道に迷うことで有名で、だから例えば、赴任国の軍隊がいかに戦いを有利にすすめているかを取材してほしいとバルカン半島の前線に招待された場合に、彼なら間違って反対方向に向かってしまい、結果として重要な戦略拠点が放棄され敵国の軍隊に数日前に占拠された様子を目撃する、といった具合だ。

 

あるいは、戦争捕虜収容所のメディア公開(実際にはニセ捕虜を良好な条件で収容した見せかけだけのいわゆる「ポチョムキン村」)に出向いたはずが、違うところに行ってしまい、結果として本当の戦争捕虜が飢えと寒さの中で強制労働させられる現場を目にする、など。

これと同じように、僕もプライベートな旅行中、数々の話題に偶然出くわしている。でも尊敬すべき元同僚のアレックと同じだけの知識と経験を持ち合わせているわけではない。

例えば、この9月30日にスロバキアで総選挙があることは世間でよく知られていた。ところが僕はそんなことにも気づかず、総選挙前日の夜にふらっとスロバキアの首都ブラチスラバにたどり着いた。ここを選んだのは、なかなか素敵な街だという評判を耳にしていて、その前に滞在していたドイツ東部ライプチヒから電車で「アクセス可能」で、一度も行ったことのない都市や国に行きたかった、という理由でしかなかった。

この選挙結果は、重大なものになる可能性があった。ウクライナ侵攻をめぐるヨーロッパの団結に亀裂を生じさせるかもしれないからだ。僕の友人の外交官は、深刻に懸念していた。スロバキアはEU加盟国でNATOの一員であり、その国で親ロシア政権が誕生しようとしていることは非常に気がかりな事態だった。比較的小さな国で起こる出来事が大ニュースになり得る瞬間だった。そして僕は偶然にも、その場に居合わせたのだ。

さらに偶然に、僕はブラチスラバ最初の朝を、大いに意味のある場所から始めていた。良い天気だったし外で朝食を取りたいと思った僕は、ホテル近くの丘の上に大きな緑地があることを地図で知った。スラビンというところだ。ここが1945年にブラチスラバを解放したソビエト赤軍の戦死者を称えた記念碑であることは、着いてから初めて知った。

ソ連兵の戦死者を称えたスラビン 筆者撮影

その場所が完璧に維持管理されていて、街を一望できる目立つ場所にあり、そして「赤軍の犠牲への敬意」がそこかしこに記されている点に僕は驚いた。旧ソ連圏の国々のほとんどでは、ソ連時代の記念碑は破壊されるか軽視されるかしていた。あるいは少なくとも、共産主義支配の「罪」のほうも忘れないために、という狙いで残されていた。

でもスラビンの記念碑は汚れ一つないだけでなく、スターリンが事実上ヒトラーに代わって新たな占領者になっただけだという意味合いは全く匂わせず、2015年に改良工事まで行われていた。もちろん解放70周年記念の年ではあったのだが、ロシアがクリミア半島に侵攻した翌年でもあった。ロシア軍をあえて記念しようとするには奇妙なタイミングだ。

個人的には、その場所を訪れて「複雑な気持ち」になる可能性もあった。彼らは新たな暴君に仕えていた兵士だったかもしれないが、故郷を遠く離れた地で残忍なナチス軍と戦い亡くなった若者たちでもあった。ヒトラーを倒すために多くの戦いを担い、多くの犠牲を生んだのはソ連軍兵士であったことは、西側にとってもきまりの悪い公然の秘密だ。人類の自由と国家の主権にとって、ソ連は恐ろしい敵だったという僕自身の考えはそのままに、彼らの犠牲には敬意を払うべきだと僕は感じた。

 

それでも、スロバキアの市民が彼ら「解放者」に感謝よりも怒りを感じないでいられるのは、理解し難かった。チェコスロバキア(当時)の発展は数十年も停滞した。スロバキアの共産党指導者アレクサンデル・ドゥプチェクが自由化を図ろうと「プラハの春」を進めると、ソ連はただもう単純に侵攻して自由化を阻止し、あらゆる反対派をつぶした(1968年)。

イギリスによって「売り渡された」歴史

僕はスロバキアには特派員というよりも観光客の立場で滞在したが、もう1つ出会ったものが、僕に考察の材料を与えてくれた。僕はオーストリア国境に向かって、ブラチスラバ郊外の森の中へと足を踏み入れた。奥深くには、第1次大戦後にチェコスロバキアが成立した当時に建てられたバンカーが数多く残されていた。そのうち5つを訪れたが、森の奥深くにあってなかなかたどり着けない物もあった。僕は何度か方向感覚を失いそうになり、怖い思いをした。陰鬱に打ち捨てられたコンクリート製のバンカーは、薄気味悪かった。

森の中に残されたバンカー 筆者撮影

重要なのは、これらが重大な要塞の数々だったのに、イギリス史上最も恥ずべき瞬間の一つである1938年のミュンヘン協定によって、その重要性が失われてしまったことだ。ヒトラーのドイツ(既にオーストリアを併合していた)はチェコスロバキアのいわゆる「ズデーテン地方」をドイツに割譲するよう求めていた。多くのドイツ系が居住していた地域だ。

戦争を回避するために、イギリスのネビル・チェンバレン首相は「協定」を交渉し、そのなかでチェコスロバキアはこの領土を割譲するよう強いられ、そのうえ戦わずして国境地帯の要塞を全て放棄しなければならなくなった。

その翌年、当然ながらヒトラーは無防備になったチェコスロバキアの残りの地域に軍を向かわせ、征服した。事実上イギリスは、ドイツとの戦争を回避しようとの無駄な努力によってチェコスロバキアの主権を売り渡したことになる。

 

明らかに、今のスロバキアにおける親ロシア政治には、歴史的背景以上の理由がある(LGBTの権利や移民問題など、ある種の「リベラルな価値観」への反発もあるだろう)。

でも僕は、イギリスが自らの保身のためチェコスロバキアをヒトラーに売り渡し、ロシアが大きな犠牲を払ってヒトラーを追い出したと考えるのは理にかなっていると思う。だから「西側は善、東側は悪」という単純な物語は、スロバキア市民にとっては必ずしもそう単純ではないのだ。



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