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「次世代のスー・チー」が語る本家スー・チーの価値と少数民族乱立国家ミャンマーの未来

ニューズウィーク日本版 2023年11月2日 17時54分

<ウクライナ戦争とガザでのイスラエル・ハマスの衝突で、すっかり世界から忘れられたミャンマー内戦。国軍の弾圧に抵抗する反政府組織や少数民族の戦いは続き、国家の未来は見通せないが、この国には「次世代のスー・チー」と見做される31歳の女性がいる>

10月初旬、私はミャンマー国境沿いにほど近いタイ側の人口12万人ほどの街の端にあるカフェで、ある人物を待っていた。屋根はあるが柱だけで壁も窓もない吹きさらし、いかにも熱帯地域という風情のその店は、軍政に命を狙われて潜伏中の人物との面会場所としてはあまりに開放的で無防備に感じ、落ち着かない。

ここからミャンマー側の街までは1キロもない。その街では最近県知事と警察署長がまとめてドローンで爆殺されたが、それは近くのオンライン詐欺の拠点と化している地区への電力供給を止めたから怒った胴元のチャイニーズマフィアが報復としてやったのだ、といった噂が流れていた。その地区は貯め込んだ財産を狙った各種の周辺武装勢力の襲撃に悩まされており、国軍傘下でありながら地元カレン族の武装勢力とも通じる「国境警備隊」を雇って防ぎ切っているらしい。まるきり山賊が跋扈する中世の様相だが、黄金の三角地帯を作り上げた麻薬王クン・サーが死んでからまだ15年ほどしか経っていないと考えれば、そこまで不思議ではないのかもしれない。同行していた中国人研究者と椰子ジュースを飲みながらそんな話をして30分ほど時間をつぶした頃、その人物、ティンザー・シュンレイ・イーは姿をあらわした。流暢な英語を操る31歳の彼女は、ミャンマーにおける人権やジェンダーに関する若者の声の代弁者として米タイム誌や英ガーディアン紙など多くの大手欧米メディアの取材を受け、米国務省の「次世代リーダー賞(Emerging Young Leaders Award)」や人権侵害に関する法律の名を冠したマグニツキー人権賞を受賞するなど、その発言は常に注目を浴びている。

2021年に起きたクーデターにより、ミャンマーはいまミン・アウン・フライン将軍率いる国軍によって実効支配されている。民主派政党の国民民主連盟(NLD)を率いていたアウン・サン・スー・チーと側近はその際拘束され、現在はそのNLDの後継組織である国民統一政府(NUG)がわれこそは国を代表する正統な政府であると主張しているほか、元々国軍やNLDが政権を握っていた時期から対立していたその数20以上におよぶ少数民族の武装勢力が入り乱れて戦闘を続ける。一口に武装勢力といっても、積極的に国軍と闘う勢力から自領を守れればそれでよいという勢力までそれぞれ思惑が異なり、なかには外国の支援を受けているものもある。

シュンレイ・イーのような都市部の若者たちは、当初こうした「伝統的」な反国軍武装勢力とはまったく違う、「市民的不服従(CDM)」と呼ばれる職場ボイコットやデモなど非暴力を中心にしたかたちで抗議活動を行っていた。しかし国軍は容赦なく実弾や拉致・拷問をもってこれに臨み、現在までにわかっているだけで4000人以上の市民が殺害されている。そうした現実の中で、クーデター発生から2年半が経った今、武器を取って抵抗するしかないと考える若者が増えていることは事実だ。彼らの多くは少数民族武装勢力から軍事訓練をうけ、NUGの軍事部門であるPDF(国民防衛軍)に合流し戦っている。しかし少数民族側がNUGとスー・チーを支持しているかというと、必ずしもそうではないらしい。

「スー・チー氏はいまでもNUGの精神的な支柱ですが、彼女は16年にNLDが政権を握ってからクーデターまでの5年間に渡って国軍との距離が非常に近かった。国軍もNLDも(人口の70%近くを占める)ビルマ人が中心となるグループであることも手伝って、少数民族からはビルマ人同士の主導権争いでしかないと見なされてきました」。シュンレイ・イーは言う。NUGは首相を含む複数の「閣僚」に少数民族出身者を充てているが、それはこうした声に少しでも応えるための配慮だろう。

「それでも多くの人はスー・チー氏が再び指導者として方向を示してくれることを待ち望んでいます。しかし彼女はクーデターの初日に拘束されています。だからそれ以降の状況、例えばNUGがPDFを結成して武装闘争を始めたことすら知らない可能性もある。『彼女は私たちとともにいる』と断言できる人は誰もいないのです。もし戻ってこられたとして、いまのNUGの方針を承認・支持するかは未知数ではないかと思います。そんな彼女をただ待っているがゆえに、前に進むことができない人たちも多い。でも私たちは違う。ただ前に進み、組織を作り、そして革命と共に歩むのです」

シュンレイ・イーは欧米メディアに登場しはじめたころ、よく「次世代のアウン・サン・スー・チー」と紹介されていた。なによりも女性であり、欧米諸国が好む人権や女性の社会的立場といった「普遍的価値感」をベースに英語で話せるからだ。しかし彼女が政治的な活動を始めたのは2012年の国際平和デーにピースウォークを企画したことがきっかけで、この後NLDが15年の総選挙に勝ち翌年政権を発足させたあとも、例えばロヒンギャ問題への対応などを巡って常にスー・チー率いる政権に対して批判的だった。彼女だけでなく、若者たちが見てきたスー・チーは「民主化の女神」ではなく、政権奪取後、現実的に大きな影響力を残す国軍となんとか妥協点をみつけようともがくもその足かせによって失敗する、輝きを失ったあとの姿なのだ。

曖昧な地帯に暮らす流浪の民たち

タイ警察の中でこの街への赴任がいちばん人気なのは、こづかいに困れば適当に街を出て歩いているミャンマー人に「声をかけ」れば、いくらでも収入になるからだ、という陰口も聞いた(かといって実際は警察官を見かける機会は非常に少なかったが)。以前は歩いて越える人も多かったと言われる細い川でしか隔てられていないこの街の人口は、ミャンマーを脱出した人の増加によって40%以上も増えたともいわれる。

ミャンマーには135の少数民族がいるとされる。この街に逃げ込んだ人々もまた多様で、元々その地域に多いカレン族やタイ人(タイ族)だけではなく、最大勢力のビルマ族、地図上は真逆のミャンマー西側に位置するラカイン州から逃げてきたロヒンギャ族など、田舎であるにも関わらず街を歩いて見かける人種の幅が非常に広い。それぞれ信じる宗教も違い、モスクと寺院と教会とが狭い街中にいくつも見られる。れっきとしたタイ領内であるにもかかわらずミャンマー語の看板も多く、飲食店の店員の中にはタイ語がわからない人さえおり、時にここがタイなのかミャンマーなのかが曖昧になる。

とはいえ、彼らは夜闇に紛れてこの街に来さえすれば自由になれるわけではない。タイには通称無国籍証(または山岳民族証)という無国籍者向けの10年有効な身分証制度があり、ミャンマー人はこれか、より取得しやすいが1年毎に更新が必要な通称ピンクカードを申請することが多い。しかしどちらにせよ他地域への旅行や就労は事前申告制で厳しく制限され、結局街から外に出ることは非常に難しい。シュンレイ・イーはこれを利用してタイ国内でのイベントやワークショップに参加していると語っていたが、それは彼女の知名度が為せる技だろう。

Linyi

ミャンマーとの主要な接点のひとつであることも手伝って、街の規模にしては外国人の姿も目立つ。NGOが建てた現地の病院には韓国人の医師がおり、亡命ミャンマー人を支援するNGOでは英国人が働いていた。ある晩夕食の列に並んでいた時に横にいたのはパキスタン人で、なんと日本にいる親族から中古車を仕入れ、ミャンマー国内の顧客に売っているという。前述のマフィアが拠点に向かう中継地点でもあるので中国人も多く、マッチングアプリで男性を探すとそうした怪しい雰囲気の人ばかりが出てくる。ちなみにこの詐欺の拠点のエピソードは中国で映画化され一気に有名になり、コロナ前に年間1000万人以上いた訪タイ中国人観光客が今年1/4にまで落ち込んだ原因のひとつにもなったといわれる。真っ当な中国資本も周辺で開発を行っており、そこでは多くのインド人が働く。多様な外国人が流入するこの田舎の小さな街は、国に戻ることもできない彼らにとっては世界のすべてなのだ。

Linyi

「ミャンマー」は多数派ビルマ人の国

シュンレイ・イーに面会した次の日、我々は国境沿いの闇市を訪れた。一帯の国境線は幅の狭い川に沿って引かれており、物資運搬用の橋の脇200mほどに、ミャンマーで製造されたと思しきタバコや日用品、酒類などを扱う簡易な屋台が並ぶ。店の前には鉄条網が設置されており、商品のやりとりは手を伸ばして鉄条網=事実上の国境線をまたいで行われる。しかしその後ろを覗き込むと本来の国境線であるはずの川まではまだ100mほどの空間があり、どうやら屋台の店主たちが住んでいるらしき小屋も見える。国境が地続きの場所にはありがちだが、その空間は事実上誰にも管理されていないのだろう。

その夜、シュンレイ・イーと会ったのと偶然同じ店で、今度は学生時代にサフラン革命(2007年の僧侶を中心とした反政府デモ)に参加して以来政治運動を続ける活動家と会った。彼は席について早々に「実は結婚式の最中に軍が踏み込んできて逮捕されたもんだから、俺まだちゃんと結婚してないんだよね。子供もいるし、書類はあるんだけど」などと言い、彼自身が「ここのは割といける」というミャンマー料理をかきこみながら、様々な勢力が今どのような思惑で行動しているかすこし面倒くさそうに、それでも意外と丁寧に解説してくれた。武装勢力向けの印刷屋が本業だという彼の見方は過度に楽観的ではなく、むしろ逆にともすれば冷めたともいえるものだ。「革命はもうそのもっとも熱い季節を終えてしまった」という彼は、多くの人がいつでも祖国に帰れるようにと1年更新のピンクカードを申請するところ、10年有効な無国籍証を取得して仲間から「お前はクーデターが10年も続くと思っているのか?」と呆れられたらしい。

いま彼自身が力を入れているのは、サッカー大会や映画上映などのイベント開催を通じたこの街で暮らすミャンマー人たちの交流促進・コミュニティづくりだ。彼は「他のやつらはみんなずっと『これからの政治はどうあるべきか』みたいな肩肘張ったつまらないことしか言わないから」とシニカルにいうが、私がこれを聞いて思い出したのは、そもそもミャンマーであれ旧国名のビルマであれ(これらは一般的に同じ言葉の口語と文語の表現の違いとされる)、その国の名前すら「多数派民族であるビルマ人の国である」という意識で命名され、3割を占める少数民族はこれまで常に無視されてきたということだ。だから事実「(民族として)ビルマ人」ではない少数民族は外国人に「あなたは何人ですか」と聞かれたら当然自民族の名前を言う。連邦制を唱え少数民族を幹部に据えるNUGですら、ゴールであるはずの各民族が統合された先の国家にも、その国民にも、ふさわしい名前すらあたえることができていないのが現状だ。これは国軍の支配に勝てたとしても残り続ける、ミャンマーが抱える根本的な問題ではないか。

この街に潜む統計上は数万人の「ミャンマー人」たちも祖国にいるとき同様、普段はそれぞれの民族や宗教ごとのバラバラで小さなコミュニティの中で暮らす。活動家の彼にとってイベントを通じてそれらを結びつける試みは、あるいはこの小さな街の中に、今は名前すら持たない未来の母国の雛形を創造する試みなのだろうか...そんなことを考えながら、私の短い滞在最後の夜は更けていった。


林毅

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