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少子高齢化の「漆器の里」を襲った非情な災害――過酷すぎる輪島のリアルから見えるもの

ニューズウィーク日本版 2024年1月26日 15時30分

<古い木造家屋ほど倒壊、トイレ問題の実態、子育て世代の本音......どこでも起き得る「輪島の今」は人ごとではない【本誌1月30日号 特集「ルポ能登半島地震」より】>

1月1日午後4時10分頃。石川県輪島市の朝市から程近い所にある輪島塗漆器店・二井朝日堂の二井雅晴(60)は、自宅兼職場の3階で朝から始めた作業をちょうど終えたところだった。有名な朝市も正月三が日は休み。二井もいつもなら元日はテレビを見て過ごすが、納期に間に合わせるため今年は中塗りの作業をしていた。

使っていた道具をしまった時、大きな揺れに襲われた。すぐに石油ストーブを消して手で押さえ、程なくして2階にいる母親の様子を見に行くと、さらに大きな2度目の揺れが来た。冷蔵庫が母親のほうに向かって倒れたが、ダイニングテーブルが食い止める形で母親との間に辛うじて30~40センチの隙間ができた。

「テーブルがなければ直撃でした。あんな揺れを経験したのは初めて。昔、能登半島地震がありましたけど、あの揺れと比較になりません。今回は立ってても座ってても、家がつぶれると思いました」と、二井は語る。輪島市は震度6強。2007年3月の能登半島地震でも同じく震度6強が観測されたが、今回の地震は二井が知る地元の姿を一変させた。

「すぐに大津波警報が出まして。86 歳の母親は足が不自由なもんで、離れた所にある駐車場に車を取りに行ったんですが、五島屋という7階建ての漆器屋さんのビルの前を通ってびっくりしました。大きいビルが根こそぎ倒れてましたから」

北陸から日本海に突き出た能登半島の先端に位置する輪島市は、古くから輪島塗を主要な産業としてきた。日本有数の漆芸品である輪島塗は1977年に国の重要無形文化財に指定され、街全体が輪島塗の「工房」として伝統をつなぐ。

朝市周辺には塗師屋(ぬしや)造りと呼ばれる職住同居の漆器店が点在しているが、筆者が1月14日に訪れると、そのうちの店の1つは1階が2階に押しつぶされていた。店の前には屋根から落ちた瓦とガラスの破片が散乱し、傾いた屋号の看板に「危険」と書かれた赤紙が貼られている。

約300棟が焼損したと推定される朝市では、県警などによって安否不明者の一斉捜索が続けられていた。黄色い規制テープの先に広がる観光名所の光景は空襲後のようでもあり、上空には自衛隊のヘリコプターがバラバラと音を立てて飛ぶ。

雪が解けだした道路にはひび割れや隆起が見られ、地面からはマンホールが管ごと飛び出し、傾いた電柱には切れた電線がだらりと垂れ下がっていた。

丹精込めて作り上げた漆器たちを一瞬にして奪われた二井雅晴 KOSUKE OKAHARA FOR NEWSWEEK JAPAN

二井は地震直後、2人暮らしの母親を車に乗せてなんとか避難できた。奇跡的に車がつぶれなかったからだ。駐車場の隣の空き家は大きく崩れ落ちていた。

「私だけなら走って避難所に逃げることができますが、母親がいますんで、車がないと。その母親も、今は体調を崩して金沢の病院に入院しています」と、二井は言う。「避難所にいるとねぇ、初めのうちはまだあれなんですけど、みんなだんだん健康状態が崩れて、高齢の人ほど救急隊に運ばれていきます」

輪島市の人口は23年12月時点で2万1980人、そのうち老年人口(65歳以上)は22年10月の推計で全体の47.9%を占める。奥能登では珠洲市、能登町、穴水町がいずれも50%を超え、07年から22年の15年間で輪島市、珠洲市、能登町と穴水町の老年人口は37.6%から50.3%と急増した。

高齢者が多数を占める避難所にあって、深刻な問題となっているのが断水による衛生環境の悪化だ。輪島市では今もほぼ全域で断水が続き、二井の避難所には電気も来ていないという。

「避難所の中でも、たぶん70代の方だったと思うんですけど、立って歩いていていきなり、口からもどしてしまったんです。その方は病院に運ばれたんですが、またすぐに戻ってきて、元いた場所の布団に寝てらして、そしたらまた2度目、もどしてしまって......。感染のことを考えて今度は簡易式のテントを持ってきて、そこに隔離されました」

避難所では、新型コロナウイルスやインフルエンザを含む感染症の患者が出ている。ただでさえ高齢者が多い地域で、寒さが続くなか風呂にも入れず、使い慣れない仮設トイレに苦労し、排泄を我慢し水分を控える。

輪島市の避難所に身を寄せる女性(78)は、避難所の災害用簡易トイレの「粉入れて90秒待て」という手順に「90秒、長いんだわ!」と憤慨していた。排泄物を固めるための凝固剤を入れて袋が自動的に閉まるまで90秒かかるが、使い方を間違えた誰かが汚したトイレの中でなど、待っていられないという。

取材に訪れた七尾市と輪島市では、出会う人全てが「トイレ問題」を口にした。例えば電話ボックスのようなよく見る形の仮設トイレは、和式便器の横にあるポンプを足で踏むと水が流れる。こうした「ある程度まし」なトイレが途中から入った避難所もあるが、高齢者が和式にかがむのは難しいし、汚れもする。

16日に石川県は七尾市の水道の復旧見通しを2カ月以上先と発表したが、奥能登の輪島市と珠洲市などについては復旧のめどすら示されなかった。清潔なトイレを使えないのは、衛生上の問題であるだけではなく、被災者から人としての尊厳を奪う。(1月26日時点追記: 1月21日、石川県は水道の復旧見通しについて輪島市や珠洲市などでは早くても2月末から、七尾市の中心部などでは4月以降になると発表した)

輪島市中心部では、裂けた道路からマンホールが管ごと飛び出てしまった KOSUKE OKAHARA FOR NEWSWEEK JAPAN

「母は避難所におったら確実に災害関連死でした」と言う二井は、生まれ育った輪島を離れ、金沢市内の1.5次避難所に移ることにした。蒔絵師だった祖父に始まり、父の代から約70年続く店も、今後の見通しは全く立たない。

「店を立て直すと言っても、20代とか30代であれば違いますけど、私ももう60ですから。この先もう何年できるか分かりませんし」と、二井は言う。

輪島塗は1人の人が全工程を仕上げるのではなく、各工程に専門の職人がいて、全て分業制になっている。各工程の作業をする人が1人でもいなければ完成しない。

「地震前から、高齢化であと20~30年すると職人さんの数が極端に少なくなるのは目に見えていたんですが、今回の地震で避難されて廃業される人がたくさん出てくるでしょう。同業の人とも話してますが、おそらく半分くらいは廃業すると思います」。

明日には金沢に向かうという二井の表情には、疲れと不安がにじんでいた。

家屋倒壊の明暗を分けたもの

輪島市内で避難所生活を送る人は19日現在4797人に上る。住家被害の全容はまだ把握すらできていないが、市の中心部では至る所で木造家屋が崩れ、その隣で比較的新しそうな家が立っている光景が目につく。国の耐震基準は1981年に大幅に変更され、95年の阪神淡路大震災を経て2000年にさらに耐震基準が見直された。

住民たちに話を聞くと、同じ輪島市河井町内でも07年の能登半島地震より前に建てた古い家ほど、大きく崩れているという。逆に言えば、前回の大地震で被害を受け、大きく建て替えたり改築した家は、倒壊を免れている場合がある。

赤紙を貼られたものの大規模な全壊には至らなかった二井の店も、01年に丸ごと建て替えていた。在宅避難をしている住民に聞くと、「07年に全壊し、その2年後に建てた」という声もあった。それでも玄関には「要注意」と書かれた黄色い紙が貼られ、電気がないなか懐中電灯とろうそくで生活を続けていた。

1人で小さなリュックを持ち歩いている女性(74)に声をかけると、自宅は「17年前の地震は大丈夫だったけど、今回はぺしゃんこ」だと言う。彼女は、夫と母親と3人で避難所に身を寄せている。これから倒壊した自宅に銀行の通帳など大事なものを取りに行くところで、震災後、自宅に戻るのはこれが初めてだ。2階建ての自宅に着くと、1階部分が完全に倒壊し、1階の車庫にある車も外から判別がつかないほど押しつぶされていた。

玄関が失われたため自宅の裏手に回り、1階の割れた窓に辛うじて残された高さ80センチほどの隙間から、身を折り曲げて家の中に入っていく。彼女はあの日、98歳の母親とこの80センチの隙間から外にはい出たのだ。

今にも崩れ落ちそうな家の中から、「ああ、だめだ」という声が聞こえる。「大事なもの」の在りかに通じるスペースはなく、手にできたのは「手続きしなきゃいけないから」という書類と、化粧水1本だけだった。

井戸水を近所に配る向静枝。倒壊は免れたが自宅には「危険」の赤紙が KOSUKE OKAHARA FOR NEWSWEEK JAPAN

彼女は地震後、ぜんそく持ちの母をなんとか連れ出し、滑りやすい瓦とガラスの上を踏み締め道路に出た。しかし車がないと、母を連れて避難所まではとても逃げられない。通りがかりの車に乗せてもらってなんとか避難することができた。

今いる避難所は衛生環境も良くないが、彼女は金沢には避難しない。家も心配だし、高齢の母もいる。輪島出身の夫と能登町出身の自分は、金沢をよく知らない。あんな状態でも家の中には大切なものが残っている。そう語る彼女に、通りすがりの近所の人は「どろぼう出てるって聞いたから気を付けて」と呼びかけた。

助け合う在宅避難者たちの今

車があるかどうかは、避難者の生活を大きく分ける。給水車から水の配給があっても、車がなければ何度も取りには行けない。

県立輪島高校近くのドラッグストア、ゲンキー河井店は1月2日から営業し、天井が一部剝がれ落ちながらも青果物や薬、弁当などをそろえて営業を続けていた。だが、車を失った人は買い物に行くことも難しい。

そんな今、住人たちは声をかけ合いながら、情報を共有しながら、助け合って生活している。14年前に建てた自宅が倒壊を免れ、夫と息子と在宅避難を続ける向(むかい)静枝(74)は、庭から出る井戸水を焼酎の大容量ペットボトルに入れて近所に配っている。

「やっと分かったわ、水のありがたさが。薬飲むのにも水がいる。ここに越してきたとき、パーマ屋さんの先生がここ井戸あるけど、粗末にせんとけって。猫が来たら落ちりゃ悪いもんで、父ちゃんとふたを買ってきてすぐにのせて、ずっと守っとった。こんなときに役に立ってん」と向は言う。

向家の井戸水は飲むことはできないが、トイレを流すのに使える。近所で在宅避難している住人宅にも配り、一つ下の世代のこの住人からは、あそこの給水車は昼には水がなくなる等の細かい情報をいろいろと教えてもらっている。高齢者は情報弱者になりやすく、情報を積極的に取りに行ける世代の助けはありがたい。

向は19歳で嫁いでから65歳まで土木関係で働き、07年の地震の2年後に輪島市高洲山の麓にあった以前の自宅が裏山の土砂崩れでつぶれ、元の場所に建てるのが恐ろしくてこの地に引っ越してきたという。そしてまた被災。

「こんでいいっちゅうことはねえけど、死ぬまでがんばらなね。そうやろ、たくさん亡くなった人、けがした人おるけど、おらぁぴんぴんしとる、五体満足や。これから、まだまだ続くもんね。またがんばる。負けとられん」。向はそう言い、目からほろほろと涙を流しながら顔を上げた。

崩れた道の前に置かれた門松。こんな正月を誰が予想しただろう KOSUKE OKAHARA FOR NEWSWEEK JAPAN

今も市内全域で断水、また停電が続く場所もありライフラインの復旧が見通せないなか、この先のことについて考えられる段階ではない。だがいずれ「復興」という言葉が語られるようになるとき、長い未来に向けて中心となるのは若い世代だ。

しかし同時に、少子高齢化と過疎が進む輪島から、約100キロ離れた白山市へ中学生が集団避難することが連日のように報じられている。輪島市内の年少人口(0~14歳)は22年時点の推定で全体の7.2%。全国平均の11.6%と比べても少ない。

輪島高校に妻と義母と避難している7歳と4歳の子の父親(43)に話を聞くと、家族5人が2週間、一度も洗濯ができていない。平時でも小さな子供は感染症にかかりやすく衛生面への気配りが必要だ。洗濯物も多い。しかし断水のため洗濯ができず、七尾市の一部で水が出ていると聞いたので、コインランドリーに行こうと思っているという。

「夏場なら水をためてまだ何とかできますけど、冬は水も冷たい。今は家から持ち出せた服を着回して、汚れたやつは袋に入れておいて。2週間分をまとめて、車で1時間、2時間かけて洗濯しに行こうかと思ってます」と、この父親は語る。

彼はこの日、輪島高校の音楽室で子供のために遊び場を設ける支援活動があると聞き、7歳の長女を連れてやって来た。父親に話を聞く傍らでは、長女がボランティアスタッフと楽しそうに遊んでいる。

1月3日から能登に入り、輪島高校のほか珠洲市や七尾市、金沢市の避難所で子供の居場所をつくる活動を行っている東京都の認定NPO法人「カタリバ」のスタッフ、石井丈士(37)は、子供への支援は後回しになりがちだと指摘する。

「まず一番は人命救助、その次に食事とか衛生、と考えていると、子供と関わっていく人が減っていって、子供が子供らしくいられる時間はなくなっていってしまう」と、石井は言う。

「普段と違う生活、体育館や教室での生活が始まって、周りには知らない人がいたりと、気持ち的には安心できない。そんななかで、安心できる、ここは大丈夫なんだなと思える空間とか、気持ちを発散したり自由に遊べる空間がすごく大事です」

避難所の運営や医療については被災自治体と連携している他の自治体から職員が派遣されてくるが、子供のケアをする保育士はなかなか入ってこない。医療より優先度は下がったとしても、重要かつ必要なケアであるにもかかわらず、だ。

輪島高校の避難所では、約250人の避難者の中で、小さな子供は5人前後。避難所の中で子供は圧倒的少数であり、子育て世代のニーズは積極的に聞いていかなければ見えづらい。

だが子供支援は、子供の親を助けることにもつながる。保育所も学校も閉鎖し再開のめどが立たないなか、24時間子供を抱えた毎日では、生活を立て直すための時間もつくれない。子供の居場所をつくり、子供を見ていてくれる「人」がいることは、親にとって大きな助け舟になる。

配送業の職場が被災して業務がストップしていたという父親は、明日から仕事が再開するという。輪島市外への避難は検討したかと聞くと、「2次避難したら仕事も収入もなくなるんで。結局、働いてる世代は(避難は)難しい。年金暮らしとか、高齢の方なら避難されてもいいかと思いますけど、半壊した自宅については不動産屋に連絡がつかないままですし......」と語る。仮設住宅の申し込みもしており、今のところ遠くに引っ越すことは考えていない。

◇ ◇ ◇

1月16日、前日に輪島から金沢の1.5次避難先である「いしかわ総合スポーツセンター」に到着した二井を訪ねた。17日には金沢市内のホテルに移ることが決まったそうだ。2月25日まではいられると言われたが、その先のことは全く見通しが立っていない。

ホテルに入れば水も電気もトイレも風呂もあるが、輪島の情報は入りにくく、避難者同士のつながりも心もとない。

「ほんと言うと、今頃はふるさと納税の返礼品で忙しい時期なんですよ」と、二井はえんじ色の福寿椀と呼ばれる汁椀を携帯の画面で見せてくれた。震災の泥にまみれてしまった輪島塗が、以前と同じ美しさを取り戻せる日は来るのだろうか。

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小暮聡子(本誌記者)

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