<「諦めなかったから宇宙飛行士になれた」...農場労働者の子供が逆境をはねのけ、宇宙へ旅立つまで>
農場労働者の一家で育った私たちきょうだいは子供の頃、農場の仕事に合わせて毎年季節ごとに住む場所を転々としていた。カリフォルニア州南部から中部へ、そして北部へ、さらには親の祖国であるメキシコへ、という具合だ。
こうした生活には、ほかの子供たちにはない苦労が付いて回った。せっかくできた友達と別れて引っ越しをし、その都度、新しい環境に適応しなくてはならなかったのだ。
大きな転機が訪れたのは、小学2年生の時だった。学校の先生の助言により、私たち一家は、教育環境を安定させるために1カ所に腰を落ち着けて暮らすことになったのだ。しかし、それに伴い、厳しい冬の時期には農場の仕事で収入を得る機会が減り、一家の生活は経済的に一層苦しくなった。
私たちが暮らしていたのは、低所得層中心の地区。経済面の理由により、多くのことを諦めなくてはならなかった。それでも、両親に教育と勤勉の大切さをしっかり教えられていたこともあって、私は幼い頃から学ぶことへの強い意欲を持っていた。
宇宙飛行士になりたいという思いが芽生え始めたのは、こうした子供時代のことだった。宇宙に関する本を読みあさり、関連のドキュメンタリーも片っ端から見た。
私は宇宙空間の広大さに魅了された。そして、選ばれた一握りの人間の1人として、地球を飛び出して宇宙を旅したいという思いが寝ても覚めても頭から離れなくなった。
電気工学を学びエンジニアになり、やがて夢を追求するためにNASAに履歴書を送り始めたが、不採用が続いた。それも1度や2度ではない。その回数はなんと11回を数えた。そのたびに、私は打ちのめされて決意が揺らぎそうになった。それでも両親と妻の励ましもあり、どうにか気力を奮い起こして頑張り続けることができた。
そしてついに、夢に見続けていた瞬間がやって来た。宇宙飛行士養成プログラムに選抜されたという知らせが届いたのだ。このとき押し寄せてきた感情は、言葉ではとうてい説明できない。
ようやく、諦めずに粘り強く努力し続けてきた日々が報われたのだ。とても現実のこととは思えなかった。宇宙を目指した人生のクライマックスは、スペースシャトル「ディスカバリー」に搭乗して微小重力空間で浮遊したときだった。
ISSで過ごした13日間は驚きと学びと内省の日々だった NASAーHANDOUTーREUTERS
そのとき私は宙に浮かびながら、自らの能力を疑う気持ちに打ち勝ち、子供時代の夢を成就させたのだと実感していた。
シャトルのフライトデッキ(操縦エリア)からミッドデッキ(居住エリア)に移動する途中で窓の外に目をやり、初めて宇宙から地球を見た。漆黒の闇の中に、青と白と茶色の球体が浮かんでいた。
宇宙飛行士を辞めた理由
そのとき、私は地球の大気層の薄さを目の当たりにして、私たちの世界がいかにもろくて壊れやすいか、そして世界がいかに一つにつながり合っているかを改めて認識した。
北米大陸の上空を通過したときには、カナダとアメリカとメキシコがはっきりと見て取れた。しかし何よりも衝撃を感じたのは、カナダとアメリカの境、さらにはアメリカとメキシコの境を見分けられなかったことだ。
私はすぐに思い至った。国境とは、人と人とを切り離すために人工的につくられたものにすぎないのだ。そして、それは悲しいことだと感じた。世界のリーダーたちにも私のように、地球の美しさと脆弱さを自分の目で直接見る経験をしてほしいと心から思った。
国際宇宙ステーション(ISS)で過ごした13日間は、驚きと学びと内省の日々だった。数々の科学的実験、ほかの宇宙飛行士たちとの仲間意識、そして静かな黙考の時間......その経験を通じて私は大きく成長することができた。
まだ一度しか宇宙へ行っていないのにNASAを辞めるというのは、常軌を逸した発想にも思えた。けれども、スペースシャトルの退役が決まっていて、差し当たりはロシアの宇宙船「ソユーズ」が宇宙に飛び立つための唯一の手段になる見通しだった。ソユーズに搭乗するためには、ロシアで膨大な時間の訓練を受けなくてはならなかった。
当時、わが家の5人の子供は6~15歳だった。NASAを辞めて、子育てに時間を割くことを決意した。
いま私は、航空宇宙工学関連のコンサルティング、自己啓発関連の講演、書籍の執筆、そしてブドウ園の所有と経営を仕事にしている。農場労働者の一家で育った私がこうして再び農場の仕事に携わるようになり、人生の原点に戻ったように感じずにいられない。
私は、子供の頃からいつも新しいことを学びたいと思い続けてきた人間だ。ブドウの栽培とワイン醸造業者への販売だけでは満足できず、ワイン造りのプロセスに興味をそそられて、「ティエラ・ルナ・セラーズ」という自分のワイナリーも立ち上げた。
どんなに成功の確率が乏しいように思えたとしても、夢は実現できる。裕福には程遠い子供時代から出発して、宇宙飛行士になる夢をかなえた私の人生の物語は、人間が逆境を乗り越えて夢を実現する力を持っていることを実証するものと言えるだろう。
試練に直面しても諦めずに粘り強く努力し続ける姿勢は、私たち誰もが身に付けられる真の「超能力」なのだ。
(筆者をモデルにした映画『ミリオン・マイルズ・アウェイ~遠き宇宙への旅路~』がアマゾン・プライムビデオで配信中)
移民農業労働者の子が宇宙飛行士になるまで
How an immigrant farmworker beat the odds to become a NASA astronaut/ABC News
『ミリオン・マイルズ・アウェイ~遠き宇宙への旅路~』公式トレイラー
A Million Miles Away - Official Trailer | Prime Video
ホセ・ヘルナンデス(元宇宙飛行士)
農場労働者の一家で育った私たちきょうだいは子供の頃、農場の仕事に合わせて毎年季節ごとに住む場所を転々としていた。カリフォルニア州南部から中部へ、そして北部へ、さらには親の祖国であるメキシコへ、という具合だ。
こうした生活には、ほかの子供たちにはない苦労が付いて回った。せっかくできた友達と別れて引っ越しをし、その都度、新しい環境に適応しなくてはならなかったのだ。
大きな転機が訪れたのは、小学2年生の時だった。学校の先生の助言により、私たち一家は、教育環境を安定させるために1カ所に腰を落ち着けて暮らすことになったのだ。しかし、それに伴い、厳しい冬の時期には農場の仕事で収入を得る機会が減り、一家の生活は経済的に一層苦しくなった。
私たちが暮らしていたのは、低所得層中心の地区。経済面の理由により、多くのことを諦めなくてはならなかった。それでも、両親に教育と勤勉の大切さをしっかり教えられていたこともあって、私は幼い頃から学ぶことへの強い意欲を持っていた。
宇宙飛行士になりたいという思いが芽生え始めたのは、こうした子供時代のことだった。宇宙に関する本を読みあさり、関連のドキュメンタリーも片っ端から見た。
私は宇宙空間の広大さに魅了された。そして、選ばれた一握りの人間の1人として、地球を飛び出して宇宙を旅したいという思いが寝ても覚めても頭から離れなくなった。
電気工学を学びエンジニアになり、やがて夢を追求するためにNASAに履歴書を送り始めたが、不採用が続いた。それも1度や2度ではない。その回数はなんと11回を数えた。そのたびに、私は打ちのめされて決意が揺らぎそうになった。それでも両親と妻の励ましもあり、どうにか気力を奮い起こして頑張り続けることができた。
そしてついに、夢に見続けていた瞬間がやって来た。宇宙飛行士養成プログラムに選抜されたという知らせが届いたのだ。このとき押し寄せてきた感情は、言葉ではとうてい説明できない。
ようやく、諦めずに粘り強く努力し続けてきた日々が報われたのだ。とても現実のこととは思えなかった。宇宙を目指した人生のクライマックスは、スペースシャトル「ディスカバリー」に搭乗して微小重力空間で浮遊したときだった。
ISSで過ごした13日間は驚きと学びと内省の日々だった NASAーHANDOUTーREUTERS
そのとき私は宙に浮かびながら、自らの能力を疑う気持ちに打ち勝ち、子供時代の夢を成就させたのだと実感していた。
シャトルのフライトデッキ(操縦エリア)からミッドデッキ(居住エリア)に移動する途中で窓の外に目をやり、初めて宇宙から地球を見た。漆黒の闇の中に、青と白と茶色の球体が浮かんでいた。
宇宙飛行士を辞めた理由
そのとき、私は地球の大気層の薄さを目の当たりにして、私たちの世界がいかにもろくて壊れやすいか、そして世界がいかに一つにつながり合っているかを改めて認識した。
北米大陸の上空を通過したときには、カナダとアメリカとメキシコがはっきりと見て取れた。しかし何よりも衝撃を感じたのは、カナダとアメリカの境、さらにはアメリカとメキシコの境を見分けられなかったことだ。
私はすぐに思い至った。国境とは、人と人とを切り離すために人工的につくられたものにすぎないのだ。そして、それは悲しいことだと感じた。世界のリーダーたちにも私のように、地球の美しさと脆弱さを自分の目で直接見る経験をしてほしいと心から思った。
国際宇宙ステーション(ISS)で過ごした13日間は、驚きと学びと内省の日々だった。数々の科学的実験、ほかの宇宙飛行士たちとの仲間意識、そして静かな黙考の時間......その経験を通じて私は大きく成長することができた。
まだ一度しか宇宙へ行っていないのにNASAを辞めるというのは、常軌を逸した発想にも思えた。けれども、スペースシャトルの退役が決まっていて、差し当たりはロシアの宇宙船「ソユーズ」が宇宙に飛び立つための唯一の手段になる見通しだった。ソユーズに搭乗するためには、ロシアで膨大な時間の訓練を受けなくてはならなかった。
当時、わが家の5人の子供は6~15歳だった。NASAを辞めて、子育てに時間を割くことを決意した。
いま私は、航空宇宙工学関連のコンサルティング、自己啓発関連の講演、書籍の執筆、そしてブドウ園の所有と経営を仕事にしている。農場労働者の一家で育った私がこうして再び農場の仕事に携わるようになり、人生の原点に戻ったように感じずにいられない。
私は、子供の頃からいつも新しいことを学びたいと思い続けてきた人間だ。ブドウの栽培とワイン醸造業者への販売だけでは満足できず、ワイン造りのプロセスに興味をそそられて、「ティエラ・ルナ・セラーズ」という自分のワイナリーも立ち上げた。
どんなに成功の確率が乏しいように思えたとしても、夢は実現できる。裕福には程遠い子供時代から出発して、宇宙飛行士になる夢をかなえた私の人生の物語は、人間が逆境を乗り越えて夢を実現する力を持っていることを実証するものと言えるだろう。
試練に直面しても諦めずに粘り強く努力し続ける姿勢は、私たち誰もが身に付けられる真の「超能力」なのだ。
(筆者をモデルにした映画『ミリオン・マイルズ・アウェイ~遠き宇宙への旅路~』がアマゾン・プライムビデオで配信中)
移民農業労働者の子が宇宙飛行士になるまで
How an immigrant farmworker beat the odds to become a NASA astronaut/ABC News
『ミリオン・マイルズ・アウェイ~遠き宇宙への旅路~』公式トレイラー
A Million Miles Away - Official Trailer | Prime Video
ホセ・ヘルナンデス(元宇宙飛行士)