Infoseek 楽天

李克強急死でも反政府デモが不発だった理由

ニューズウィーク日本版 2023年11月7日 17時39分

<李克強は政策論争でことごとく習近平に負け、経済政策も鄧小平らの受け売りだった。共産党幹部は丁重に彼を見送ったという>

中国では11月2日、先月(10月27日)死去した李克強・前首相の告別式が行われた。議論を避けるため、中国国内では告別式のニュースが大きく報じられることはなかったが、今後中国の景気悪化がさらに深刻化すれば、李の死をめぐる議論が再燃し、習近平国家主席を悩ませることになる可能性があると専門家は指摘する。

<画像>送電線もガス管も建物の外を這う密集した中国の「スラム街」

シンガポール国立大学リー・クアンユー公共政策大学院のアルフレッド・ウー准教授は、「今後中国が景気後退に陥れば、国民が経済や国民の福祉・幸福についての李の考え方を思い起こすことになるかもしれない」と指摘した。

李は最終的には習の政治的な方針に従ったものの、一部からは「習近平に対抗できる可能性がある政治家」と見られていた。李の比較的市場寄りの政策は、国家安全保障を重視する現在の習のイデオロギーとは対極にある。

中国政府がどれだけ李の存在を脇に追いやっても、彼の死をめぐっては当面の間、さまざまな噂が飛び交うことになるかもしれない。

「習近平は李克強が死亡した状況について、さまざまな噂が広まる前に先手を打とうとしているのかもしれない。いずれにせよ、噂が大きな影響力を持つことはなさそうだ」とウーは本誌に語った。

中国の国営メディアは李について、10月27日に上海で心臓発作により死去したと報道した。68歳とまだ比較的若かったことから、その死をめぐってさまざまな噂が飛び交った。

治療も診断も政治絡み

中国の指導者は、中国共産党の医師団が特別な健康管理を行っており、定期的に健診も受けているが、それには政治も絡む。中国の周恩来元首相が膀胱がんと診断を受けた際には、当時の国家主席だった毛沢東が医師に対して、本人に告知をしないよう指示して手術も許可せず、これが周の死につながった。

11月3日には、中国国営の新華社通信の報道によって、李の死をめぐる新たな情報が浮上した。李が病院に搬送され、懸命な救命措置が行われるなか、中国指導部の複数の面々が病院を訪れたという。

「李前総理の治療中と死去後には、習近平氏、李強氏、趙楽際氏、王滬寧氏、蔡奇氏、丁薛祥氏、李希氏、韓正氏、胡錦涛氏などが病院を訪れ、また、さまざまな形で李克強氏の死去に深い哀悼の意を表し、その親族に深い慰問の意を示した」と新華社は報じた。

李の死後、彼が幼少期を過ごした安徽省合肥市の家の外には大勢の人が集まり、哀悼の意を示した。一部の専門家は李の死後、かつて胡耀邦や趙紫陽などの政治指導者が死去した後に発生したような大規模な反政府デモが起きる可能性があると予想した。だが今回は予め、共産党幹部らが埋葬される北京の「八宝山革命公墓」への移動は制限されていた。大規模な集会を防ぐためだ。

インド・ベンガルール(旧バンガロール)にあるシンクタンク「タクシャシラ研究所」で中国学を専門とする研究員のマノジ・ケワルラマニは本誌に対して、習が李の死に関する報道を操作している可能性があると、次のように述べた。

「それは『人民日報』に掲載された公式な追悼記事からも明らかだ。この追悼記事は、李克強が「共産党中央委員会および共産党の中核としての習近平総書記の立場を断固として守った」と言明。国民に対して『悲しみを強さに変え』、『李氏の革命精神から学び』、また『習近平同志を中核とする共産党中央委員会を中心にさらに固く団結』するよう呼びかけている。つまり李克強氏のレガシーを称えるためには、今後も習近平を敬い続けることが必要だという主張だ」

リー・クアンユー公共政策大学院のウーは、李克強は胡耀邦や趙紫陽のように、その死が大規模な抗議デモを引き起こすような改革派ではなかったとして、大規模な抗議活動に関する憶測には懐疑的な見方を示した。

「李克強は実質的には改革派ではなく、胡耀邦や趙紫陽のように中国国民に対して社会的な影響を与えることはなかった。経済に関するアイデアは、鄧小平のような過去の指導者からの受け売りだった。だから李の死が反政府の大規模な運動に発展する可能性は低いだろう」とウーは本誌に語った。

政策論争で習に完敗

米非営利組織「フリーダム・ハウス」の中国・香港・台湾問題担当調査ディレクターである王亚秋は、中国のエリート政治に対する李克強の影響力が低下したことで、習の権力が拡大したと考えている。

王は本誌に最近寄稿した論説記事の中で、次のように述べていた。「中国にとって残念なことに、李克強は政策論争のあらゆる場面で習近平に完敗した。彼は中国共産党による支配の歴史の中で、最も権力のない首相と考えられていた。習がますます多くの権力を握るにつれ、李の権威は低下していった」



アーディル・ブラール

この記事の関連ニュース