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「日本語ロック」と「韓国語ロック」はなぜ同時期に誕生したのか?...「はっぴいえんど」と「シン・ジュンヒョン」の1970年代

ニューズウィーク日本版 2024年2月10日 10時5分

<1970年代、新しいサウンドが日韓両国に生まれた...。都市、アメリカ、若者、音楽を通じた、もう1つの日韓の歴史とその背景について>

BTS、TWICE、BLACKPINCK、NewJeans――今や世界的人気を誇るK-POPアーティストたち。彼らの活躍の裏には日韓がおりなした数十年にわたる歴史があった。

日本と韓国はいかに自己と他者のイメージを構築し、欲望しあい、そして「POPの夢」を見たのか...。もうひとつの日韓戦後史を描き出した、金成玟著『日韓ポピュラー音楽史:歌謡曲からK-POPの時代まで』(慶應義塾大学出版会)の「第2章 音楽大国日本への欲望──日韓のロックと「ヤマハ世界歌謡祭」」より一部抜粋。

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はっぴいえんどとYMOの時代

終戦・解放後に生まれた世代が二十代半ばとなり、それぞれの「ポスト戦後」に突入した1970年代の日本と韓国は、新しいサウンドで溢れていた。

それは、アメリカの音楽を受容・融合しつづけた結果でもあり、巨大化した音楽企業およびマスメディアとともにグローバル化していく「ロック・ポップ」との同時代的連動でもあった。

その動きは、日本においては「日本語ロック」として、韓国においては「韓国語ロック」として表れた(ここで括弧付きの「日本語ロック」「韓国語ロック」は、ロックとフォークジャンルを厳密に区別しない意味として使う)。

「日本語ロック」は、日本における「戦後」と「ポスト戦後」を区分する文化的発現であった。その代表的な存在は、1947年生まれの細野晴臣が率いるロックバンドはっぴいえんどである。

幼年期からアメリカの音楽を憧憬した彼らは、バッファロー・スプリングフィールドをはじめとするアメリカ西海岸のロックサウンドを、日本的風景と都会的感受性を語る「日本語」の歌詞に落とし込み、「それまでの日本の音楽とは全く違う、新しい日本のポップ・ソングのあり方」を生み出した。

「ロック=アメリカ=英語」という認識が根強かった当時の日本において、「日本語でロックを歌うこと」は、「アメリカ的なもの」と「日本的なもの」のあいだの「境界」への想像力そのものを転覆させる行為でもあった。

依然としてアメリカの音楽的影響を強く受けながらも、はっぴいえんどの「日本語ロック」は、それ以前に流行っていた「カバーポップ」とはまったく異なる「新しいアメリカの日本的発現」であり、「新しい日本のアメリカ的発現」であった。

その「新しさ」は、1970年代を通して次つぎと登場したシンガーソングライターがつくり出した「ニューミュージック」によって拡張していった。はっぴいえんどのメンバーである細野晴臣、大瀧詠一、鈴木茂、松本隆がそれぞれ及ぼした影響も大きかった。

とくに、「シティ・ポップ」の誕生過程におけるその役割は絶大なもので、南佳孝の『摩天楼のヒロイン』(1973年)、シュガー・ベイブの『SONGS』(1975年)、センチメンタル・シティ・ロマンスの『センチメンタル・シティ・ロマンス』(1975年)、小坂忠の『ほうろう』、吉田美奈子の『Flapper』(以上、1976年)、山下達郎の『Spacy』(1977年)など、「シティ・ポップ」の幕開けを告げた数々の作品に、彼らはプロデューサー、作曲家、作詞家、演奏家、制作者として参加している。

それと同時に、大瀧詠一の『A LONG VACATION』(1981年)のように、彼ら自身も名盤を世に送り出していった。細野晴臣が坂本龍一、高橋幸宏と結成したYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)がアメリカ活動を本格化したのは、はっぴいえんどのデビューから十年後となる1979年であった。

YMOの音楽は、アメリカのロックを受容・融合して生まれた「日本語ロック」をさらに電子楽器と融合させた「テクノ・ポップ」を特徴としていた。

彼らのサウンドと感覚は、同じく1979年に誕生したソニーの「ウォークマン」のように、新しい「日本らしさ」を象徴するものとして世界に認識された。「日本語ロック」の誕生過程は、J-POPの原点でもある「現代日本」のサウンドとスタイルの構築過程ともいえる。

  

韓国ロックの父・シン・ジュンヒョン

韓国においても、ほぼ同時期に「韓国語ロック」が誕生していた。その代表的人物は、「韓国ロックのゴッドファーザー」と呼ばれるギタリスト・作曲家シン・ジュンヒョン(신중현)である。

日本の坂本九(1941年生まれ)と同世代といえる1938年生まれのシン・ジュンヒョンは、50年代に米軍基地舞台で学んだアメリカのロックを受容・融合したさまざまなグループ・サウンズを通じて、「韓国的なロック」をつくり出した。

彼が率いるロックバンドAdd4が発表した1964年の曲「雨の中の女人」は、「韓国語ロック」の原点となる名曲としていまも評価されている。

1970年代は、シン・ジュンヒョンに続いて登場したシンガーソングライターが「韓国語ロック」を確立させた時代であった。

音楽学者の申鉉準らによれば、「韓国語ロック」の成立過程は、1960年代までにGI文化として米軍によって朝鮮半島に移植されたポップ音楽が、翻訳と再創作を経て、若者自身によってつくり出されるまでの過程でもあった。

ハン・デス(한대수)、イ・ジャンヒ(이장희)、チョ・ドンジン(조동진)、ヤン・ヒウン(양희은)らの歌に表れる当時の若者文化の自意識は、軍事独裁政権下で政治的抑圧を経験することでより深くなっていった。

「フォークギター・ブーム」に乗って広がったそれらの歌は、若者たちにとっては「封建的で前近代的な因習に対する拒否反応であり、愛に対する伝統的観念との決別」であったという。

フォーク、ポップ、サイケデリック・ロック、ゴーゴー、ファンクなど次つぎとブームを起こし、明洞(ミョンドン)、鍾路(チョンノ)、新村(シンチョン)といった都市空間に若者たちの欲望を集めた70年代の「韓国語ロック」が、韓国のポピュラー音楽史に残した遺産はきわめて大きい。

ヤン・ヒウンの歌「朝露(아침이슬)」がさまざまな民主主義闘争の場で歌われてきたことからもわかるように、民主化以前の韓国社会における「若者文化」の原点はこの時代にあった。

2007年と2018年に実施された「韓国大衆音楽名盤100」の選定では、70年代のアルバム5作品が10位以内に選ばれるほど、いまもなお高い支持を得ている。

金成玟(キム・ソンミン)
北海道大学大学院メディア・コミュニケーション研究院教授。1976年ソウル生まれ。ソウル大学作曲科卒業。ソウル大学言論情報学科修士課程修了。東京大学大学院学際情報学府博士課程修了。博士(学際情報学)。専門はメディア文化研究、音楽社会学。東京大学情報学環助教、ジョージタウン大学アジア研究科訪問研究員などを経て現職。著書に『Postwar South Korea and Japanese Popular Culture』(Trans Pacific Press、2023年)、『K-POP――新感覚のメディア』(岩波新書、2018年)、『戦後韓国と日本文化――「倭色」禁止から「韓流」まで』(岩波現代全書、2014年)など。

  『日韓ポピュラー音楽史:歌謡曲からK-POPの時代まで』
  金 成玟[著]
  慶應義塾大学出版会[刊]

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シン・ジュンヒョン「雨の中の女人」(1964年)

내 속을 태우는구려/Various Artists

  


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