<日本で「エスニック料理」が取り上げられるようになったのは1980年代のこと。このブームに関して、四方田犬彦氏が覚えた当時の違和感をいま改めて考える>
「エスニック料理を食べに行かない?」「エスニックがいい」...私たちが普段の会話で何気なく使う「エスニック料理」だが、タイ料理やヴェトナム料理は含まれてもカレーや中華はそこには含まれない。
1980年代に「エスニック料理」という言葉が流行し始めた頃に比較文学者の四方田犬彦氏が覚えた、その違和感を40年経った今、改めて考える。料理のなかの「見えない政治」を論じた新刊『サレ・エ・ぺぺ 塩と胡椒』(工作舎)より一部抜粋。※転載にあたっては算用数字への変更、および改行を増やしている。
◇ ◇ ◇
日本において「エスニック料理」なるものが話題となり、メディアがそれをファッションとして取り上げるようになったのは1980年代である。
それ以前にも東京には何軒かのインドネシア料理店をはじめ、タイ料理店とヴェトナム料理店が一軒ずつ存在していたが、それが未知の味覚として大きな注目を浴びるということはなかった。
韓国料理店はあまた存在していたが、メニューはもっぱら焼肉が中心で、ワケありの男女が夜遅く訪れる場所というイメージをもたれていた。
80年代以降、韓国料理店のイメージが刷新され、タイ料理店が急増したあたりから、しきりと「エスニック料理」という言葉が口にされるようになった。
もっともわたしはこの表現に当初から疑問を抱いていた。エスニックethnicとは英語で「人種的な」「種族的な」「民族的な」という形容詞である。その当時、アメリカのグルメガイドブックでは、それは「非白人」を意味していた。
白人が世界の文化の中心であり、徴なしの存在(ノン・マルケ)であるのに対し、それ以外の人間は「エスニック」という徴を刻印された(マルケ)存在であると見なされていた。「エスニック料理」と同じように、「エスニック・ミュージック」という表現もあった。
いったい自分が何様のつもりなのかというのが、その当時、この表現を聞いてわたしが抱いた印象であった。
フランス料理があり、中国料理があるように、「エスニック料理」なるものがあるとでもいうのだろうか。日本人は自分だけは「エスニック」ではないと信じているのだろうか。
もしそうだとすれば、それはアメリカの白人の目線を借り受けたというだけのことではないか。わたしが1970年代終わりにパリで求めた『アジア料理大全』という書物では、日本料理はヴェトナム料理やタイ料理と同じように、アジアのエスニック料理として取り上げられていた。
月見うどんは「パスタと卵のポタージュ」と、コンニャクは「塊茎を用いたパテで、野菜とともにブイヨンで煮る」と説明されていた。
油揚げは「大豆のフロマージュ、もしくはパテをフライにしたもの」であり、カンピョウは「ある種の南瓜を長紐状に乾燥させたもので、湯掻く必要あり」であった。
フランス人が何とか日本の未知の食材を理解しようとすれば、このように表現するしかないのである。
もちろん彼らはそれを充分に奇異に感じる。だがフランス人が「和食」を典型的なアジアの「エスニック料理」だと見なしていることを、日本人は忘れてはならない。
『東京エスニック料理読本』(冬樹社)という本が出るというので、わたしは寄稿を求められた。1984年のことである。
わたしはこのブームに対する違和感を表明する文章を書いた。かつての宗主国の首都にかつての植民地の人間が住み着き、彼らが食と歌謡を媒介として文化的多元化を担うことになるという認識が、そこには欠落しているというのが、わたしの批判の主旨だった。
パリになぜヴェトナム料理店とクスクス屋が多いのか。東京と大阪になぜ焼肉屋が多いのか。アムステルダムになぜインドネシア料理店とスリナム料理店があるのか。
こうしたポスト植民地主義的な問題を考えずして、単に未知の「エスニック料理」に舌鼓を打つとしたら、それは食という行為が知らずと携えてしまう文化の政治性を隠蔽してしまうのではないか。
40年ほど前にわたしは書いた。表記を少し直して引用してみよう。
外国の、見知らぬ文化や民族の料理を食べることは、本当のことをいえば、不自然きわまりないことかもしれない。自分の母国語でない言語を何年間もかけて取得して語ることと同じくらいに、滑稽なことだとさえいえる。
ある不規則動詞の接続法半過去を人称別に暗誦してみせることと、風土の違いから自生していない香味野菜を入手しようと腐心して、高い金を払うことの間には、どこかしら類似した偏執趣味がある。
そう、現地に行けば子供でさえ自然に滑らかな言葉を口にし、われわれがレストランで支払う何分の一、何十分の一の値段で、本物の味覚を楽しんでいるではないか。
異国情緒はあらゆる不自然さを蔽い隠してしまう。世界のすべての文化は知られることを望んでいて、好奇心を抱いた何人にも好意的であるといった幻想を親しげに語りかける。
けれども、結局のところ、異国情緒とは、語りかけるこちら側の自己像の反映と優位の確認であることが判明する。世界全体を紋切型の絵葉書としてしか了解しない、狭小な思考法のことだ。
自分が過去に書いた文章に言及するのは気が引けるが、日本の外食産業における「エスニック料理」の状況が大きく変化した現在でも、自分の基本的な立場に変更がないことを自分に確認させるためにここに引用したことを、読者におかれてはお許しいただきたいと思う。
日本語で「エスニック料理」といったとき、人が一般的に思い浮かべるのは東南アジアの料理のことだろう。
だが戦前に日本にもたらされ、すっかり日本化した感のあるインド料理(カレー)や中国料理(チャーハンやラーメン)をわざわざ「エスニック料理」といい直す人はいない。
前節で述べた分類に従ってみるならば、それは(D)から(B)を経由して、すでに(A)の領域に移ってしまった食べ物であり、日本人はもはやいかなる他者性もそこに認めようとはしない。カレーやラーメンはすでに日本人の食のアイデンティティを根拠づける料理と化しているのだ。
(A)「われわれ」の文化的伝統のなかで問題なく認知され、いささかも他者性を感じさせないもの。つまり「われわれ」がごく普通の日常生活のなかで受容している食べ物。
(B)「われわれ」の本来の食文化ではなく、その意味で他者ではあるが、それなりに「われわれ」が認知し、口にすることを受け容れるようになった食べ物。あるいはその軽減された他者性の操作を通して、流行の食という地位に一度は就いたような食べ物。
(C)「われわれ」の食文化のなかで受容されてはきたものの、突然に実験的に変容し、従来の枠組みを破って、見知らぬ味の側へと飛び出していったもの。
(D)「われわれ」からはるかに遠い場所にあって文化的にも社会的にも充分認知されてはいるものの、その他者性のあまりの強烈さによって、「われわれ」がそれを食物の範疇として理解することが難しく、しばしば道徳的な非難すら口にしてしまうようなもの。
『サレ・エ・ぺぺ 塩と胡椒』102頁より
ではペルシャや中近東、アフリカの料理はどうだろうか。欧米諸国と比べてこうした国々の料理が知られていないのは、簡単な理由からである。
ひとえに日本が帝国主義国家として植民地支配をしてこなかったからだ。逆にいうならば、「エスニック料理」の起源であるといわれる東南アジア諸国とは、かつて大日本帝国が「大東亜共栄圏」の名のもとに軍事的支配を行なった、虚構の共同体に重なり合っている。
だが、料理について職業的に語る者たちがそれを指摘したことは、わたしの知るかぎりほとんどない。
四方田犬彦(よもた・いぬひこ)
1953年、大阪箕面に生まれる。東京大学で宗教学を、同大学院で比較文学を学ぶ。長らく明治学院大学教授として映画学を講じ、コロンビア大学、ボローニャ大学、テルアヴィヴ大学、清華大学、中央大学(ソウル)などで客員教授・客員研究員を歴任。
『サレ・エ・ぺぺ 塩と胡椒』
四方田犬彦[著]
工作舎[刊]
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「エスニック料理を食べに行かない?」「エスニックがいい」...私たちが普段の会話で何気なく使う「エスニック料理」だが、タイ料理やヴェトナム料理は含まれてもカレーや中華はそこには含まれない。
1980年代に「エスニック料理」という言葉が流行し始めた頃に比較文学者の四方田犬彦氏が覚えた、その違和感を40年経った今、改めて考える。料理のなかの「見えない政治」を論じた新刊『サレ・エ・ぺぺ 塩と胡椒』(工作舎)より一部抜粋。※転載にあたっては算用数字への変更、および改行を増やしている。
◇ ◇ ◇
日本において「エスニック料理」なるものが話題となり、メディアがそれをファッションとして取り上げるようになったのは1980年代である。
それ以前にも東京には何軒かのインドネシア料理店をはじめ、タイ料理店とヴェトナム料理店が一軒ずつ存在していたが、それが未知の味覚として大きな注目を浴びるということはなかった。
韓国料理店はあまた存在していたが、メニューはもっぱら焼肉が中心で、ワケありの男女が夜遅く訪れる場所というイメージをもたれていた。
80年代以降、韓国料理店のイメージが刷新され、タイ料理店が急増したあたりから、しきりと「エスニック料理」という言葉が口にされるようになった。
もっともわたしはこの表現に当初から疑問を抱いていた。エスニックethnicとは英語で「人種的な」「種族的な」「民族的な」という形容詞である。その当時、アメリカのグルメガイドブックでは、それは「非白人」を意味していた。
白人が世界の文化の中心であり、徴なしの存在(ノン・マルケ)であるのに対し、それ以外の人間は「エスニック」という徴を刻印された(マルケ)存在であると見なされていた。「エスニック料理」と同じように、「エスニック・ミュージック」という表現もあった。
いったい自分が何様のつもりなのかというのが、その当時、この表現を聞いてわたしが抱いた印象であった。
フランス料理があり、中国料理があるように、「エスニック料理」なるものがあるとでもいうのだろうか。日本人は自分だけは「エスニック」ではないと信じているのだろうか。
もしそうだとすれば、それはアメリカの白人の目線を借り受けたというだけのことではないか。わたしが1970年代終わりにパリで求めた『アジア料理大全』という書物では、日本料理はヴェトナム料理やタイ料理と同じように、アジアのエスニック料理として取り上げられていた。
月見うどんは「パスタと卵のポタージュ」と、コンニャクは「塊茎を用いたパテで、野菜とともにブイヨンで煮る」と説明されていた。
油揚げは「大豆のフロマージュ、もしくはパテをフライにしたもの」であり、カンピョウは「ある種の南瓜を長紐状に乾燥させたもので、湯掻く必要あり」であった。
フランス人が何とか日本の未知の食材を理解しようとすれば、このように表現するしかないのである。
もちろん彼らはそれを充分に奇異に感じる。だがフランス人が「和食」を典型的なアジアの「エスニック料理」だと見なしていることを、日本人は忘れてはならない。
『東京エスニック料理読本』(冬樹社)という本が出るというので、わたしは寄稿を求められた。1984年のことである。
わたしはこのブームに対する違和感を表明する文章を書いた。かつての宗主国の首都にかつての植民地の人間が住み着き、彼らが食と歌謡を媒介として文化的多元化を担うことになるという認識が、そこには欠落しているというのが、わたしの批判の主旨だった。
パリになぜヴェトナム料理店とクスクス屋が多いのか。東京と大阪になぜ焼肉屋が多いのか。アムステルダムになぜインドネシア料理店とスリナム料理店があるのか。
こうしたポスト植民地主義的な問題を考えずして、単に未知の「エスニック料理」に舌鼓を打つとしたら、それは食という行為が知らずと携えてしまう文化の政治性を隠蔽してしまうのではないか。
40年ほど前にわたしは書いた。表記を少し直して引用してみよう。
外国の、見知らぬ文化や民族の料理を食べることは、本当のことをいえば、不自然きわまりないことかもしれない。自分の母国語でない言語を何年間もかけて取得して語ることと同じくらいに、滑稽なことだとさえいえる。
ある不規則動詞の接続法半過去を人称別に暗誦してみせることと、風土の違いから自生していない香味野菜を入手しようと腐心して、高い金を払うことの間には、どこかしら類似した偏執趣味がある。
そう、現地に行けば子供でさえ自然に滑らかな言葉を口にし、われわれがレストランで支払う何分の一、何十分の一の値段で、本物の味覚を楽しんでいるではないか。
異国情緒はあらゆる不自然さを蔽い隠してしまう。世界のすべての文化は知られることを望んでいて、好奇心を抱いた何人にも好意的であるといった幻想を親しげに語りかける。
けれども、結局のところ、異国情緒とは、語りかけるこちら側の自己像の反映と優位の確認であることが判明する。世界全体を紋切型の絵葉書としてしか了解しない、狭小な思考法のことだ。
自分が過去に書いた文章に言及するのは気が引けるが、日本の外食産業における「エスニック料理」の状況が大きく変化した現在でも、自分の基本的な立場に変更がないことを自分に確認させるためにここに引用したことを、読者におかれてはお許しいただきたいと思う。
日本語で「エスニック料理」といったとき、人が一般的に思い浮かべるのは東南アジアの料理のことだろう。
だが戦前に日本にもたらされ、すっかり日本化した感のあるインド料理(カレー)や中国料理(チャーハンやラーメン)をわざわざ「エスニック料理」といい直す人はいない。
前節で述べた分類に従ってみるならば、それは(D)から(B)を経由して、すでに(A)の領域に移ってしまった食べ物であり、日本人はもはやいかなる他者性もそこに認めようとはしない。カレーやラーメンはすでに日本人の食のアイデンティティを根拠づける料理と化しているのだ。
(A)「われわれ」の文化的伝統のなかで問題なく認知され、いささかも他者性を感じさせないもの。つまり「われわれ」がごく普通の日常生活のなかで受容している食べ物。
(B)「われわれ」の本来の食文化ではなく、その意味で他者ではあるが、それなりに「われわれ」が認知し、口にすることを受け容れるようになった食べ物。あるいはその軽減された他者性の操作を通して、流行の食という地位に一度は就いたような食べ物。
(C)「われわれ」の食文化のなかで受容されてはきたものの、突然に実験的に変容し、従来の枠組みを破って、見知らぬ味の側へと飛び出していったもの。
(D)「われわれ」からはるかに遠い場所にあって文化的にも社会的にも充分認知されてはいるものの、その他者性のあまりの強烈さによって、「われわれ」がそれを食物の範疇として理解することが難しく、しばしば道徳的な非難すら口にしてしまうようなもの。
『サレ・エ・ぺぺ 塩と胡椒』102頁より
ではペルシャや中近東、アフリカの料理はどうだろうか。欧米諸国と比べてこうした国々の料理が知られていないのは、簡単な理由からである。
ひとえに日本が帝国主義国家として植民地支配をしてこなかったからだ。逆にいうならば、「エスニック料理」の起源であるといわれる東南アジア諸国とは、かつて大日本帝国が「大東亜共栄圏」の名のもとに軍事的支配を行なった、虚構の共同体に重なり合っている。
だが、料理について職業的に語る者たちがそれを指摘したことは、わたしの知るかぎりほとんどない。
四方田犬彦(よもた・いぬひこ)
1953年、大阪箕面に生まれる。東京大学で宗教学を、同大学院で比較文学を学ぶ。長らく明治学院大学教授として映画学を講じ、コロンビア大学、ボローニャ大学、テルアヴィヴ大学、清華大学、中央大学(ソウル)などで客員教授・客員研究員を歴任。
『サレ・エ・ぺぺ 塩と胡椒』
四方田犬彦[著]
工作舎[刊]
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