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イスラム組織、イスラム勢力、イスラム聖戦...日本メディアがパレスチナ報道に使う言葉を言語学的視点から考える

ニューズウィーク日本版 2023年11月4日 16時55分

<ハマスの名称はアラビア語の「イスラム抵抗運動」の頭文字から構成されているが、日本のメディアは「イスラム組織」と説明する。頻出する「イスラム●●」という言葉は、ときに実情と全く違う意味を伝えている>

パレスチナとイスラエルとの武力衝突について、日本のメディアは真逆の意味を伝えている。問題を言語的に表現していく上で、客観を主観から切り離さず当事者視点を重視しない傾向がある。わざとではないと思いたいが、多くのニュースや報道番組に使用される言葉を見て、意図的に事実を曲げて伝えているとしか思えない。

この3週間でイスラエルと、パレスチナ人の抵抗運動の主力である「ハマス」との武力衝突が激しさを増していて、破壊の連鎖は止まりそうにない。世界各国のメディアも刻一刻と変化するその情勢を伝えるのに必死となっている。もちろん、日本のメディアも例外ではない。テレビやラジオ、ネット配信動画などを通じてそれぞれの国民に実情を語りかける。そこで最大の武器となるのは、言葉である。言葉には、出来事に対する人の意識や認識を誘導する力がある。

 

言葉は「社会・文化を映し出す鏡」と言われている。若い頃はあまり実感していなかったが、最近は本当にその通りだと思う。

「観点」と「視点」の違い

ハマスとイスラエルの武力衝突について、この1週間で、当方が調べた日本メディアのタイトルや文面には、次のような言葉や表現が多用されていた。

イスラム組織、ハマス、大規模攻撃、実効支配、拉致、軍事衝突、ガザ地区、イスラエル軍、カッサム旅団、戦闘員、人質、テロ行為、流血、越境攻撃、地上侵攻 など

これらの単語や表現は特定の目線の下で意味が形成されるものである。

語彙の意味的パターン(性質)は2つのカテゴリーに分けることができる。1つは行為そのものを表現しているが、その行為に至るまでの背景を反映しないものである。パレスチナ情勢で例えると、「攻撃」や「テロ」、「衝突」のような単語が一例となる。

もう1つのパターンは、出来事や行為の背景を反映するものだ。このパターンはアラブメディアに多く見られ、イスラエル軍は「イスラエル占領軍」とされる。日本や欧米メディアが使用する「実効支配」もこれに当てはまる。

そもそも、単語が表現する意味のメカニズムはどうなっているのだろうか。語は現実世界にある物事の側面を捉えて名付けたものであるが、この現実世界にある物事を捉えた側面(語の意味=語義)と名付けたもの(語形)との関係となる。

その上で、言葉というのは語形から単語の意味を、また、語義(言葉の意味)から語形を思い起こすことができるものである。そして、人が言葉の意味を思い起こす際に「視点」と「観点」がその意味の捉え方や受け止め方に大きく影響する。

「観点」と「視点」という言葉はどちらも物事を見る立場を意味しているが、本来の意味は少し違う。その違いをわかりやすく言うと、観点は「考え方」であり、視点は「見方」である。

また、言葉の意味というのは、主観的視点と観点が織り交ざってできるものである。つまり客観的で一般的な意味から出発して考えるのではなく、個人的で主観的な意味から出発して考えようとするものだ。

「イスラム組織ハマスが大規模攻撃」

例えば、イスラエルとパレスチナの軍事衝突の状況を伝える日本の報道には、こんな見出しが多く見られた。

 

「イスラム組織」という表現に込められたメッセージは、語彙的に先行する言葉が意味決定に大きな影響を与えることになる。ある人が「イスラム/islam」と発音したとする。でも「イスラム」というものが具体的にどういうイメージで捉えられるかは人それぞれだ。それまでの人生で「イスラム」をどのように体験してきたかは人によって異なる。そのためか「イスラム」という音から生まれる「意味」は基本的にその人の主観的な体験に根差して多岐にわたるわけである。

日本のメディアは、このように「イスラム●●」と容易く使用するが、読み取れるメッセージはイメージを悪くするだけではなく、実情とは全く違う意味合いを伝えていることもある。

「イスラム組織」は造語

そもそも、ハマスの正式名称はアラビア語で「イスラム抵抗運動」であり、その頭文字から構成されたものだ。「情熱」という意味の単語にもなる。ところが、日本のメディアは活動内容を示す最も重要な部分である「抵抗運動」をとり、代わりに「組織」を当てている。

一見何の問題もないように思われるかもしれないが、言葉には「意義素」という機能的部分があって、その意義素への理解の有無によって、言葉への理解の度合いとその内容が大きく変わってくる。つまり、この「イスラム組織」という表現は何の意味も為さないことになる。

そもそも「イスラム組織」という表現は造語だ。新しく語を作り出す方法を造語法という。新しく作られた事物や新しい概念に対しては語を対応させねばならない。このような場合に考えられるのが、既存の語を基に作る方法である。造語にはメリット・デメリットの両面があるが、その言葉で伝えたい意味が見えなければ、かえって理解を阻むことになる。イスラム組織やイスラム聖戦、イスラム勢力などのように「イスラム●●」と安易につなぎ合わせて新しい言葉を作り出すのは避けるべきだ。

語の意味とは、それを何に対して、どういった観点から用いるかという、ある時点における社会規範や慣習を反映したものであると言えよう。

こうした性質があることから、語義は、指示対象(言葉が表している事物のこと)との関係で問題になることがある。例えば、「レジスタンス」という単語の場合、「抵抗勢力」や「対抗勢力」より政治的体制に危険を及ぼす可能性のある組織や団体であるが、実際には日本のメディアで使用されることがほとんどない。ところが、ウクライナ情勢となると話は別で以下はその使用事例だ。

「ロシア人よ、地獄へようこそ」ウクライナ市民のレジスタンスが始まった|ニューズウィーク日本版

ウクライナのレジスタンスとロシア軍のリスク 元米海兵隊大佐の予測|朝日新聞

ロシアの補給橋爆破、ウクライナのレジスタンス関与...「クリミア付近まで進軍」視野|読売新聞

 

言葉の意味(語義)は、具体的な場面や文脈の影響を除いた、多くの人が共通して認める意味(デノテーション、明示的意味)と、文化や個人によって二次的に連想される意味(コノテーション、副次的意味)とに分けられる。

日本語の時事分野において「イスラム」や「レジスタンス」などはその一例となる。例えば、「レジスタンス」と「抵抗勢力」のデノテーションは同じであっても、コノテーションの意味は違う。これは、メディアが「レジスタンス」の単語をパレスチナ情勢に使わないのに対しウクライナ情勢に使用することからも分かる。このコノテーションの意味こそ、単語を選択する上で大きな判断材料となる。単語の心臓部と言ってもいいだろう。コノテーションの詳細は評価的、感情的、文体的、待遇などさまざまだが、意味合いの差を明らかにする際にこれらの要因は重要である。

ところが、「パレスチナ市民のレジスタンス」という言い方は他の国で使用されていても、日本のメディアの手にかかると「組織」や「勢力」に変えられてしまう。

複雑で難解な情報ほど認知的労力が必要に

中東アラブ地域、ひいてはパレスチナ情勢を報じる日本のメディアが使用するさまざまな言葉には、「視点的要素」よりも「観点的要素」の方が遥かに大きい。

そもそも私たちは何かに関心を向けると、その分野のことをもっと知ろうとするためのアンテナが強化される。そして、そのことに集中するあまり、周りで何が起きているかに気付けないことがある。同様に、メディアが発するメッセージ(情報)を認知するためには、集中的にその情報に注意を向ける必要がある。

処理する情報が複雑で難解であればあるほど、より多くの注意力や集中力、認知的労力が必要になり、それ以外の情報に注意を向けることは困難となる。そのため、メディアが伝えようとしているメッセージを理解するのを途中で放棄してしまうことが多い。例えば、意味不明な言葉「イスラム聖戦」や「イスラム組織」などのような視点や観点が強い言葉を理解するのには、認知的労力が必要となる

このような言語の認知システムの特徴を考えると、人間の言語情報処理や解釈は自分にとって価値のあるものしか選択しないことに気づく。注意を向けるなら、それなりの効果や見返りが欲しくなるのは人間の認知システムの本質である。そして、その注意を引く認知的効果次第で「特定の要素や問題」への関心が高まったり下がったりする。

複雑な構造のようで極めてシンプルな話である。自分にとって身近で関心が持てる言葉にこそ価値を見出すこと、それが人間の求める情報と言葉の関係である。アラブ中東地域のさまざまな問題を伝える際に日本のメディアにもその「言葉の重さ」を理解してほしい。

 

現在、パレスチナ情勢は危機的な局面を迎えており、同時にアラブやイスラムに対する誤解や偏見も拡大している。また一方で、国連総会の停戦決議に棄権した日本政府の姿勢に対するアラブ人の厳しい見方も進んでいる。

日本とアラブ世界が迎えた 21 世紀とは、単なる 20 世紀の延長ではない。過去・ 現在・未来を同時に生きなければならない、「複合の世紀」なのだ。これまでの日本とアラブ世界の関係に関する議論が、過去中心、または未来中心の、どちらか片方の見解によってなされてきたとすれば、今後は、過去の中の未来、そして未来の中の過去を、同時に読み解こうと努力していかなければならないのだ。

【執筆者】アルモーメン・アブドーラ
エジプト・カイロ生まれ。東海大学国際学部教授。日本研究家。2001年、学習院大学文学部日本語日本文学科卒業。同大学大学院人文科学研究科で、日本語とアラビア語の対照言語学を研究、日本語日本文学博士号を取得。02~03年に「NHK アラビア語ラジオ講座」にアシスタント講師として、03~08年に「NHKテレビでアラビア語」に講師としてレギュラー出演していた。現在はNHK・BS放送アルジャジーラニュースの放送通訳のほか、天皇・皇后両陛下やアラブ諸国首脳、パレスチナ自治政府アッバス議長などの通訳を務める。元サウジアラビア王国大使館文化部スーパーバイザー。近著に「地図が読めないアラブ人、道を聞けない日本人」 (小学館)、「日本語とアラビア語の慣用的表現の対照研究: 比喩的思考と意味理解を中心に」(国書刊行会」などがある。



アルモーメン・アブドーラ(東海大学国際学部教授)

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