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松本人志を自分の「家族」と見なす人々への違和感

ニューズウィーク日本版 2024年1月13日 15時11分

<週刊文春が報じた「松本人志の性加害疑惑」が世の中を賑わせている。ネット上ではさまざまな誤解や偏見もあるが、最大の問題は多くの人が松本人志を自分の「家族」と同列に見なしていることではないか>

松本人志の一件にどうしてこれほど注目が集まるかと言うと、令和6年現在の日本人の価値観や日本社会の目指している方向が、ありありと映し出されるからだろう。

この問題は一人のお笑い芸人の醜聞という範疇をすでに超えており、日本社会の未来像にまで関わる話になっている。この件について何かを語る時、その人のお笑いに対する態度や芸能人への意識、性加害に関する見識、男女の性差についての考え方など、内面のさまざまな価値観や人間性が露呈してしまう。つまり、少々危険な話題である。

X(旧ツイッター)上は例によって過激な言葉があふれており、それだけでお腹いっぱいという人も多いだろう。本コラムは良くも悪くも、それほど極端なことを書くつもりはないので、Xで疲れた心を休ませるつもりでお読み頂けたら幸いだ。

「ホテルに行く女が悪い」説

松本人志は、日本のお笑い界のスターである。その彼に、重大な性加害疑惑が持ち上がっている。この件を私はどう捉えたら良いのだろうかと、年末から頭のなかがモヤモヤし続けている。

すでにネット上で出回っている言説とカブってしまうかもしれないが、私の考えをまとめてみたい。まずは、Xに転がるフェイクや極論について、きちんと否定しておく必要がある。

まず第一に「芸能人からホテルの部屋に誘われてのこのこついて行く女が悪い」との説。ひろゆきやたぬかなが盛んに広めているのを瞥見したが、彼らは文春記事を読んでいないのではないか。あるいは読んだけれども誤読し、勝手に怒っているのである。

記事を読めば分かる話だが、小沢一敬はまず「VIPの参加する飲み会」に誘い「ドタキャン厳禁」と釘を刺した上で、飲み会当日に「撮影防止のため、会場はホテルのスイートルームになった」旨を伝えている。

この流れで危機感を感じて誘いを断るのは、どう考えても「警戒しすぎ」であろう。芸能人が個室を選ぶのは至極当然であり、それがホテルの広々としたスイートルームであれば、それほど不自然なことではなかろう。つまり、小沢はそれほど巧妙に女性たちを誘い出していたと考えられる。

「警察に訴えるべき」説

次に「週刊誌記者に暴露するのではなく、警察に行ってシロクロつけるべき」との説。立川志らくなどが喧伝しているが、今回のようなケースでは女性が警察に行っても証拠不十分で相手にしてもらえないケースも少なくない。たとえ事実であっても、それを事件化できるレベルまで第三者に証明するのは、決して容易ではない。

そもそも、文春が報じた証言者は強制わいせつ罪の時効(7年)が過ぎており、もはや警察に相談しても意味がない段階である。また、芸能界を目指している女性が、業界の大物である松本人志を相手に被害届を提出するなんて、怖くてできるはずがない。

日本では20歳以上の女性の約7%が性被害の経験を持つ。だが、被害者のうち警察に相談する人はたった5.6%に過ぎない。誰にも相談しない人がもっとも多く、約6割を占める。(2020年度「男女間における暴力に関する調査」男女共同参画局)

警察に相談することは、被害者にとってとても困難なことなのだろう。勇気を出して警察に行き、被害状況を何度も思い出して言語化し、事務的な手続きを繰り返した挙句に「何もできません」と言われたら、疲弊するだけである。この辺り、改善の余地があるかもしれない。

あまりにも「不都合な真実」であるため大きな声では語られないが、日本社会は性犯罪者にとって極めて有利な国と言える。痴漢や強制わいせつ、強制性交などの犯罪を実行しても、めったに罪に問われることはなく、逃げ切ることが可能というのが現状だ。教育社会学者の舞田敏彦は、2007年から2011年の統計資料を基に、レイプ事件のうち裁判所で罪が裁かれるのはたったの1.92%と推定している。

今回のように警察に行ったり裁判を起こしたりすることが困難な場合、メディアを通して不正を訴えることは、何も間違ったことではない。

「お礼メッセージは同意を意味する」説

続いて「直後にお礼のメッセージを送っているから、女性は嫌がっていなかったはずだ」との説。これはもう多くの有識者が説明しているので付言は不要だが、恐怖を感じている時こそ、ああいう文章を送ってしまうものではないか。

「松本さんも本当に本当に素敵」「小沢さんから頂けたご縁に感謝」といった過剰に相手を持ち上げる言葉遣いやキュートな絵文字満載の画像から、私には北朝鮮の喜び組のような関係性が連想され、痛々しさすら感じられた。

......と、明らかな誤謬を指摘しているだけで、かなりの文章量になってしまった。それほど、日本社会にはまだまだ性加害に関する誤解と偏見が溢れているということだろう。被害を口にすれば一斉にバッシング(セカンドレイプ)を受けるこんな世の中では、多くの被害者が沈黙してしまうのも無理はない。

「me too」が続けば信憑性は高まる

多くの人々は今、躍起になって松本人志を擁護する材料を求めている。そうしないと、精神的に落ち着かないのだろう。動揺のあまり「松ちゃんを奪った被害者が憎い」という思考回路に陥っている人もいるのではないか。

もちろん、加害行為があったと断定できる状態ではない。だが、松本人志には今、重大な疑惑がかけられていて複数の証言と物証がある。「事実無根なので闘いまーす」だけでは、何も説明したことになっていない。

かっこよければそれで良い、面白ければそれで良いという具合に、芸能人というのは昭和から平成の長い間、一般の社会常識や倫理観からは少し遠い、別世界の人間として生きていた。私はいっそのことそれもアリじゃないかとチラリと思うが、世の趨勢はそうではない。記事内容が事実であれば、松本人志の今後の芸能活動は極めて困難になるだろう。

今後の展開としては「me too」と声をあげる人、つまり被害を訴える人の数がさらに増えれば信憑性は高まっていくだろう。ジャニーズ問題同様、顔や実名を出して語れる人がいれば風向きは大きく変わると思うが、すでに激しいバッシングが行われているなか、巨大なリスクを背負って松本人志に立ち向かえる人がいるかどうかは分からない。

「障害者は穀潰し」「子供を産めない女性は価値がない」「同性愛は病気の一種」。今ではほぼ聞くことのないこうした差別的な言葉は、戦前〜昭和の頃まで珍しくなかったに違いない。そう考えると、日本社会は少しずつ前に進んでいるのだろう。「被害者が悪い」という暴力的な言葉も、数年後には時代遅れになっていると良いのだが。

親近感が生み出す誤謬

「週刊誌報道が事実かどうか分からない以上、何も論評できない」という誤謬もある。先日のワイドナショーでは、松本人志の子分たちが口々にそう述べていた。でも、本当にそうだろうか。

例えばかつて存在した雑誌「噂の真相」の一行情報のようなものであれば、「論評できない」というスタンスもありだろう。だが、今回の文春記事は物証付きで5人もの証言者が具体的に体験を語っている。証言がすべて事実かどうかは分からないものの、「どっちもどっちだね」みたいな粗雑な判断を下せるものではない。

被害を訴えている人の声を無視することは、公正中立な態度なんかではなく、加害者の側に着く行為である。被害を訴えている人がいる以上、松本人志は説明をしなくてはいけないのに、休業を発表してしまった。

にも関わらず松本人志をアクロバティックな論法で擁護する声が止まないのは、多くの人々(国民の大半かもしれない)が、松本人志のことを家族同然のように思っているからだろう。

「松本人志に笑わされたことがない人」は探すのが難しいぐらいだ。友達や家族、あるいは親戚ぐらいに思ってしまうのは、まったく無理もない。かたや、被害を訴えているA子さんやB子さんは、赤の他人に過ぎない。

「松ちゃんを信じる」という残酷さ

「本人がやったと言うまで、信じます」というのは、犯罪加害者の家族がしばしば言うセリフである。私も、もしも自分の家族が加害者として容疑をかけられた場合は可能な限り信じたいと思っている。

と考えていくと、松本人志をやたらに擁護している人々は、「迫害と結束のストーリー」に囚われているのかもしれない。ファンというのは、スターがピンチの時ほど結束する。つい最近、ジャニーズ問題でさんざん見せつけられた光景だ。善悪の判断や合理性は二の次で、「大好きなスターがピンチだから、ファンとして助ける」という思考回路をたどるのだろう。

それは本当の家族や友人であれば美しく見えるかもしれないが、大量のファンが一人の芸能人に対して発動すると暴力的ですらあるし、新興宗教のようでもある。「松本人志を信じます」という声は、「被害者の話は信じません」と言っているに等しい。

加害者が「松本人志」や「小沢一敬」だと思うから、思考が歪むのである。「港区在住のIT社長ヤマモトさん」あたりに置き換えて記事を読み直せば、もう少し公平に物事を見ることができるのではなかろうか。つまり、松本人志は現状「かなり疑わしい」のである。

是非、試して頂きたい。

松本人志のXの最後の投稿

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