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【解説】関係修復は遠い夢? ジョー・バイデン&習近平会談の「歴史的価値」とは?

ニューズウィーク日本版 2023年11月21日 13時0分

<APECでの「対決」は歴代大統領の首脳会談と比べてどうだったのか>

それはアメリカのバイデン政権発足以来、最も期待感の高まった首脳会談だったと言える。ジョー・バイデン米大統領は11月15日、サンフランシスコで開幕したアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会合の折に、中国の習近平(シー・チンピン)国家主席と対面で会談をした。議題は限定されていたが、首脳外交とその個人間の親交によって「新冷戦」という最悪のシナリオを回避すべく、突破口への道筋を付けられるかが試される場となった。

1969年、リチャード・ニクソン米大統領(第37代)は就任早々の欧州歴訪時に、外交の心得を語っている。「国家の首脳間に信頼があれば、意見の相違を解消する機会が増す」。この姿勢あってこそ、ソ連との戦略兵器制限交渉や、「世界を変えた1週間」として有名な72年の訪中といった突破口が開かれた。

50年余りが過ぎた今、バイデンも同じような賭けに出た。その背景にあるのは中国との地政学上の駆け引きだ。対面外交によって信頼関係の構築に着手し、米中という超大国間の紛争リスクに歯止めをかける。それが目的だった。

諸外国の外交筋や専門家は、米中間の緊張を和らげようとするバイデンの努力を称賛した。ただし会談の成果についての答えが出るのはこれからだ。「米中関係を安定させていく長い道程の、せいぜい最初の一歩にすぎない。この先に障害物は多い」と言ったのはウッドロー・ウィルソン国際研究センターのプラシャント・パラメスワランだ。

現代アメリカの歴代大統領は、主要な外交政策で成果を得るために首脳会談に賭けてきた。だが、果たして対面の首脳外交で大きな得点を稼げたのか。歴史をひもとけば、必ずしもそうとは言えない。

関係修復は遠い夢か

今回のサンフランシスコ会談の雰囲気は、少なくとも報道陣に公開された部分を見る限り、ぎこちなくはあっても礼儀正しかった。しかし首都ワシントンの空気は違っていた。議会からも外交筋からも、中国をアメリカの「存亡に関わる」脅威と呼ぶ声が上がり、首脳会談の時期ではないとする批判もあった。

「中国は普通の国ではない。侵略国家だ」と上院外交委員会の共和党トップ、ジェームズ・リッシュ議員は言う。「バイデンは習に擦り寄り、無意味な作業部会や積極的関与の仕組みを提案しただけ」

首脳同士が対面で話したところで、本当に米中関係の修復が可能なのだろうか。

「中国問題の専門家にとっては見慣れた光景だ。アメリカ政府にとって好ましい成果は出ないだろう」と言うのは民主主義防衛財団(FDD)の中国専門家クレイグ・シングルトンだ。「積極的関与と言いながら、2人とも従来の対決姿勢を固持している。関係安定の可能性は、よくてほんの少し、悪くすればゼロだ」

第1次大戦後のベルサイユ条約締結につながる1919年のパリ講和会議に深く関わったイギリスの外交官で政治家のハロルド・ニコルソンの著書には、「世界各国の政治家間で個人的に接触する習慣ほど致命的なものはない」という厳しい総括がある。

そんな評価が一変したのは、第32代大統領フランクリン・ルーズベルトが個人外交を重んじて、連合国間の首脳会議を次々に開いてからだ。米英ソ首脳による43年のテヘラン会談と45年のヤルタ会談などを経て、第2次大戦の勝利戦略、さらには戦後世界の将来図が描かれた。

ただし誰もが賛同したわけではない。ドワイト・アイゼンハワー(第34代)は、「大統領が自ら海外に出向いて交渉するという発想は、つくづく愚かしい」と述べたことがある。これはヤルタ会談やポツダム会談への批判と見なされている。結果としてソ連が東欧に勢力を広げたからだ。

それでも流れは変わった。そもそもアメリカの首脳外交で最初の成果を上げたのは第26代のセオドア・ルーズベルトだ。マラソン外交で日露戦争の終結を仲介したことを評価され、1906年にノーベル平和賞を授与されている。

20世紀の後半には、ジミー・カーター(第39代)が78年にイスラエルとエジプトの間を取り持ち、キャンプデービッド和平協定をまとめた。ロナルド・レーガン(第40代)は86年にアイスランドのレイキャビクでソ連の指導者ミハイル・ゴルバチョフと会い、米ソ両国の核兵器全廃という包括合意の一歩手前まで行った。運命的な会談となり、冷戦史に残る最大級の「もしもあの時......」事例とされる。

21世紀に入ると、2013年にはバラク・オバマ(第44代)と習がカリフォルニアで「シャツの袖まくり」会談をやり、15年には習が国賓として訪米した。オバマ時代の両国関係は順調だった。

不利な要素が多い賭け

だが成功例だけではない。1961年のジョン・F・ケネディ(第35代)とソ連首相ニキータ・フルシチョフの会談は、米ソ関係に新たな友好の時代を築くことを意図していたが、両首脳が個人的に衝突したことで裏目に出た。

オバマは1期目に「2国家共存」の原則に立ち戻ってパレスチナ問題の解決を目指したが、最終的には歴代のアメリカ大統領と同様な失敗に終わった。こうした失敗の繰り返しが、現在のガザ地区での戦争につながっている。

第45代のドナルド・トランプは北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)総書記と2度にわたる歴史的な首脳会談を行い、自慢の交渉力で北朝鮮に核武装を放棄させようと試みたが、こちらも無惨な失敗に終わった。

ここへきてバイデンが習との首脳外交に打って出たこと自体は、別に驚くに当たらない。もう何年も前から、バイデンはアメリカ外交で主導的な役割を果たしてきたからだ。09年から17年までの副大統領時代から、習とは面識があった。しかし、この経験知が裏目に出ることもある。

なにしろ両国間には構造的な難問が山積している。台湾をめぐる軍事的緊張、熾烈なスパイ合戦、習政権が内政面で急激に独裁色を強め、新疆ウイグル自治区でウイグル人を弾圧している事実、終わりなき貿易戦争、米政界における反中派の台頭などであり、いずれも解決の道筋を見通せないのが現実だ。

しかも来年には2つの不確定要素が待ち受けていて、悪くすれば今回の首脳会談の成果などは吹き飛んでしまう。

まずは1月に予定される台湾の総統選挙。台湾は実質的に独立しており、アメリカは外交的にも軍事的にも支援しているが、中国は台湾を自国の一部と見なしている。2つ目は11月の米大統領選挙。国際社会における中国の影響力と戦うことを外交政策の軸に据えるトランプが勝利する可能性は否定できない。

「パンダ外交」は継続する

それでも外交は外交──、文字どおり人が外へ出向いて交わるのが基本だ。ビデオ会議でも「対面」はできるが、一番大事なのは実際に顔を合わせること。日露戦争を終結させる1905年の和平協定を結ばせるまでに、ルーズベルトはロシアと日本の代表団と共にニューハンプシャー州で1カ月も過ごした。

ニクソンは1972年の歴史的訪中の際、当時の周恩来首相と丸々1週間を過ごし、米中国交正常化への道を開いた。カーターもメリーランド州の人里離れた大統領別邸でイスラエルとエジプトの指導者との交渉に丸2週間を費やし、ようやく歴史的なキャンプデービッド合意をまとめ上げたのだった。

現代外交、そして現代政治の特質として、今のアメリカ大統領にはそんなに長く出かける余裕がない。バイデンはAPECサミットで複数のアジア太平洋地域の首脳と会談したが、その日程はわずか2日だった。習との膝詰め談判も4時間で終わった。

それでもバイデン政権は、手ぶらで帰ってきたわけではないとアピールしている。バイデンと習は今回の首脳会談で、緊張緩和のための新たな取り組みを数多く発表した。事故や連絡ミスによる軍事衝突を防ぐため、両国の軍隊間の専用通信回線を復活させる合意も含まれている。

両首脳はまた、中国からアメリカに密輸される合成オピオイド(フェンタニル)の不正流通対策や、気候変動に関する協力、AI(人工知能)に関する協議開始にも合意した。

バイデンは習の妻・彭麗媛(ポン・リーユアン)の誕生日への祝意を伝え、点数を稼いだ(二人の誕生日は共に11月20日)。ただしその後の記者会見で、バイデンは習を「独裁者」と呼んでしまった。せっかく誕生日で稼いだ得点も、これで帳消しだ。

一方、習はパンダ外交の継続を示唆して点数を稼いだ。アメリカでは近年、中国産パンダの貸出期限終了による返還が相次いでおり、首都ワシントンの動物園からもパンダがいなくなっていた。習は新たにパンダをアメリカに贈る意向を示した。

前出のプラシャント・パラメスワランに言わせれば、首脳間の「個人的な信頼関係は大事」だ。いざ危機が迫ったときに「最終決定を下すのは双方のリーダー」だからだ。実際、レーガンとゴルバチョフのレイキャビク会談では両人の相性が大きくものを言った。二人の個人的な友情がなければ、あそこまで核兵器廃絶の夢に近づけることはなかっただろう。

では、バイデンと習の場合はどうか? 同行した政府筋の大半は、今回の合意事項の全てを中国が守るという保証はなく、評価を下すのは時期尚早とみている。個々の合意を実行させる仕組みができなければ絵空事に終わるという冷めた見方もある。

それでもバイデン自身は、今回の会談で習を理解できたと思っている。記者団には「彼の出方は知っている」と語った。「もちろん意見の相違はある。多くのことについて、私と彼の見解は異なる。しかし彼は率直だった。善し悪しの問題は別として、ともかく率直な男ではある」

From Foreign Policy Magazine



ロビー・グラマー(フォーリン・ポリシー誌外交担当記者)

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