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最期まで真のヨーロッパ人だった「米外交の重鎮」...「複雑なリアリスト」キッシンジャーが逝く

ニューズウィーク日本版 2023年12月7日 14時50分

<デタントや米中関係改善を実現など、輝かしい外交の実績の一方で「冷血」と批判された男の本質とは? 現実主義を貫いたキッシンジャーの功罪について>

アメリカ史上最も影響力の強い真の政治家(ステーツマン)だったヘンリー・キッシンジャーが11月29日に死去した。100歳だった。

その長く波乱に満ちたキャリアを通じて、アメリカ外交にいくつもの偉大な勝利と、いくつかの最高に悲惨な敗北をもたらした人物である。

キッシンジャーはドイツに生まれ、ナチスの迫害を逃れて15歳でアメリカに渡った。長じては外交を通じて、第2次大戦後の世界秩序の維持・発展に大きく寄与した。

ソ連とのデタント(緊張緩和)を演出して東西冷戦期の安定を維持する一方、1972年にはリチャード・ニクソン大統領の懐刀として共産主義中国との国交正常化に動き、冷戦期の力関係を劇的に変えて見せた。

ニクソン政権で国家安全保障問題担当補佐官と国務長官を歴任。1973年の第4次中東戦争時には、いわゆる「シャトル外交」で和平合意を取り付け、元駐イスラエル大使のマーティン・インダイクに言わせれば「不穏な中東地域にアメリカ主導の新たな秩序を確立し、アラブ・イスラエル間の平和の礎を築いた」。

また、伝記作家ウォルター・アイザックソンはキッシンジャーを、冷戦時代の封じ込め戦略の生みの親とされるジョージ・ケナンと並び立つ「20世紀のアメリカで最高の交渉人」と呼び、「外交に最も影響力のある知恵者」だったと評している。

一方で、とりわけリベラル派からはアメリカの軍事力を駆使して無数の人々を殺した冷血漢と非難された。

ニクソン政権下でカンボジアに対する無差別爆撃を容認し、結果的にクメール・ルージュ(ポル・ポト派)の台頭を許した。ベトナム戦争では和平合意のパリ協定をまとめた功績で1973年にノーベル平和賞を贈られたが、その2年後にサイゴンが陥落し、アメリカは最悪の敗戦を喫している。

同じ73年には、容共派とみられていたチリのサルバドル・アジェンデ大統領に対する軍事クーデターを支持した。また71年には東パキスタン(現バングラデシュ)の分離独立を阻みたいパキスタン軍を支持して違法な武器供与を決定し、結果的にベンガル人の大量虐殺を許した。

米プリンストン大学の政治学者ゲイリー・バスは後に、この決定を「冷戦期における最大の汚点の1つ」と評している。バスの入手した録音テープや文書からは、キッシンジャーが「死にゆくベンガル人」への同情は無用と考えていた節がうかがえる。

1971年7月に北京の迎賓館で周恩来首相と会談し、米中国交正常化につなげた WHITE HOUSEーCNP/GETTY IMAGES

キッシンジャーは1923年5月27日、ドイツ南部のフュルトで生まれた。ワイマール共和国の迷走と崩壊を経てナチス政権が成立すると、その迫害で多くの親族を失った。

アメリカに亡命してからは新天地になじもうとしたが、強いバイエルンなまりが抜けなかったのと同じく、理念よりも現実を重視するヨーロッパ流の政治、いわゆる「レアルポリティーク」を信奉し続けた。

外交に関しては19世紀ドイツ帝国の「鉄血宰相」ことオットー・フォン・ビスマルクに心服し、後に自ら記しているように、「外交政策は感情ではなく、強さの評価に基づいたものでなければならない」というビスマルクの信念に同調していた。

伝記作家のアイザックソンは、これが「キッシンジャーの指導原理の1つ」だったと指摘している。

やがて米ハーバード大学の教授となったキッシンジャーは、聡明であると同時に野心的な人物として知られ、すぐに政界トップの信任を得た。

最初は民主党のジョン・F・ケネディ、次は共和党のネルソン・ロックフェラー、そしてリチャード・ニクソンである。ニクソンは毀誉褒貶の激しい人物だったが、その点はキッシンジャーも同様だった。負けん気が強く、ニクソン政権ではライバルを次々と蹴落として出世した。

抜群の説得力とユーモアと

しかし学者として、そして抜群の説得力の持ち主としての功績は後世に残るものがある。博士論文では、19世紀前半のオーストリア帝国宰相メッテルニヒらの現実主義が成功した理由を詳細に論じた。

また1957年の著書『核兵器と外交政策』は意外なベストセラーとなったが、キッシンジャーは同書で限定的核戦争を支持していた(この主張は後に取り下げている)。

キッシンジャーはベトナム戦争も支持した。ただし研究者のバリー・グーエンによると、現地への訪問を経た1965年の時点で、既に無益な戦争と見越していたが、それでもアメリカの影響力が落ちないように腐心した。そしてソ連とのデタントを演出し、保守派の怒りを買ってでも核兵器削減交渉に手を付けた。

ニクソン政権下で国家安全保障問題担当の大統領補佐官と国務長官を歴任 UNIVERSAL HISTORY ARCHIVEーUNIVERSAL IMAGES GROUP/GETTY IMAGES

一方で72年には、ソ連と中国の関係が冷え込んでいると踏んで、一気に中国との和解に動いた。これがソ連との戦争回避に役立ったと評する向きもある。当時のアメリカはベトナム戦争で世論が分断され、混乱を極めていた。

米中接近は、等しくリアリストの大統領ニクソンと組んでこその快挙だった。両人とも、共産主義は一枚岩だという見解やドミノ理論(一国が共産化すると周辺国も将棋倒しのように共産化するという考え方)には早くから背を向けていた。

グーエンの2020年の著書『悲劇の必然性──ヘンリー・キッシンジャーとその世界』によれば、「共産主義は一枚岩という考えを捨てた以上、レアルポリティーク派の2人にとって、反目し合う共産主義国の仲を引き裂くこと以上に賢明な政策はなかった」のである。

「アメリカの勝利」にも懐疑的

「結局のところ、デタントを促したのはベトナム戦争だった」と指摘するのは、米ジョージタウン大学のチャールズ・カプチャン教授だ。

「東西冷戦に関しては、キッシンジャーもニクソンも戦線の縮小と緊張の緩和が必要と考えていた。そして見事に、中国を敵の陣営から除外した」

カプチャンはこうも言う。「キッシンジャーには他の要人に欠けている戦略的思考があった。私見だが、アメリカには政策が多すぎて戦略が足りないという問題があった。キッシンジャーはそれを逆転させた」

キッシンジャーには人間的な魅力とユーモアのセンスもあり、歴史に精通していた。そして交渉相手が独裁者でも、その悪行にはあえて目をつぶる才があった。

アイザックソンによれば、キッシンジャーが最も評価していた外国の首脳は中国首相の周恩来と、イスラエルとの会談に意欲的だったエジプト大統領のアンワル・サダトだ。

74年の最初のシャトル外交でエジプトに出向いたとき、サダトは大統領別邸の庭園にキッシンジャーを招き入れ、「マンゴーの木の下でキスをした」とアイザックソンは書く。

驚くキッシンジャーに、サダトは「あなたは単なる友人ではない、兄弟だ」と告げた。キッシンジャーは後に、記者団に冗談めかして言ったものだ。

「イスラエル人を厚遇しないのは、私にキスをしないからだ」

2023年7月にも訪中し、習近平国家主席と会談した CHINA DAILYーREUTERS

アメリカきってのリアリストには先見性もあった。世界中をアメリカの描く秩序に再編できるという、第28代大統領ウッドロー・ウィルソン以来の理想主義には最初から懐疑的だった。

米外交の根底にウィルソン主義があることは認めつつも、そこに落とし穴がある現実を誰よりも鋭く見抜いていた。

冷戦が終われば世界に民主主義が広まるという見立てにも懐疑的だった。冷戦の終結がアメリカ型民主主義と資本主義の勝利につながることはなく、所詮は「まぶしい夕日のごとし」と予見してもいた。

近年の中国を見ればいい。歴代のアメリカ政府は中国をグローバル市場と民主主義の秩序に取り込もうとしてきたが、キッシンジャーに言わせれば、それは「敵を寝返らせれば平和が来るという時代遅れのアメリカの夢」だった。

実際、今の中国はソ連崩壊後のロシアと並んで、強権政治と人権抑圧の新時代の推進力となっている。中国のような大国への唯一合理的なアプローチは、刻々と変化するパワーバランスを注意深く調整することで問題を管理するレアルポリティークであると、キッシンジャーは一貫して論じてきた。

「彼の見るところ、政治家の仕事は些細なもの、本質的にネガティブなもの」だったと、グーエンは書いている。「世界を普遍的な正義へと導くのではなく、権力と権力を戦わせ、人間の攻撃性を抑制し、できる限り災難を避けるよう努めることだ」

ここで大事なのは、恒久的な解決ではなく達成可能な目標を設定することだ。前出のインダイクによれば、「キッシンジャーにとっての平和外交は、大国間の対立の解決ではなく緩和のプロセスだった」。

キッシンジャー自身は1994年の著書『外交』で、この現実主義の哲学を次のように定義している。

「国際システムは不安定だ。どの『世界秩序』も永続を目指しているが、その構成要素は常に流動的だ。実際、世紀が進むごとに国際システムの有効期限は短くなっている」

キッシンジャーによれば、「世界秩序の構成要素は過去に前例がないほど急速に、深く、グローバルに変化している」。だから、とキッシンジャーは言う。

「(21世紀の)アメリカの指導者は国益の概念を国民に明確に示し、その国益は欧州やアジアにおける力の均衡の維持によって実現されると説かねばならない。世界中で均衡を保つにはパートナーが必要だが、そのパートナーを道徳の観点だけで選んではいけない」

晩年のキッシンジャーは、アメリカ政府が道徳的ないしイデオロギー的な理由で中国とロシアの双方を敵に回せば、中ロの古い絆が復活しかねないと危惧していた。18年にはドナルド・トランプ大統領に、ロシアに接近して中国に対抗するよう助言したとも伝えられる。

その一方、中国に新たな冷戦を仕掛けるのは20世紀の冷戦以上に危険だとも警告していた。

21年5月にはアリゾナ州での政策フォーラムに出席し、かつてのソ連には「今の中国ほどの技術力がなかった。今の中国は軍事大国であり、経済大国でもある」と指摘している。

洗練されたレアルポリティーク

アメリカがアフガニスタンから屈辱的な撤退をした後、キッシンジャーは英誌エコノミストに寄稿し、より良い世界の建設というアメリカの過剰な理想主義に再び警告を発している。そしてベトナム戦争の教訓に触れ、こう総括してみせた。

「(あの戦いで)アメリカが自滅したのは、実現可能な目標を定め、それらを持続可能な形で政治プロセスに組み込むことに失敗したせいだ。軍事目標はあまりに絶対的で達成不可能だったし、政治目標はあまりに抽象的だった。両者を結び付けることができなかったからアメリカは終わりなき紛争に巻き込まれ、国内論争の泥沼にはまり、確固たる目標を見失ってしまった」

重々しい物腰とドイツなまりでよそよそしい印象を与えることの多いキッシンジャーだが、実際には相手を綿密に観察する人物であり、そのキャリアを通じて、交渉相手の指導者たちの性格をよく把握していた。その長い経験をまとめた著作の執筆には、死の間際まで励んでいた。

キッシンジャーはアメリカの外交官として道徳に基盤を置くパワー・ポリティクスを(善くも悪くも)推進したが、根っこのところではビスマルクに学んだヨーロッパ人だった。

ハーバード大学でキッシンジャーに学び、後には民主党の外交ブレーンとなったジョセフ・ナイに言わせれば、「意外に聞こえるかもしれないが、彼は外交の道徳性をとても意識していた。秩序を支えるのは力の均衡だが、そこには正統性も必要だと理解していた」。

つまり、言うなれば「洗練されたレアルポリティーク」の実践者。なんとも複雑な人物である。

From Foreign Policy Magazine

ドイツ生まれの「偉大な米政治家」ヘンリー・キッシンジャー

Henry Kissinger - Secrets of a superpower | DW Documentary

  


マイケル・ハーシュ(フォーリン・ポリシー誌コラムニスト)

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