<イギリスで放送されたドキュメンタリードラマが郵便局スキャンダルへの関心を一気に高め、社会を動かした。実話ベースのドラマが冤罪を覆すのはイギリスの一種の伝統だ>
いまイギリスは「英史上最大の冤罪事件」に揺れている。
国有企業のポストオフィス(PO)の下にある各地の郵便局で、実際に窓口で集めた現金が会計システム上の残高記録より少なくなる事例が多発。
2000~14年に700人以上の郵便局長が横領罪で訴追された。
だが実際には、郵便局に導入された富士通の会計システム「ホライゾン」に重大な欠陥があった。
システムの不具合は早くから報告されており、大々的とは言えないまでもメディアもこのスキャンダルを報道していた。
しかし事件が大きな注目を集めたのは、今年になってからだ。
きっかけは、民放ITVで元日から放送された全4話のドラマ『ミスター・ベイツ対ポストオフィス』だった。
実話を基に、アラン・ベイツら700人を超える元郵便局長の法廷闘争を描いた作品だ。
これまで920万人以上がこの作品を視聴。
国民の怒りの声は高まり、政府は冤罪の犠牲になった人々を救済するための司法手続きを加速させることとなった。
12~19年にPOのCEOを務めたポーラ・ベネルズは、国から授与された勲章を返上。
会計システムを納入した富士通は、かなり早い時点で欠陥を把握していた可能性を認め、被害者への補償を行う意向を示した。
『ミスター・ベイツ対ポストオフィス』より REX/AFLO
社会を大きく動かしたのが、真面目な調査報道でも進行中の公的な調査でもなく、テレビドラマだったことに驚く人がいるかもしれない。
だが、ドラマが世論を動かした例は初めてではない。
「ドキュドラマ(ドキュメンタリードラマ)」が変化のきっかけをつくるのは、イギリスでは一種の伝統となっている。
1990年の『テロリストを追え!/バーミンガム爆破事件の謎』は、74年に起きた爆破テロ事件をめぐる司法判断に大きな疑問を投げかけ、冤罪で終身刑を言い渡された6人のアイルランド人男性が、17年にわたる服役を経て釈放されるきっかけとなった。
ジミー・マクガバンが脚本を手がけた『ヒルズバラ』(96年)は、観客96人が圧死した英サッカー史上最悪の事故「ヒルズバラの悲劇」に対する公的調査への機運を高めた。
BBCの17年のドラマ『3人の少女』は、性的グルーミング(わいせつ目的で若年者を手なずける行為)や児童虐待への関心を高め、政府が法改正に動く後押しをした。
こうしたドキュドラマの原点と言えるのが、66年にBBCが放送したケン・ローチ監督作『キャシー・カム・ホーム』だろう。
ホームレスの人々の苦しい生活を描いた作品で、大きな反響を呼んだ。
リアルな声で心揺さぶる
それぞれのドラマのテーマと同じく、これまで郵便局スキャンダルへの世間の関心が薄かったのは十分な報道が行われなかったからでも、問題の重要性が低かったからでもない。
ドラマが放送されてやっと、事態の深刻さやシステムの欠陥による影響が実感され、人々の心が大きく動かされたのだ。
ドキュドラマでは事実関係を伝えるだけでなく、通常の報道とは違った文脈から状況が語られる。
よく見られるのが、力を持たない人々が強力な組織に立ち向かうという文脈での描き方だ。
事実そのものよりも、そこに巻き込まれた人々に光を当てることで、ドキュドラマはメッセージをストレートに届けることができる。
そして報道など他のコミュニケーション手段ではなし得ない形で、視聴者の関心をつかみ取る。
筆者の専門は「逐語演劇」という演劇のジャンルで、現実をドラマや演劇で描くことで生まれる力について研究している。
逐語演劇では、さまざまな社会的・政治的問題をめぐる物語を現実の人々の言葉をそのまま使って語ることで、これまで耳を傾けられなかった人々の声を伝える。
さらに私は、イギリスの児童養護制度に関わった経験を持つ芸術関係者や若手研究者のプロジェクトにも参加している。
逐語演劇的な手法を用いて、当事者の視点から児童養護についてどう感じたか、若い研究者らの声を伝えようというものだ。
目的は、彼らの声をソーシャルワーカーなど児童養護制度で働く人たちに届けることだ。
自分たちの判断が当事者である子供たちに与える影響をさらに深く理解することで、仕事への取り組み方を見つめ直すきっかけになればいいと考えている。
広く聞いてもらうことで、当事者の声はただの「かわいそうな話」の寄せ集めではなくなる。
言葉を交わしていても、当事者が話を聞いてもらったという実感を得られず、孤立感や恥の意識さえ感じていることを分かってもらえる。
それが共感につながるのだ。
『ミスター・ベイツ対ポストオフィス』にも同様の感情があふれていた。
演劇と演技が声なき人々の声を擁護し、応援するという非常に重要で強力な役割を果たしている。
これまでと違った形の支援や活動のきっかけをつくったのだ。
不当な扱いを受けた人々が正義を求めて四半世紀にわたって続けてきた活動が、ドラマによって勢いを得たようだ。
数百万人の人々がベイツらに共感し、彼らの身になって怒りを募らせた。
アートの力が現実の人々の行動を引き出した例だ。
Sylvan Baker, Senior lecturer, Royal Central School of Speech & Drama, University of London
This article is republished from The Conversation under a Creative Commons license. Read the original article.
シルバン・ベイカー(ロンドン大学ロイヤル・セントラル・スクール・オブ・スピーチ・アンド・ドラマ上級講師)
いまイギリスは「英史上最大の冤罪事件」に揺れている。
国有企業のポストオフィス(PO)の下にある各地の郵便局で、実際に窓口で集めた現金が会計システム上の残高記録より少なくなる事例が多発。
2000~14年に700人以上の郵便局長が横領罪で訴追された。
だが実際には、郵便局に導入された富士通の会計システム「ホライゾン」に重大な欠陥があった。
システムの不具合は早くから報告されており、大々的とは言えないまでもメディアもこのスキャンダルを報道していた。
しかし事件が大きな注目を集めたのは、今年になってからだ。
きっかけは、民放ITVで元日から放送された全4話のドラマ『ミスター・ベイツ対ポストオフィス』だった。
実話を基に、アラン・ベイツら700人を超える元郵便局長の法廷闘争を描いた作品だ。
これまで920万人以上がこの作品を視聴。
国民の怒りの声は高まり、政府は冤罪の犠牲になった人々を救済するための司法手続きを加速させることとなった。
12~19年にPOのCEOを務めたポーラ・ベネルズは、国から授与された勲章を返上。
会計システムを納入した富士通は、かなり早い時点で欠陥を把握していた可能性を認め、被害者への補償を行う意向を示した。
『ミスター・ベイツ対ポストオフィス』より REX/AFLO
社会を大きく動かしたのが、真面目な調査報道でも進行中の公的な調査でもなく、テレビドラマだったことに驚く人がいるかもしれない。
だが、ドラマが世論を動かした例は初めてではない。
「ドキュドラマ(ドキュメンタリードラマ)」が変化のきっかけをつくるのは、イギリスでは一種の伝統となっている。
1990年の『テロリストを追え!/バーミンガム爆破事件の謎』は、74年に起きた爆破テロ事件をめぐる司法判断に大きな疑問を投げかけ、冤罪で終身刑を言い渡された6人のアイルランド人男性が、17年にわたる服役を経て釈放されるきっかけとなった。
ジミー・マクガバンが脚本を手がけた『ヒルズバラ』(96年)は、観客96人が圧死した英サッカー史上最悪の事故「ヒルズバラの悲劇」に対する公的調査への機運を高めた。
BBCの17年のドラマ『3人の少女』は、性的グルーミング(わいせつ目的で若年者を手なずける行為)や児童虐待への関心を高め、政府が法改正に動く後押しをした。
こうしたドキュドラマの原点と言えるのが、66年にBBCが放送したケン・ローチ監督作『キャシー・カム・ホーム』だろう。
ホームレスの人々の苦しい生活を描いた作品で、大きな反響を呼んだ。
リアルな声で心揺さぶる
それぞれのドラマのテーマと同じく、これまで郵便局スキャンダルへの世間の関心が薄かったのは十分な報道が行われなかったからでも、問題の重要性が低かったからでもない。
ドラマが放送されてやっと、事態の深刻さやシステムの欠陥による影響が実感され、人々の心が大きく動かされたのだ。
ドキュドラマでは事実関係を伝えるだけでなく、通常の報道とは違った文脈から状況が語られる。
よく見られるのが、力を持たない人々が強力な組織に立ち向かうという文脈での描き方だ。
事実そのものよりも、そこに巻き込まれた人々に光を当てることで、ドキュドラマはメッセージをストレートに届けることができる。
そして報道など他のコミュニケーション手段ではなし得ない形で、視聴者の関心をつかみ取る。
筆者の専門は「逐語演劇」という演劇のジャンルで、現実をドラマや演劇で描くことで生まれる力について研究している。
逐語演劇では、さまざまな社会的・政治的問題をめぐる物語を現実の人々の言葉をそのまま使って語ることで、これまで耳を傾けられなかった人々の声を伝える。
さらに私は、イギリスの児童養護制度に関わった経験を持つ芸術関係者や若手研究者のプロジェクトにも参加している。
逐語演劇的な手法を用いて、当事者の視点から児童養護についてどう感じたか、若い研究者らの声を伝えようというものだ。
目的は、彼らの声をソーシャルワーカーなど児童養護制度で働く人たちに届けることだ。
自分たちの判断が当事者である子供たちに与える影響をさらに深く理解することで、仕事への取り組み方を見つめ直すきっかけになればいいと考えている。
広く聞いてもらうことで、当事者の声はただの「かわいそうな話」の寄せ集めではなくなる。
言葉を交わしていても、当事者が話を聞いてもらったという実感を得られず、孤立感や恥の意識さえ感じていることを分かってもらえる。
それが共感につながるのだ。
『ミスター・ベイツ対ポストオフィス』にも同様の感情があふれていた。
演劇と演技が声なき人々の声を擁護し、応援するという非常に重要で強力な役割を果たしている。
これまでと違った形の支援や活動のきっかけをつくったのだ。
不当な扱いを受けた人々が正義を求めて四半世紀にわたって続けてきた活動が、ドラマによって勢いを得たようだ。
数百万人の人々がベイツらに共感し、彼らの身になって怒りを募らせた。
アートの力が現実の人々の行動を引き出した例だ。
Sylvan Baker, Senior lecturer, Royal Central School of Speech & Drama, University of London
This article is republished from The Conversation under a Creative Commons license. Read the original article.
シルバン・ベイカー(ロンドン大学ロイヤル・セントラル・スクール・オブ・スピーチ・アンド・ドラマ上級講師)