Infoseek 楽天

「歴史は繰り返す」は正しくない...高坂正堯、30年越しの「新作」から考える「歴史を学ぶ」の本当の効用

ニューズウィーク日本版 2023年12月6日 10時50分

<冷戦終結直後の1990年に行われた、幻の講演録「歴史としての二十世紀」がこのたび文字に起こされた。現在と未来、そして歴史をどう学ぶのか?>

将来のことはわからない

現在が非常に大きな転換点にある、一つの時代が終わりつつあるというのは誰もが感じていると思うが、そこから何が出てくるかはわからない。所詮、将来というのはわからないところがある。

しかも現在、共産主義は崩壊したけれども、では次の新しいアイデアは何かというのは出ていない。大きなアイデアが世界に通用しない、という否定的な面はわかっているが、こういう新しい理念でやっていくという理念が生まれているわけではない。

そういうときに将来がどうのこうのは推測でしかないので、したがって、今までに起こったことがいったいどういう風なものであったのかを整理しておきたい――。

1990年1月19日、高坂正堯はこのように述べて、今回の本の元になった6カ月にわたる講演を始めた。新宿紀伊國屋ホールで毎月おこなわれていた新潮社の文化講演会の1990年前期連続講演である。(録音音声は、LisBoで聴くことができる。上掲部分は試聴も可能。音声はこちら)

将来のことは、たしかにわからない。高坂は別の機会に、以下のように述べている。

人間というのは、10年先は見通せないと思っている。100年先は話が別で、現在誰かが何かを言って100年先の人が当たったところだけ読んでくれるので当たったように見える。しかし、10年先のことはわからない。

(高坂正堯「日本の立場――内なるものの視座」(国際日本文化研究センター編『世界の中の日本 II 国際シンポジウム 第2集』1990年)) 

いや、10年後だけでなく、1年後も1か月後も確たることはわからない。昨年来のロシア・ウクライナ間の戦争がいついかなる結末を迎えるのか、定かではない。したがってまた、今後の国際秩序や大国ロシアのあり方がどうなっていくのかも不明である。

『歴史としての二十世紀』は今回、宣伝文句などから察するに、ロシア・ウクライナ間の戦争を機に刊行が計画されたはずである。しかしそれが世に出るころには、イスラエル・パレスチナという別の巨大な国際問題も前景化していた。

まさに、「そこから何が出てくるかはわからない。所詮、将来というのはわからないところがある」との言が似つかわしい状況である。

歴史は現在・将来を語るか

では、歴史を学べばそれで将来を見通せるようになるか。あるいは、現在について確たることを語れるようになるか。残念ながら、必ずしもそうでもない。

高坂はこう言っている。

歴史はわれわれにそのまま正確な指針を与えてくれるものではない。それも当然で、「歴史はくり返す」という言葉は正しくないからである。同じようにみえてもどこかがちがう。

(高坂正堯『大国日本の世渡り学――国際摩擦を考える』PHP研究所、1990年) 

将来のことはわからない、そこで歴史を振り返ってみようという話であるのに歴史を学んでも現在や将来に直接応用できるわけではないのでは、救いがないように思えるかもしれない。

だが、歴史を学ぶ効用はたしかにある。

高坂が上掲『大国日本の世渡り学』で示したなかから2つ挙げれば、まず、歴史の感覚は現在を見るわれわれの目を相対化する。すなわち歴史をよく知っていれば現在のできごとを、少々変わった視角から見ることができる。そして、歴史はヒントを与える。

歴史の教えはかようにいわば慎み深く、間接的である。現在について考えるために歴史を振り返ろうとするのはよいことだが、そこで「歴史は○○だった。ゆえに現在▲▲すべきだ(/将来■■になる)」と安直に断ずるような論は、往々にして危うい。

歴史がわれわれに与えてくれるのはものの見方や示唆であって、一定不変の解ではない。歴史を学び現在を見る目を相対化したうえで、その豊かになった目をもって現状を的確に分析できるかどうかは、現在に生きる者次第である。

高坂の歴史語り

私は高坂の言論活動をリアルタイムでは知らないし、正直に白状しておけば、これまで高坂作品の熱心な読者でもなかった。丁寧に読んだのは、『国際政治』、『古典外交の成熟と崩壊』、『宰相吉田茂』くらいだろうか。

優れた先人の論の一つとして大いに学びはしたが、それ以上でも以下でもない。「高坂正堯」と聞くと語る熱量が一段上がり、ともすれば唯一無二の知的巨人のように位置づける向きがあるのを、やや不思議に思っていた。

しかしこの度、偶々本稿の依頼があり『歴史としての二十世紀』をよく読むと、これが実に面白い。示唆に満ちている。

それは、全編を通じてどこで現れるかわからない。いわば要約をこばむ作品である。その語りを追体験するのは、高坂が嗜んだ囲碁になぞらえれば、さながら名手の流麗な棋譜を並べるようである。

「戦争の世紀」再来というのが今回『歴史としての二十世紀』のキャッチコピーだが、私はむしろ戦争以外の記述により興味をひかれた。

例えば、大衆民主主義では財政赤字に陥るはずなのに日本がそうなっていないのは、大蔵省の役人が「財政は健全じゃなきゃいかん」と頑張っているのと、赤字に対する恐怖感が日本の庶民に強いからだとする。

日本の高い貯蓄率、日米間の摩擦、国際社会への日本の発信、と縦横に論じるなかでの一コマである。財政赤字に関して当時と状況が異なる現在、日本人の「赤字に対する恐怖感」は変化したのか。

あるいは、共産主義倒壊後の資本主義と民主主義について、こう警鐘を鳴らしている。

「共産主義との対抗関係があったから、自分たちのシステムが本当にいいのか悪いのか考えてくるのを怠ってきた。その点を今こそ考えるべきではないでしょうか」
(『歴史としての二十世紀』、151頁)

「資本主義と大衆民主主義の組み合わせは共産主義と同じくらい問題が多いのです。今までうまく機能していたのは、いくつかの前提が満たされていたからです」(同書、181頁) 

現在のリベラル・デモクラシーの困難を予見していたようにも見える。ただ、インターネット・SNSの普及に伴う言論空間の変容など、高坂の時代には発現していなかった要素もある。これらの差分をどう考えるか。

こうした問いや思考や気づきを、多々与えてくれる。読み手に開かれた語りである。「現実主義国際政治学の大家・高坂正堯」の教えを傾聴するというよりも、一つの歴史読みものとして、ときに自分なりに合いの手でも入れながら楽しむのがよいように思われる。

歴史を学ぶというとき、一方で、歴史的事実を知るということがある。他方で歴史の語りから、すなわち歴史をどう捉え論じるかというところからも得られるものがある。高坂の歴史語りはまさに後者の点で、大きな意義を持つ。

最後に一つ。この本(『歴史としての二十世紀』)の読者の中には、1990年の講演を実際に聴いた方がいるはずである。当時の印象はどうであったか、この本を改めて読んでどのような感想を持ったか、聞いてみたいものである。

佐々木雄一(Yuichi Sasaki)
1987年生まれ。明治学院大学法学部准教授。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了、博士(法学)。専門は日本政治外交史。著書に、『帝国日本の外交1894-1922』(東京大学出版会)、『陸奥宗光』(中公新書)、『リーダーたちの日清戦争』(吉川弘文館)、『近代日本外交史』(中公新書)など。

 『歴史としての二十世紀』
   高坂正堯[著]
   新潮社[刊]

(※画像をクリックするとアマゾンに飛びます)


この記事の関連ニュース