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日本がずっと放置してきた「宿題」...「文化」が変われば「防犯対策」も変わる

ニューズウィーク日本版 2024年1月12日 11時10分

<効果のない防犯対策を変えられない原因は「失われた30年」の根っこと同じ。「画一性」重視の雰囲気を打破して「多様性」を推進するために必要なのは...>

「多様性(ダイバーシティ)」の重要性が叫ばれて久しいが、日本では、いったいいつ頃からそうなったのだろうか。それはおそらく、高度経済成長に陰りが見え始めた頃ではないだろうか。

太平洋戦争を敗戦で終えた日本は、復興を目指し、先進国へのキャッチアップに取り組んだ。幸い、それには日本人に特徴的な「画一性」が大いに機能した。正確な時間、几帳面な生産管理、律儀な営業活動など、「画一性」が得意な分野が社会を主導し、日本はあっという間に欧米諸国に追いついていく。

その過程には、欧米という見本があったので、それを模倣すればよかった。皆が一斉に同じものを作るのにも「画一性」は有効だ。その結果、「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」などと、世界中からもてはやされたようになった。

しかし、キャッチアップが完了すると、見本がなくなる。自らの力で、新規分野を開拓していかなければならない。真似するものがないからだ。それには「画一性」が、かえって邪魔になる。そうした問題意識から、日本は「多様性」の推進に舵を切った。その切り札として注目されたのがディベートだ。アメリカのようにディベートを普及させれば、そこから新しいアイデアが生まれるというわけだ。

当時、NHK教育テレビの上級英語講座を務めていた松本道弘(後のホノルル大学教授)が、この動きを主導した。筆者も松本先生が散発的に教壇に立つソニーの英会話教室に入った。ディベート教育の伝道師だった松本先生は輝いていた。同様に、日本の未来も明るいと誰もが信じていた。

しかし、その先の現実は悲惨だった。「失われた30年」が待っていたのだ。

「自爆テロ型犯罪」「ピンポイント強盗」が多発

今や、G7(日本、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、カナダ)の先進国グループから、日本は脱落しそうである。実際、昨年の日本の1人当たり名目国内総生産(GDP)は、G7の中で最下位だった。

「失われた30年」の間、日本の賃金だけが停滞した。労働生産性が高まらないからだ。もはや、かつてのように「画一性」で労働生産性を上げることはできない。

その結果、社会に不公平感が充満し、逮捕されてもいいと思って犯行に及ぶ「自爆テロ型犯罪」や、多額の金品がある家に狙いを定めて襲う「ピンポイント強盗」が多発するようになった。

「失われた30年」については、処方箋が様々な専門家から提案されている。しかし、小手先の対策では、どうにもならないところまで日本は来ている気がする。高度経済成長を支えた「画一性」のように、文化が主導するしかないのではないか。

その文化が「多様性」である。要するに、「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」の時代に出され、ずっと放置されてきた宿題に、再び取り組むことが求められているのだ。強大な文化の力に頼るということである。

もっとも、文化は諸刃の剣だ。

滋賀県立大学の脇田晴子教授が、講演で「歴史をやるようになってつくづく思いますのは、文化や思想が人心を左右でき、操作できるということであります。だから恐ろしいものだと思うわけです」と述べている。

確かに、「画一性」の文化に関して、和の精神、村八分、あうんの呼吸、KY(空気読めない)など、同調圧力を表す言葉は枚挙にいとまがない。

切腹を美化する武士道も未だに健在であるが、織田信長と面会したルイス・フロイスは、信長が「外見的な形式は民衆を操るためのもの」と言ったと伝えている。精神論や根性論が支配的な社会だからこそ、「形」の重要性が相対的に高まるのかもしれない。

筆者が小学生のとき、松方弘樹が歌う「同期の桜」が大ヒットした。その歌詞は特攻隊を賛美するものだ。終戦から20年以上経っているのに、皆が特攻隊を歌うというのも不思議だが、筆者が今でも、そらで歌えるのはもっと不思議だ。前出の脇田教授は、「自分の心に刷り込まれていって、自分でもそれがわからないというのは、やはりそれは文化のもう―つの効果だと思うわけです」と指摘しているが、筆者も「文化」に飲み込まれていたのかもしれない。

「気付いても言えない」が定着

「文化」は防犯対策も支配している。見ただけでは分からないにもかかわらず、「不審者に気をつけろ」と言ったり、子どもの連れ去り事件の8割が、だまされて自分からついていったにもかかわらず、「大声で助けを呼べ」「走って逃げろ」と言ったりしている。「それ、変だよ」と思いもしなければ、たとえ気が付いても周囲に言える雰囲気ではない。

「失われた30年」と根っこは同じだ。「もう、紙はやめましょう」「デジタルに切り替えましょう」と思いもしなければ、たとえ気が付いても周囲に言える雰囲気はない。

さて、話を「多様性」に戻そう。今後も、「多様性」推進の切り札になるのはディベートだ。「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」の時代と同じである。しかし、今回は、その方法を工夫しなければならない。なぜなら、その普及に一度失敗しているからだ。

では、なぜ失敗したのか。それはディベートが活発なアメリカとは「文化」が違うからだ。拠って立つ土台が違うと言ってもいい。アメリカが平地なら日本は坂道。アメリカと同じ建物でも、坂道では同じような手法では建たない。

「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」の時代、ディベートを導入した学校や企業も多かったが、そこでは、議論ではなく、人格攻撃が生まれた。そのため、ディベートの普及を断念せざるを得なかった。同調圧力の強い日本では、ディベートを導入すると、自分の「ものさし」を押し付けようとするため、人格攻撃が始まってしまう。科学よりも精神論、論理よりも感情がディベートを支配するのだ。

日本の「文化」に洗脳された筆者も、ずっとこのことに気づかなかった。気づかせてくれたのは、Polimill株式会社が提供するSNS「Surfvote」。それは、さまざまな課題(イシュー)に対し、自分の考えに基づいて投票し、自分の意見を述べ、他人の意見を傾聴する仕掛けだ。その目的は、「分断や対立や極化を助長するSNSではなく、異なる意見のなかから共通する価値観を見つけて合意が形成される」ことだという。

筆者も、この課題(イシュー)を提出するメンバーになっているが、これがなかなか難しい。何が難しいかというと、課題を考えることではなく、賛成理由と反対理由を考え出すこと。Polimillから、「中立的に書くように」「誘導しないように」と指示されているからだ。

もちろん、これは当然のことで、社会学で調査法を学ぶときの基礎でもある。それは、キャリーオーバー効果(バイアス効果)と呼ばれている。例えば、「日本の1人当たりGDPがG7で最下位になったと報じられましたが、今の経済政策は妥当だと思いますか」と聞くのと、「今の経済政策は妥当だと思いますか」と聞くのとでは、回答が大きく異なってくる。

こうしたキャリーオーバー効果を排除するため、課題(イシュー)について、賛成理由と反対理由を三つずつ考え出すのだが、これが大変なのだ。筆者自身の意見を述べる方が、よほど簡単である。例えば、「住民による防犯パトロールを普及すべきか」という課題に対し、賛成の理由を三つ、反対の理由を三つ、あなたはすぐに思いつきますか。

ほとんどの人は、そういう経験をしていないはずだ。経験しているのは、エビデンス(証拠)を集め、出典を示し、自分の考えを補強すること。裁判において、検察官と弁護人が論証するのと同じ思考法だ。

「アウトプット中毒」の原因とは

本来、ディベートでは、参加者が、賛成側と反対側のどちらに入るかをランダムで決める。要するに、自分の意見など、どうでもいいのだ。自分の「ものさし」を捨てることこそ、ディベートの目的なのである。今の日本で、もてはやされている「論破」とは真逆の発想だ。「論破」は、自分の「ものさし」を相手に持たせようとするもの。しかし、それは「画一性」と同義である。「多様性」は、一人一人の「ものさし」は違うことを認めることだ。

ニュースの見出しを見ただけで、内容をじっくり読まずにコメントしたくなる「アウトプット中毒」が広まっているが、これも「画一性」の文化に侵されているから起こることだ。自分の「ものさし」を、押し付けようとしているのである。

「失われた30年」から脱却するには、文化を「画一性」から「多様性」に転換しなければならない。長期的に見れば、「画一性」が「多様性」に勝ったことはない。しかし、「多様性」といっても、それは、上辺だけの「多様性」であってはならない。それはすでに学校や企業で、いやというほどやっている。例えば、SDGsも「流行語大賞」にノミネートされるほど言葉自体は認知されたが、身体障害者用トイレの男女別すら、未だに実現していない。これは「画一性」の最たる例である。

求められるのは、パフォーマンスとしての「多様性」ではなく、「違い」を保証する「多様性」だ。多くの人は勘違いしているが、「違い」を認めることが平等で、「違い」を認めないことが差別である。言い換えれば、他人の「ものさし」を認めることが平等で、自分の「ものさし」しか認めないことが差別だ。

そうした真の「多様性」を実現するのがディベートである。ただし、過去と同じ失敗を繰り返さないため、導入にあたっては注意が必要だ。まずは、学校や職場で、課題への賛成理由や反対理由を、できるだけ多く列挙することから始めてみてはどうだろう。ありったけの「ものさし」を机に並べてみるのだ。それこそが「多様性」の景色なのだから。



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