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19世紀フランスを舞台にした映画『ポトフ 美食家と料理人』:美食の世界への新たな視角

ニューズウィーク日本版 2023年12月15日 17時6分

<カンヌ国際映画祭で最優秀監督賞を受賞した『ポトフ 美食家と料理人』は、トラン・アン・ユン監督が美食の世界を新たな視角から描き出し、料理の意味を深く探求する......>

『青いパパイヤの香り』や『夏至』、『エタニティ 永遠の花たちへ』などで知られるトラン・アン・ユン監督。カンヌ国際映画祭で最優秀監督賞を受賞した新作『ポトフ 美食家と料理人』では、『美味礼賛』を書いた美食家ブリア=サヴァランをモデルにした小説にインスパイアされた彼が、美食、というよりも料理の意味を独自の視点で掘り下げていく。

美食の極致を追求するシャトーの物語:美食家と料理人の共同作業

舞台は、19世紀末、フランス北西部の森のなかに建つ瀟洒なシャトー。そこに暮らしているのは、食を探求し芸術にまで高めた美食家ドダンと、彼が閃いたメニューを完璧に具現化する料理人ウージェニーのふたりだ。彼らが生み出した極上の料理は人々を魅了し、その名声はヨーロッパ各国にまで広がっていた。

ある時、ユーラシア皇太子から晩餐会に招待されたドダンは、豪華なだけで論理もテーマもない大量の料理にうんざりする。そんな彼は、大胆にもフランスの家庭料理ポトフで皇太子をもてなすことに決め、ウージェニーに協力を求める。ところが、それを快諾した彼女が突然、倒れてしまう。ドダンは、初めてすべて自分の手で作る渾身の料理で、彼女を元気づけようとするのだが...。

現代料理のパラドックスを映す、歴史と現代の料理文化の探求

本作では、当時の日常生活や料理の過程などが、歴史に忠実に細部まで実に生き生きとリアルに再現され、目を奪われる。だが、トラン・アン・ユンが関心を持っているのは、おそらく美食の歴史だけではない。彼の独自の視点は、省略表現と深く結びついているが、その意味を明らかにするためには、当時の背景を知るよりも、現代の料理をめぐる状況を確認しておく必要があるだろう。

そこで注目したいのが、マイケル・ポーランの『人間は料理をする』とメアリー・ベス・オルブライトの『こころを健康にする食事の科学』だ。この2冊には、現代の料理に関するパラドックスが指摘されている。

前者では、著者ポーランがテレビを見ながら気づいたパラドックスが、以下のように綴られている。

『人間は料理をする(上)』マイケル・ポーラン 野中香方子訳(NTT出版、2014年)
「それは、わたしたちは、キッチンを捨て、食事の大半を食品産業に委ねるようになってから、むしろ食べ物について考えたり、テレビの料理番組を見たりする時間が長くなったのではないか、というものだ。日々の生活の中で、料理にあてる時間が短くなればなるほど、わたしたちは食べ物と他人が作った料理に引き寄せられていくように思えた」

後者では同様のことが、以下のように綴られている。

『こころを健康にする食事の科学』メアリー・ベス・オルブライト 大山晶訳(原書房、2023年)
「25年ほど前から、私たちは食べもの関係のテレビ番組や料理コンテストに夢中になっているが、それは私たちが料理をしなくなった部分的な原因、あるいは部分的な結果のどちらかだ。この25年間にテレビでシェフを見る人は大いに増えたが、実際に料理をする人の数は減少した(ポルノを見る人の数と実際にセックスをする人の数についても同じことが言える)。私たちは厄介な現実を受け入れるよりも、リアルな生活を巧妙に模倣した作りごとを観たいのだ」

ただし、そんなパラドックスの先に見えてくるものは次元が違う。前者でポーランは、人が料理から遠ざかるにつれて、食べものに対する見方が変わっていき、ついにはイメージだけで栄養を摂るようになると考える。

これに対して、食事を科学的に検証する後者では、脳が快楽をどのように経験するのかが明らかにされていく。オルブライトが注目する神経科学者モルテン・クリンゲルバッハによれば、すばらしい食事から得る快感は、すばらしいセックスと同じ脳のパターンを経ている。だが、超加工食品が徐々に快楽システムを変化させ、その結果、食品が快感をもたらす効果を低下させる可能性がある。

「料理を作り食べることで周囲の人々と深くて有意義なかかわりを作るのに近道はないように、どんなものを食べればよいか選ぶのには時間がかかります。それをしないでいると、一種の無快感症(喜びを感じられない症状)が表面化し、人々が食に対して抱いている一種の不安のようなものが見えてくるのです」

料理と愛情の間の微妙なバランス

トラン・アン・ユンが切り拓く料理の世界は、そんな現代の料理の状況を頭に入れておくとより興味深くなる。では彼は、このドラマでなにをどのように省略しているのか。

皇太子が催した晩餐会の料理にうんざりしたドダンは、皇太子をポトフでもてなすことに決める。そんな美食をめぐる対決は盛り上がることだろうが、トラン・アン・ユンはそのことに関心がない。晩餐会は、その前に用意されたメニューの紹介(シェフが長々と読み上げる)が描かれただけで、ドダンと共に招かれた4人の美食仲間がその感想をウージェニーに語る場面に切り替わる。晩餐会は8時間もつづいたという。

トラン・アン・ユンがその代わりに時間を割くのは、ドダンとウージェニーの料理以外の関係だ。ドダンは彼女にずっと求婚しつづけている。このドラマでは、結婚は寝室の共有という表現に置き換えることができる。これまでドダンが夜に彼女の寝室を訪れても、受け入れられるとは限らなかったが、結婚すればそれが変わることが示唆されているからだ。

ドダンが料理人としてのウージェニーだけでなく、寝室の共有を求めるということは、そこに料理にはない価値があることを意味する。だが、トラン・アン・ユンは、ふたりの性的な関係の描写を最小限にとどめる。彼が料理の描写に割く時間を考えれば、それは省略に等しい。

料理の快楽と人間関係の探求:映画の深層を解読する

トラン・アン・ユンは、そんな省略を効果的に使うことで、ドダンのなかで料理と寝室の共有の快楽に対する認識がどのように変化していくのかを掘り下げていく。そして、その変化が見えてきたとき、本作の導入部が深い意味を持つことになる。

導入部では40分ほどの時間をかけて、ドダンとウージェニーが、美食仲間をもてなす午餐会の様子が克明に描かれる。先述した『こころを健康にする食事の科学』でオルブライトは、料理の快楽を「食べものを育てる」、「作る快楽、食べる快楽」、「においと味」、「視覚、聴覚、触覚」、「誰かと一緒に食べる」という小見出しで分けて詳述しているが、冒頭の午餐会はまさにその視覚化といえる。

その午餐会で、肉や魚の見事な大皿を次々に作り上げるウージェニーと、ホストとして料理を手際よく切り分けるドダンは、単に美食仲間をもてなすだけでなく、別の次元で快楽を分かち合っている。ドダンは最後にその喜びを再認識することになる。

トラン・アン・ユンは、美食の歴史ではなく、失われつつある料理の快楽を、五感に訴えるように実に鮮やかに描き出している。

『ポトフ 美食家と料理人』
12/15(金)Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下、シネスイッチ銀座、新宿武蔵野館ほか全国順次公開
(C)Carole-Bethuel ©2023 CURIOSA FILMS- GAUMONT - FRANCE 2 CINEMA

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