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「哲学書」と「自己啓発書」の違いは何か...今のあなたに必要なのは「答えの提示」、それとも「問い立て」?

ニューズウィーク日本版 2023年11月3日 9時58分

<哲学は人を救う...。フランスで哲学の博士号を取得した「挫折博士」が考え抜いた末に見た世界は、なぜ美しくきらめいていたのか?>

フランスで哲学の博士号を取得し、その将来は順風満帆――とはいかなかった。

躁うつ病を発症し、ドライバー、福祉施設職員、工場勤務と職を転々。研究者の職に就けなかった挫折と、心身が思うように動かない絶望のなかで、「哲学すること」だけはあきらめなかった。

在野の哲学徒・関野哲也氏が、自らのどん底体験から「哲学すること」の豊かさ、善く生きることの大切さを追求してまとめた、『よくよく考え抜いたら、世界はきらめいていた』(CCCメディアハウス)の「第1章 哲学することで強くなる」より一部抜粋する。

◇ ◇ ◇

    

哲学と自己啓発の違いとは何か

似ているのでよく混同されがちなのですが、自己啓発書と哲学書の違いを見てみましょう(図1参照)。

『よくよく考え抜いたら、世界はきらめいていた』 31頁より

はっきりと線引きをすることはできませんが、哲学書とはこんな感じのものということを知ってもらうために、大まかに以下に説明してみます。

自己啓発書は答えを提示してくれます。ところが、哲学書は答えではなく問いを立てます。言いかえるなら、哲学書は納得のいくまで問い続けるのです。

たとえば、人生に行きづまった人がいるとします。その人は悩みの中にいるのですね。

自己啓発書は、悩みの中にいるその人の考え方や心の向きを変えるようアドバイスすることによって、マイナス思考をプラス思考に変換し、行きづまりから救い出してくれる力を持っています。つまり、「こう考えてみてはどうですか」という答えの提示です。

私の好きな自己啓発書に、アール・ナイチンゲール『チャンスは無限にある』(きこ書房)があります。その中の一節に、次のように書かれています。

いつも心に将来の自分の理想像を抱いていなさい。努力すれば、日に日にその理想像に近づいていけることは確かだ。こういう努力を続けているなら、退屈などしている暇はないはずであり、自分の実力をまるで発揮できない単純作業をさせられているときも、劣等感に悩むこともなくなる。(『前掲書』)

もっと自分に合った仕事をしたいと悩む人に対して、アール・ナイチンゲールは、心に自分の理想像を抱き、その理想像に向かって、日々努力を重ねることの大切さを説きます。

その努力をしている限り、悩んでいる暇など無く、自分を磨くことに集中するのみ。そして、自分磨きに集中していれば悩みなど感じないものなのだ、と。

このように、自己啓発書は、私たちが日常生活で抱く様々な「悩み」を問題にし、解決すべく、答えを提示してくれます。

他方で、哲学書は、問いを立て一時的な答えを導きますが、自己啓発書と異なるのは、答えの提示で終わるのではなく、その答えからさらに新たな問いを立てるのです。

この「答えから新たな問いを立てる」ということの説明に入る前に、もう少し言い添えておきます。哲学書と自己啓発書が非常に似ている場合もあります。

しかし、哲学書と呼ばれるもの全体から比べて、(私の知る限り)あまり多くはありません。

それ以外の大部分の哲学書には、その人の人生における「悩み」を直接解決してくれるような答えは書かれていないのです。

    

なぜ哲学は人生観、世界観を一変させるのか

では、哲学書には何が書かれているのでしょうか。哲学書には、私や世界が存在することの神秘が書かれています。その神秘により、哲学書は私たちの人生観、世界観を一変させるのです。

ここで私の言う神秘とは、「わからないこと」という意味です。ここで、「ちょっと待って」という声が聞こえてきそうですね。

そもそも哲学とは、知を愛するという意味であり、知の営みを通して、知るということに重きが置かれているのではないのか? 知ることに重きが置かれているのに、神秘という「わからないこと」が人生観や世界観を一変させるとはどういうことか?

この質問にお答えしつつ、先ほどの「答えから新たな問いを立てる」ということを説明してみます。

たとえば、カント(1724 〜1804)の『純粋理性批判』(岩波文庫)などは、人間はここまで考えることができるのだという知の営みの奥深さを実感させてくれます。カントは、人間が何かを知るとはどのようにして可能かと問いを立て、とことん考え抜きました。

それでも、カントの考えたことに対して、現在でも多くの新たな問いが研究者によって立てられています。つまり、カントの「考えたこと=最終的な答え」で終わりというわけではなく、そのカントの答えから新たな問いが生まれているのです。

批判とは悪口や非難のことではない

哲学では、このようにカントの答えから新たな問いを立てることを「カントを批判する」と言います。批判するという言葉は、人の悪口を言ったり、人を非難するという意味ではありません。カントの考えたことを吟味し、検討するという建設的な意味です。

したがって、私たちがカントを読むなかで、次の違いが生まれます。

「わからないこと」を知らない
     ↓
「わからないこと」を知っている

このふたつには大きな違いがあるのです。

たとえば、学校の授業を例に取りましょう。先生が「わかりましたか?」と聞いてくれたとき、「うーん、わからない所がわからない」という自分の位置がもやっとしてわからない状態と、「先生、ここがわかりません」と言える自分の位置がはっきりとわかっている状態とでは、大きな違いがあるでしょう。

    

何がわかっていないのかを知り、言葉で表現する

哲学も同じなのです。自分は何がわかっていて、何がわかっていないのかを知ること。それを知ることに重きを置くのが哲学であると言えます。そして、このわかっていないことをさらに考え、考えたことを言葉で表現しようとする試みが哲学なのです。

このように、哲学は、人間や世界について、私たちにはまだ「わかっていないこと」が多くあると教えてくれます。そして、その「わかっていないこと」を知るために、私たちは新たな問いを立てるのです。

人間や世界は、「わからないこと」、つまり神秘で満ちており、その神秘はきらきらときらめいている。哲学を通して、「世界は美しい」と私たちが思えるのは、その神秘のきらめきゆえだと私は思うのです。

関野哲也(せきの・てつや)・哲学博士(Docteur en Philosophie)/文筆家/翻訳家 
1977年、静岡県生まれ。フランス・メッス大学哲学科学士・修士過程修了後、リヨン第三大学哲学科博士課程修了。博士(哲学)。専門は宗教哲学、言語哲学。特にウィトゲンシュタイン、シモーヌ・ヴェイユ研究。留学後、フランス語の翻訳者・通訳者として働くが、双極性障害を発症。その後、ドライバー、障がい者グループホーム職員、工場勤務などを経験。現在は「生きることがそのまま哲学すること」という考えを追求しながら、興味が趣くままに読み、訳し、研究し、書いている。著書に『池田晶子 語りえぬものを語る、その先へ』(Amazon Kindle)がある。

 『よくよく考え抜いたら、世界はきらめいていた』
  関野哲也[著]
  CCCメディアハウス[刊]

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ニューズウィーク日本版ウェブ編集部

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