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発災10日後も寝具が届かず...能登入りした医師が断言、災害支援成功に不可欠な「ある人材」とは?

ニューズウィーク日本版 2024年1月26日 18時0分

<世界の災害現場で支援活動をしてきた医師が見た、能登の被災地の現実と今後の防災対策への提言【本誌1月30日号 特集「ルポ能登半島地震」より】>

NGOや国連などを通じて世界中の災害や紛争で医療支援活動を続けてきた公益社団法人「グローバルヘルス技術振興基金」の國井修CEOが能登半島地震の発災後、珠洲市で被災者支援のアドバイザーとして活動した。数々の災害現場を知る國井医師が見た「陸の孤島」の現状と課題は。

◇ ◇ ◇

1月7日、能登半島地震の被災地である石川県珠洲市に入った。地震による道路の陥没や土砂崩れ、交通渋滞などで金沢市から車で10時間もかかる。そこで七尾港から船で移動した。到着した珠洲市の飯田港は震度6強の揺れで防波堤や岸壁が破損し、4メートルともいわれる津波で船が横転して打ち上げられていた。道路には亀裂や大きな段差があり、パンクや転落の恐れがある。ゆっくり車を運転しながら避難所に向かった。

道路脇には倒壊した家が横たわる。能登には厳しい自然、塩分を含む風雨にさらされても半世紀はもつという耐久性の高い「能登瓦」がある。家屋1棟の瓦屋根は通常5トン(乗用車2~3台分)ほどの重さになるというが、能登瓦はサイズが大きく、さらに重い。地震でその重さに耐えられず、多くの古い家がぺちゃんこにつぶれていた。

1995年の阪神淡路大震災で被災地を訪れた時のことがよみがえる。避難所には被災者と共に多くの遺体が横たわる。医師が死体検案書を書かなければ火葬することもできない。被災者を診る前にたくさんの亡くなった方々を検死した。多くの方が1階で寝ていたのだろう。ほこりと泥まみれで、時に顔も挟まれて損傷が大きかったため、一見男性か女性か、老人か子供かも区別がつかなかった。

阪神淡路大震災や2011年の東日本大震災に比べると被害は小さいが、能登半島での捜索・救助活動は難航した。山間や海岸沿いに小さな集落がいくつもあり、道路の陥没や崖崩れなどで道が遮断され、捜索や救助も入れず孤立した。自衛隊がやっとたどり着いた集落には、電気もない寒い小さな集会所で、地震で亡くなった人と生き残った人が寄り添うように寝ていた所もあった。

珠洲市の避難所(1月3日) AP/AFLO

鍵は「ロジスティシャン」

能登半島地震発生から4日後の1月5日。私は気が付けば被災地に向かっていた。これまで国内外でユニセフ(国連児童基金)や国際協力機構(JICA)、大学、NGOを通じて地震、津波、洪水、紛争、テロなどの緊急支援に関わってきた。テレビで現場の映像を見ているだけで居ても立ってもいられない。一度でも大規模災害発生後の現場を体験した人なら、おそらく同様の衝動に駆られたことだろう。今回は国際協力NGOピースウィンズ・ジャパン(PWJ)のアドバイザーとして現地入りした。

まず石川県庁内に設置された災害派遣医療チーム(DMAT)本部を訪れ、近藤久禎本部長などから情報収集をし、DMATの調整会議などに参加。DMAT関連の支援物資の物流の問題点と、被災地から要配慮者などを搬送する2次避難についてアドバイスを求められた。早速、DMATのロジスティクス班と県の担当者と一緒に金沢市の石川県産業展示館にある支援物資集配所と、いしかわ総合スポーツセンターの1.5次避難所を見て回った。

「物資の調達から必要な消費者の手に届くまで」の一連の流れを一括で管理するシステムをロジスティクス(ロジ)と言う。被災者の最低限のニーズを一刻も早く満たし、彼らの命や健康を守り、災害関連死などを最小限に抑えるためにも、ロジは緊急支援の要と言っても過言ではない。

産業展示館には国内のさまざまな場所から支援物資が到着し、それを自衛隊が中心になって被災地へ搬送している。担当者に聞くと、企業を含めて多くの義援物資の寄付依頼があり、また被災地からは多くの要望も来ているが、そのマッチングが難しい。初めは被災地からの情報も届かなかったため、「プッシュ型」で水や食料などの必需品が送られた。だが現地ではそれらが滞り、送るのを待ってほしいとの声もある。保健医療関連物資については、現地のニーズも配送状況もどうなっているかよく分からない、という答えだった。

このような事態は緊急支援の際にはよく起こる。現地では水・食料・毛布・仮設トイレなど足りないもの、必要なものはいくらでもある。また、それらを提供したいという政府・自治体・企業などもたくさんある。しかし、これらの情報が十分に把握できず、または情報が錯綜して、迅速にマッチングできない、またはいろいろな場所で滞る。

以前ユニセフで働いていた時、私はいかに経験値が高く優秀なロジの専門家「ロジスティシャン」を雇うかが災害支援成功の鍵だと確信していた。死者約14万人を生んだミャンマーのサイクロン災害や200万人以上が危機的状況に陥ったソマリアの一連の緊急事態(紛争、干ばつ、感染症のアウトブレイク)では、飛行機、ヘリコプター、船、トラック、時には牛やラクダなど状況に合わせてありとあらゆる輸送手段を使って、山の奥深くから砂漠の果てまで、食料から医薬品までさまざまな必需品を迅速に送り届けることが、一人でも多くの命を助ける方法だった。

これまで日本の緊急支援を見てきたが、往々にして被災地または応援に駆け付けた自治体職員がこのロジを担当し、必ずしも深い経験や専門性を有していない、また十分な訓練を受けていないという印象を受けた。被災地からの要望と企業や他の自治体などからの物資の提供をマニュアル・アナログでマッチングしているが、それには限界がある。機動力のある自衛隊の能力にも限りがある。緊急事態で真に活躍できるプロのロジスティシャンを育成してロジの「抜け漏れ」を防ぎ、現場のニーズと外部からの支援に関する情報を迅速かつ効率的に収集・マッチングするためIT化を含むシステム改善を今後進めていくべきだろう。

1.5次避難所とは、災害関連死を防ぐとともに、当面の落ち着いた生活環境を確保するため、被災地以外の避難所に移ってもらう「2次避難」の受け入れ先が決まるまでの短期間、被災者が滞在する避難所である。

その場所として指定された金沢のいしかわ総合スポーツセンターは400人を優に収容できるほど広く、冷暖房・空調設備も整ったメインアリーナ、多目的・多機能・バリアフリーのトイレやシャワー・更衣室、救護室といった施設が充実していた。ほかにもサブアリーナや多目的ルーム、会議室などもある。感染症の隔離や要介護者などを集約した支援もでき、広い駐車場があるので被災地から要介護者などを搬送するためのヘリも使えそうだ。

ただ避難所開設に当たっては、単に準備した災害対策用テントを並べ、そこにマットや毛布を置いて人々を収容すればいいという話ではない。そこに滞在する人にどのような配慮や介助が必要か。トイレや食事配給場所までの距離などを考え、どこに要配慮者を滞在させればいいか、などを考慮する必要がある。

また、できれば食寝を分離して、食事や談話スペース、子供がいる場合は遊び場も設置を検討したい。感染症予防や寒冷地対策を考えると、床にそのまま寝るよりも段ボール製ベッドなどを利用して床から一定の高さを保ちたい。金沢市内の病院にある簡易ベッドも必要に応じて提供してもらおうという話にもなった。高齢者が落下しないよう、ベッドの大きさに合った敷布団を用意することも必要だ。希望者の受け入れは、私が現場を視察した2日後の予定だった。準備を手早く進めつつ、被災者を受け入れながらニーズを基に改善していこうという結論になった。

技術と経験が奇跡を生んだ

その後、被災地の珠洲市に入った。

震災発生後1日目に救出すれば生存確率は74.9%、2日目は24.2%、3日目は15・1%、5日目ではわずか4.8%に低下するといわれている。今回、地震発生から5日、124時間ぶりに救出された珠洲市の93歳の女性がいる。奇跡に近い話である。

ただし、これは自衛隊や消防隊による救出だけでは、また普通の医師の立ち会いでは助からなかっただろう。救出・救命は単に人を捜し当て、瓦礫の中から救い出せばいい話ではない。特に、長時間足や手など体の一部が挟まれている場合、組織が破壊され、また血流が遮断されている。急いで救出すると圧迫した部分が開放され、挫滅した組織からカリウムなどが大量放出、また循環血液量が急に変化する。その結果、挟まれているときは話すことができたのに、救出後に突然ショック状態に陥り、心停止を起こすことがある。これを圧挫症候群(クラッシュ・シンドローム)と呼ぶ。救出時にはこれを適切に処置できる医師が必要だ。

このケースでは倒壊した家の2階の窓を割って家の中に入り込み、狭く暗く危険な閉鎖空間で負傷者を処置しなければならなかった。これにはCSM(confined space medicine=瓦礫の下の医療)という特殊な技能と特別な装備・器具類が必要だ。医師自らが身を守り、閉鎖空間で動けない負傷者に対して診察をし、必要な点滴や酸素吸入、低体温症への処置などをする。専門の救急医でもそのような状況下での特殊訓練を受けた者は少ない。

今回、幸運なことにそのような技術と経験を持つ稲葉基高医師がこの救助・救命に関わった。彼はピースウィンズ・ジャパンのプロジェクトである「空飛ぶ捜索医療団(ARROWS)」のリーダーで、19年に発足したARROWSを専属で指揮を執り、近年ほぼ全ての国内大災害に出動。国外でもウクライナ危機、トルコ・シリア地震などの自然災害や紛争地域で活動してきた。

平時にも全国の医療従事者向け災害派遣のトレーニングや、水も電気もない被災地で仮設病院を設営する多機関との合同訓練を企画運営していた彼だったからこそ、この困難な状況で冷静沈着に処置をして救命できたのだろう。今回、さまざまな自治体や病院、そしてNGOから医療チームが派遣されたが、このPWJ・ARROWSの支援はその迅速性と機動性で秀でていた。

災害派遣医療チームの活躍

通常、DMATなどの災害時の派遣医療チームは、平時には病院などで働き、災害時にボランティアとして1週間ほど派遣される。しかし、ARROWSは平時から約20名の常勤者と約500名の登録者を抱え、レスキュー隊から災害救助犬、ロジスティシャン、ヘリコプターや固定翼機、船、四輪駆動車両を持ち、捜索・救出・救命から物資支援・医療支援まで、現場で必要なさまざまな支援を独自に展開できる。今回も孤立集落や避難所への物資・医療支援から、救出・救命、そして救急患者のヘリ搬送など大活躍だった。

国際的にはこのようなロジの力・機動力を持つNGOは少なくない。固定翼機やヘリで大量の物資を運び、「野戦病院」を造り、大量のシェルターや水衛生器材で大きな難民キャンプを設営してしまうNGOまである。日本でも大規模災害の際には自衛隊だけでは足りず、国内外の災害支援にたけたPWJ・ARROWSのようなプロフェッショナルの民間組織がもっと必要かもしれない。各自治体の緊急支援に関わる人材やロジの力を高めるためにも、このような経験値と専門性の高い民間団体の協力が重要だ。

発災10日後。珠洲市には小・中学校、高校、保育所、公民館、集会場を含め70以上の避難所が林立していた。私もそのいくつかを回り、アセスメント(評価)や物資支援、感染症対策などに関わった。自衛隊やDMATチームも各避難所を回り、物資や医療支援を行っていたのだが、簡単にはニーズを満たせない。

往々にして、大規模災害ではアクセスのいい避難所には多くの支援が集まり、アクセスの難しい避難所には支援がなかなか届かない。04年のスマトラ島沖地震・津波の際にスリランカを訪れた時、最大都市コロンボの近郊にある避難所には世界中からの医療チームが入って、両手いっぱいに薬をもらっている避難者を見る一方、南東部の辺地では津波に巻き込まれて誤嚥性肺炎になっても治療する医療チームがおらず、死んでいった人たちがいた。

程度の差はあるが、阪神淡路大震災でも全国から集まった医療者やチームは行きやすい避難所に集中し、車や徒歩で行きにくい場所にはなかなか到達しなかった。この教訓を受けて、96年に兵庫県で制度化されたのが災害医療コーディネーターで、その後研修が始まり、全国的に広がっていった。

災害急性期に一人でも多くの命を助けられる機動性を持った組織としてつくられたのが05年に発足した災害派遣医療チーム(DMAT)である。災害拠点病院などで研修を受けた医師、看護師、調整員などがチームを編成し、現在、全国に700隊以上あり、今回の能登半島にもこれまで100隊以上が派遣されている。

避難所などで災害関連死や感染症などを防ぐ保健医療活動も重要である。そこで18年に設置されたのが、災害時健康危機管理支援チーム(DHEAT)。専門研修を受けた医師や薬剤師、保健師など主に保健所職員が、被災地で保健所が行う保健医療行政の指揮調整機能等を応援する。今回の災害でもDHEAT、さらに他の自治体から派遣された保健師などの役割は大きかった。

「1週間に1日は休むべき」

珠洲市災害対策本部で毎晩実施された会合にも参加したが、自衛隊、中央省庁や他の自治体からの応援、DMATやPWJなどがそれぞれの活動を報告し、孤立集落の捜索・救出・救命から、ライフラインの復旧、支援物資の物流、2次避難所への搬送まで、現在直面しているさまざまな問題点や課題を議論し、解決策を模索し翌日の行動に移していった。

昼夜を徹して、みんな必死に努力していた。それでも現場を訪れると、発災10日を過ぎても寝具が届かず新聞紙の上で寝ている、食事はおにぎりと菓子パンのみ、排泄物が垂れ流しの高齢者にまともな介護ができない、といった問題が散見された。

また必要な物資が届かず、逆に急を要しない物があり余るほど届いている避難所もあった。市の支援物資集積所を見ると、使った毛布や医薬品、古着、ぬいぐるみなどの個人からの寄付が、限られたスペースを占領している。これらの仕分けや分配には時間や手間がかかるわりに、現地の膨大なニーズは満たせない。個人が自らの車で支援物資を運んでくることもあるが、被災地までの交通渋滞につながることもある。

必需品を大量に提供できない限り、原則として個人のモノの寄付は避けるべきだ。被災した自治体や真に貢献できる民間団体にカネを寄付してまとまった支援に使ってもらうのがいい。現場で必要としている物を、優先順位を付けながら迅速に現場まで届ける。繰り返すが、その鍵はロジであり、珠洲市においてもそれが大きな課題だった。

私は欧米に住んでいたが、日本の物流業界の技術や専門性の高さには驚かされる。大も小も、生ものも壊れやすいものも、多くは注文した翌日に、好きな時間帯に受け取ることができる。

このような優れた技術や知見を災害支援に応用できないだろうか。マニュアル・アナログではなく、デジタル化して「抜け漏れ」を避け、分析や統合を自動化し、簡単に可視化できるロジのシステム、必要としている物資やサービスを最も困っている人々により早くより効率よく送り届けるシステム。日本でできないはずはない。

今回も、自ら被災しながら支援活動の中心になっている自治体職員や、学校長など避難所の施設責任者の本音を現場で聞いた。自分の家族と会って話す時間もないほど働き、夜に避難所で休もうとしても周りの避難者から頼られて休めない。外部からの支援者は1週間程度で被災地を離れられるが、彼らはずっとそこで支援を続ける。復旧・復興を考えると年の単位だ。彼らの負担をいかに減らすか。これも外部支援者の役割として重要だ。

支援者を受け入れる受援体制が整備されていないことも多い。被災した自治体が外部にどんな支援を依頼したらいいか分からない、遠慮してしまう、支援に来てもらうこと自体を負担に感じてしまうこともある。援助受け入れ体制を支援することもまた重要なのだ。

今回、「少なくとも1週間に1日は何も考えずに休んでください」と話したら、ある自治体幹部が「休めるわけがないだろう」と声を荒らげた。真面目で責任感のある日本人の典型だろう。周りが働いているのに申し訳ない、周りの目が気になると感じる人もいる。これも日本人の特徴だ。しかし、災害支援においてこれは決していい習慣とはいえない。

NGOや国連を通じて大規模災害に関わってきた私は、過酷な環境下で休まず仕事をし続けた結果、燃え尽きてしまった人を何人も知っている。メンタルも体力も強靭で、ダウンするとは誰も思っていなかったような人たちだ。だから国連では、ハードな環境下で活動する場合、定期的また強制的に職員を休ませる。現場を離れ、ストレスを発散させる時間を持たせるのだ。

自分がやらないと仕事が回らないと考えるのは幻想だ。誰が抜けても、それをみんなで埋め合わせられるようにするのがチームでありマネジメントである。緊急時の責任ある仕事でも、それをチームと分かち合い、外部の支援者にも頼り、自分が抜けても活動が続く体制をつくる。これまでいつもそう自分に言い聞かせてきた。

被災者のニーズ、それに対する支援体制は時間とともに変化していく。緊急フェーズを過ぎても、能登半島には復旧・復興フェーズでの新たな課題、新たなニーズが生まれる。

今後、気候変動などの影響もあり、日本を含めた世界で災害が頻発化、甚大化するのは避けられない。自然災害以外にも、世界中に地政学的なリスクがあり、日本の周りでもその緊張感は高まっている。新型コロナウイルス感染症の次のパンデミックも来るか来ないかではなく、いつ来るかの問題といわれている。

今回の地震は、過疎化・高齢化が深刻で、かつ交通網が脆弱な「陸の孤島」のような場所で発生し、しかも最悪の厳冬期に発災したため被害が甚大になった。今後、災害や緊急事態で被災する人々や地域の高齢化・脆弱化は避けられないかもしれない。今の防災体制、緊急支援体制のままで本当によいのだろうか?

危機管理の司令塔が必要だ

新型コロナのような感染症危機に十分な対応ができなかったとの教訓から、内閣感染症危機管理統括庁が内閣官房に創設され、米疾病対策センター(CDC)の日本版ともいうべき国立健康危機管理研究機構が来年以降に発足する。

1つの案は、日本版CDCならぬ日本版FEMA(フィーマ、米連邦緊急事態管理庁)を創設することだ。危機管理には過去の教訓や知見を集積し、司令塔また監理役としてさまざまな関係機関・組織の連携・協力を促し、課題を把握し、それを改善・修正するプロ集団が必要である。

新たな機構をつくるのが困難であれば、現在、防災や災害対応に関連する組織や機関の連携・協力体制が十分なのか、より迅速で効率の高い災害対応をするには何が足りないのかを検討する必要がある。

緊急対応の中心となる被災市町村、都道府県レベルの対応をいかに迅速化し、不足する能力を満たし、効率性を高めるか。先述のとおり、これまでどおりの人海戦術、アナログ・マニュアルだけでは限界がある。ITや新たなイノベーションを活用し、どうすれば情報を早く入手できるか、どうすれば物資を早く運べるか、どうすればミスマッチを解消できるかなどを考える必要がある。

次の災害は自分のところにやって来るかもしれない。「自分ごと」として能登半島地震を見つめ、考え、できれば行動したい。

(國井氏はジュネーブにある国際機関「グローバルファンド(世界エイズ・結核・マラリア対策基金)」の前戦略投資効果局長。元長崎大学熱帯医学研究所教授。これまで国立国際医療センターやユニセフなどを通じて緊急援助、感染症対策、母子保健などに従事し、110カ国以上で開発援助活動を行ってきた)

<本誌2024年1月30日号掲載>



國井 修(医師、公益社団法人「グローバルヘルス技術振興基金」CEO)

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