<3年前に記者会見拒否を宣言したテニスの元女王が、そこに至った大きすぎる苦悩と葛藤を振り返り、自身の言葉で思いを語った>
テニスの4大大会を4度制し、最も高収入の女性アスリートにもなった大坂なおみは、人種をめぐる正義とメンタルヘルスの両方に絡むスターとして大きな注目を浴びた。
2020年の全米オープン。直前にウィスコンシン州ケノーシャで黒人男性が警官に撃たれて下半身麻痺になった事件があった。
これを受けて、大坂は警察の人種差別的な暴力の被害に遭った黒人の名前を入れたマスクを着け(名前は試合ごとに替わった)、話題を呼んだ。
そして大坂は優勝した。
21年の全仏オープンの前にはメンタルヘルスを理由に、大会中は記者会見を行わないと宣言。
主催者側が厳しい罰金と失格の可能性を含む処分を科すと通達したため、大坂は1回戦に勝った後に大会を棄権した。
その大坂が今年1月、コートに帰ってきた。
22年9月以来の休養と娘の出産を経て26歳になった彼女は「またテニスに戻れるのは最高」と語っている。
ジャーナリストのベン・ローゼンバーグは新著『大坂なおみ──パワーと声を探す旅』(ダットン社刊)で、大坂が直面した苦難と葛藤を描いた。
一人の女性がいかにしてメンタルヘルスの問題をテニス界に、そして世界に注目させたのか。以下に紹介する同書の抜粋は、その舞台裏をつづっている。
◇ ◇ ◇
大坂なおみは、2021年の全仏オープンで最も話題になる選手ではなかったはずだ。
それに先立つ2つの4大大会で優勝していたが(20年全米オープンと21年全豪オープン)、彼女がクレーコートを苦手としていると知り、直近の敗戦を目撃した専門家らは、大会前に彼女に大きくスポットを当てなかった。
なおみはこの年の全仏オープンで世界ランキング1位に返り咲く可能性もあったが、直近の調子を考えれば、その点に触れる声はほとんど聞かれなかった。
オッズメーカーも同様に、彼女が全仏オープンに優勝する可能性を5番手程度とみていた。
前評判でトップのアシュリー・バーティは19年に全仏に優勝して以来、初めてこの大会に戻ってきた。
前回王者のイガ・シフィオンテクは、直前に開かれたイタリア国際決勝でカロリナ・プリスコバに6-0、6-0のスコアで圧勝していた。
夜11時24分、全てが変わった
これまでなら、なおみの大会開幕前のSNS投稿は、紫色に輝く全仏オープン仕様のナイキのシューズを見せびらかしたり、センターコートでカメラに向かってジャンプして笑ったりする写真が定番だった。
20年の全米オープンでは4大大会で3度目の優勝 MATTHEW STOCKMAN/GETTY IMAGES
スポーツビジネスを扱うニュースサイトのスポルティコが開幕直前の5月25日に配信した記事によれば、なおみはスポンサー契約だけで過去12カ月に推定5000万ドルを獲得していた。
女性アスリートでは最高額。男性を加えても彼女の上にいたのはロジャー・フェデラー(テニス)、レブロン・ジェームズ(バスケットボール)、タイガー・ウッズ(ゴルフ)だけ。
それでもパリで5月26日の夜が更けるまで、彼女は特別に注目を浴びる存在ではなかった。
全てが変わったのは、その夜11時24分。なおみは今の気持ちをiPhoneのメモアプリに記し、ツイッター(現X)に投稿した。
今までも大きな大会が近づくとやってきたことだが、過去の投稿と違って今回はけんか腰とも言えるものだった。
みなさん。お元気ですか。
私がこのメッセージを書いているのは、全仏オープンの間は記者会見を受けないとお伝えするためです。
私はアスリートのメンタルヘルスへの配慮が足りないと感じることが、よくあります。
記者会見を見たり、参加したりするたびに、強く感じます。
会見では今まで何度も聞かれた質問や、自信を失わせるような質問をされることが多いのです。
私は、私のことを疑う人たちの前に身をさらしたくありません。
負けた後に会見場で泣き崩れるアスリートの映像を、たくさん目にしました。
みなさんも見たことがあるでしょう。
ただでさえ落ち込んでいる人をたたく場が、なぜ必要なのか分かりません。
記者会見に応じない理由は、大会に対する個人的な感情ではありません。
私が若い時から取材してくれている記者が何人かいて、その方たちの大半とは親しい関係にあります。
でも統括組織が「会見をしないなら罰金だ」と言い続け、組織にとって財産であるはずのアスリートのメンタルヘルスに無視を決め込むなら、もう私は笑うしかありません。
このことで高い罰金を科せられるでしょうが、それがメンタルヘルスに関するチャリティーに使われることを願っています。
ハグ&キッス✌🏿♥
なおみは自身の主張を裏付けるため、インスタグラムには宣言文に加えて過去の動画を2本アップした。
1つは、1994年に当時14歳だったビーナス・ウィリアムズのインタビューを父親のリチャードが遮っている動画。ABCニュースの記者が娘の不安をあおるような質問を繰り返すことが許せなかったのだ。
もう1本は、アメリカン・フットボールのマーショーン・リンチが2015年のスーパーボウル前の記者会見で、何を聞かれても「俺は罰金を科されないために、ここにいるんだ」と答えているものだ。
19年の全豪オープンを制してトロフィーにキス JIMMIE48
テニス界の反応は冷ややか
なおみの宣言はパリ時間の深夜にアップされたが、その衝撃はすぐさまネット上に広がり、主流メディアやポップカルチャーの隅々にまで激震が走った。
なおみはBLM(ブラック・ライブズ・マター=黒人の命は大事だ)運動や#MeToo運動が盛り上がる時代の機運にぴったりの形で抗議を行った。
非白人の若い女性が高齢の白人男性が支配するとみられている「残酷で不公正な体制」に挑む、というものだ。
これにはラッパーのニッキー・ミナージュや、歌手で女優のジャネル・モネイら多くのセレブが声援を送った。
なおみの主張は部外者には広く支持されたものの、テニス界の反応は冷ややかだった。
大会関係者や記者、選手たちの間にはいら立ちと当惑が広がった。
なおみの主張だけでなく、発表の方法も関係者の逆鱗に触れた。なおみはSNSへの投稿で連盟に挑戦状をたたき付け、けんかを売ったと見なされたのだ。
関係者の思いはこうだ。
記者会見に不満があるのなら、なぜ自分たちに一言相談しなかったのか。そうすれば、もっと穏便な形で解決する方策が見つかり、テニスというスポーツそのものがたたかれるような事態を招かずに済んだのに......。
記者たちも、これまでずっと敬意を持って彼女を取材してきたつもりだったのに、なぜ自分たちが悪者に仕立てられるのか理解に苦しんだ。
そもそもなぜ、なおみは会見を苦痛に感じたのか。
関係者らはそれも理解できなかった。
最近の記者会見のどの場面で彼女がつむじを曲げたのか、誰もはっきり指摘できなかった。全仏オープンの前哨戦と位置付けられていたイタリア国際で、なおみは初戦でジェシカ・ペグラと対戦して敗れたが、このときは会見が行われなかった。
試合前に行われた会見に取材拒否につながるような問題がなかったか、関係者は改めて質疑応答を点検した。
だが、そこで聞かれたのは9月にニューヨークのメトロポリタン美術館で開催される恒例のファッションの祭典で、なおみがホストの1人を務めることや、会場で歌手のリアーナと会うのが楽しみかといったことばかり。
記者たちにすれば、なおみの会見は長年奇抜かつ新鮮で、チャーミングなものだった。何が変わったのか。
なおみの会見拒否について、選手やエージェントがよく問題にするのは「栄光の絶頂でなぜ?」ということだ。
彼らにすれば、スポンサー契約だけで年5000万ドルも稼ぎながらメディアに注目されたくないなんて、わがままもいいところだ。
注目度も収入もなおみに遠く及ばない選手たち(プロの大半がそうだ)は彼女に同情する気にはなれないだろう。
21年の全仏オープンで開幕前の練習から思うようなプレーができずコーチに慰められる JIMMIE48
たった1つの投稿で、なおみとテニス界のお偉方との関係性は180度変わった。
彼らはなおみのメッセージをSOSの叫びとは受け取らなかった。
プロスポーツとしてのテニスを発祥当初から支えてきた収益構造を揺さぶり、その存在を脅かす危険な主張と解釈したのだ。
70年代初め、ビリー・ジーン・キングが女性だけのトーナメント開催のために奮闘していた頃には、女子のプロスポーツは興行的に成り立つかどうか疑わしいとみられていた。
キングは生まれたばかりの女子ツアーを取材するよう男社会のスポーツメディアに懸命に働きかけた。
「伝統的なメディアが取り上げてくれなければ、私たちは全く相手にされない」と、彼女は話していた。
なおみの投稿の翌日に開かれた記者会見で、仏テニス連盟のジル・モレトン会長はなおみの宣言を「驚くべき過ち」と表現した。
「これはわれわれが解決するか、少なくとも危惧しなければならない(テニス界)全体の問題だ」と、モレトンは記者団に語った。
なおみの投稿は「このスポーツに、テニスにとって、おそらく彼女自身にとっても非常に有害だ。彼女はゲームを損ない、テニスを傷つけた。見過ごすことはできない」。
「Zoom会見」に戸惑いも
表向きには厳しく断罪しつつも、テニス界の重鎮らは事態を沈静化させようと、なおみと話し合うチャンスを水面下で探った。
だが、その試みはむなしいあがきに終わった。
翌27日、全仏オープンの大会ディレクターであるギー・フォルジェとモレトンは大坂からメールを受け取った。
そこには「これは100%全仏オープンに対するものではありません」と書かれていた。
「アスリートがメンタルヘルスの問題で苦しんでいるときにプレス対応を強いられるシステムに対するものです。このシステムは古くさく、改革が必要だと考えます。この大会が終わってから、(女子)ツアー関係者や運営団体と協力して、このシステムを変えるためにベストな妥協案を見つけたいと思います」
そしてメールの最後にはこうあった。
「今はテニスに集中します」
前日のSNSでの宣言に比べればはるかに穏やかなトーンだったが、状況はさらに悪化した。
なおみが「妥協」を望むのは「この大会が終わってから」。つまり大会期間中は姿勢を変える気はないということだ。
さらにお偉方はまだ知らなかったが、より深刻なのは「今はテニスに集中する」という宣言の意味だった。
その後の数日間、さまざまな関係者がコンタクトを取ろうとしたが、ことごとく失敗した。3日間にわたって、彼女は接触を拒否し続けた。
やがて記者会見でもヘッドホンを外さない場面が目立つように(21年) JIMMIE48
なおみの態度はメディアへの全面攻撃と受け止められた。
数カ月後、または数年後、彼女はこの瞬間についてニュアンスをかなり変えて話すようになった。
あのときは不安感が高まっていて、記者会見は自分の判断次第で軽減できるストレス要因と考えていた、と。
記者会見が自分にとって問題になったのは、新型コロナのパンデミック中に起きた変化の影響が大きいと、彼女は後に語った。
リモートで仕事をしていた無数の人々と同じように、なおみはモニターの向こう側にいる人々とのつながりをなかなか感じられなかった。
かつて自分と同じ部屋に座っていた記者たちとの関係とは違っていた。彼女はバーチャル記者会見について、「人間的な交流がなくなってしまった」と語っている。
記者会見をZoomに切り替えたことで、参加人数も大幅に増えた。
世界中から誰でもバーチャルで参加できるようになったため、以前はテニストーナメントの取材旅費を出さなかったメディアも、数回のクリックで記者をなおみの前に立たせることが可能になり、彼女の言葉を自社のウェブメディアに載せて閲覧回数を稼ごうとするようになった。
この変化は9カ月前、ウィスコンシン州ケノーシャで29歳の黒人男性ジェイコブ・ブレイクが警察に銃撃され、下半身麻痺になった事件を受けて、なおみがニューヨークで開催される全米オープンの前哨戦を棄権すると表明した頃から始まっていた。
「記者会見に私の知らない新しい記者たちが加わるようになった。私の成長を見守ってくれた人たちとは違う記者が」と、彼女は言った。
精神的に疲れ切っていた
「それでエネルギーが落ち始めた。もっと自分を守らないといけないと思うようになった。知り合いの記者を攻撃するつもりはなかった。日本のメディアや何人かのテニス専門記者の人たちとは、とても強い絆を感じている。だから、もし彼らを傷つけてしまったのなら申し訳ないと思う。そんなつもりは全然なかった」
数年後、この対立劇について語ったなおみは、多くの記者会見はとても楽しかったと言った。ほかの場所ではめったにできないような、飾らない生の自分の言葉を話せたから。
「記者会見場では、私はすごくオープンなキャラクターになる。時には言うべきじゃないことを言ってトラブルになったことも。でも、それは私が記者たちを好きだから。彼らは知らないと思うけど、私は彼らと話すのが好きだし、質問を聞くのも好き。誰かが質問するほど私を気にかけてくれるのはクールなこと」
それまで安全だった空間が、新参者や非人間的なテクノロジーに侵害された──そう感じたときに初めて不安を感じ、心を閉ざしたくなったと、なおみは言う。
「自分が少し閉鎖的になり、性格が変わっていくのを感じた。それがとても嫌だった」
21年5月当時、なおみがこの視点で自分の考えを説明できていれば、全ての騒動はおそらく回避できたはずだ。
しかし、それ以前の数カ月、数年間のあらゆる経験が、なおみから自分の気持ちをそのようにはっきりと表現する力を奪っていた。
「あんなに精神的に消耗したのは初めてだった」と、彼女は振り返る。
テニスライターのハナ・ウィルクスはこう書いている。
「鬱や不安に悩まされた経験がない人間には、不思議に感じられることがある。それは助けやサポート、休息を求めることが最も緊急に必要なとき、それらを最も必要としているときは、自分が必要なことを伝える能力が最も低いときでもあるという事実だ」
<本誌2024年2月13日号掲載>
ベン・ローゼンバーグ(ジャーナリスト)
テニスの4大大会を4度制し、最も高収入の女性アスリートにもなった大坂なおみは、人種をめぐる正義とメンタルヘルスの両方に絡むスターとして大きな注目を浴びた。
2020年の全米オープン。直前にウィスコンシン州ケノーシャで黒人男性が警官に撃たれて下半身麻痺になった事件があった。
これを受けて、大坂は警察の人種差別的な暴力の被害に遭った黒人の名前を入れたマスクを着け(名前は試合ごとに替わった)、話題を呼んだ。
そして大坂は優勝した。
21年の全仏オープンの前にはメンタルヘルスを理由に、大会中は記者会見を行わないと宣言。
主催者側が厳しい罰金と失格の可能性を含む処分を科すと通達したため、大坂は1回戦に勝った後に大会を棄権した。
その大坂が今年1月、コートに帰ってきた。
22年9月以来の休養と娘の出産を経て26歳になった彼女は「またテニスに戻れるのは最高」と語っている。
ジャーナリストのベン・ローゼンバーグは新著『大坂なおみ──パワーと声を探す旅』(ダットン社刊)で、大坂が直面した苦難と葛藤を描いた。
一人の女性がいかにしてメンタルヘルスの問題をテニス界に、そして世界に注目させたのか。以下に紹介する同書の抜粋は、その舞台裏をつづっている。
◇ ◇ ◇
大坂なおみは、2021年の全仏オープンで最も話題になる選手ではなかったはずだ。
それに先立つ2つの4大大会で優勝していたが(20年全米オープンと21年全豪オープン)、彼女がクレーコートを苦手としていると知り、直近の敗戦を目撃した専門家らは、大会前に彼女に大きくスポットを当てなかった。
なおみはこの年の全仏オープンで世界ランキング1位に返り咲く可能性もあったが、直近の調子を考えれば、その点に触れる声はほとんど聞かれなかった。
オッズメーカーも同様に、彼女が全仏オープンに優勝する可能性を5番手程度とみていた。
前評判でトップのアシュリー・バーティは19年に全仏に優勝して以来、初めてこの大会に戻ってきた。
前回王者のイガ・シフィオンテクは、直前に開かれたイタリア国際決勝でカロリナ・プリスコバに6-0、6-0のスコアで圧勝していた。
夜11時24分、全てが変わった
これまでなら、なおみの大会開幕前のSNS投稿は、紫色に輝く全仏オープン仕様のナイキのシューズを見せびらかしたり、センターコートでカメラに向かってジャンプして笑ったりする写真が定番だった。
20年の全米オープンでは4大大会で3度目の優勝 MATTHEW STOCKMAN/GETTY IMAGES
スポーツビジネスを扱うニュースサイトのスポルティコが開幕直前の5月25日に配信した記事によれば、なおみはスポンサー契約だけで過去12カ月に推定5000万ドルを獲得していた。
女性アスリートでは最高額。男性を加えても彼女の上にいたのはロジャー・フェデラー(テニス)、レブロン・ジェームズ(バスケットボール)、タイガー・ウッズ(ゴルフ)だけ。
それでもパリで5月26日の夜が更けるまで、彼女は特別に注目を浴びる存在ではなかった。
全てが変わったのは、その夜11時24分。なおみは今の気持ちをiPhoneのメモアプリに記し、ツイッター(現X)に投稿した。
今までも大きな大会が近づくとやってきたことだが、過去の投稿と違って今回はけんか腰とも言えるものだった。
みなさん。お元気ですか。
私がこのメッセージを書いているのは、全仏オープンの間は記者会見を受けないとお伝えするためです。
私はアスリートのメンタルヘルスへの配慮が足りないと感じることが、よくあります。
記者会見を見たり、参加したりするたびに、強く感じます。
会見では今まで何度も聞かれた質問や、自信を失わせるような質問をされることが多いのです。
私は、私のことを疑う人たちの前に身をさらしたくありません。
負けた後に会見場で泣き崩れるアスリートの映像を、たくさん目にしました。
みなさんも見たことがあるでしょう。
ただでさえ落ち込んでいる人をたたく場が、なぜ必要なのか分かりません。
記者会見に応じない理由は、大会に対する個人的な感情ではありません。
私が若い時から取材してくれている記者が何人かいて、その方たちの大半とは親しい関係にあります。
でも統括組織が「会見をしないなら罰金だ」と言い続け、組織にとって財産であるはずのアスリートのメンタルヘルスに無視を決め込むなら、もう私は笑うしかありません。
このことで高い罰金を科せられるでしょうが、それがメンタルヘルスに関するチャリティーに使われることを願っています。
ハグ&キッス✌🏿♥
なおみは自身の主張を裏付けるため、インスタグラムには宣言文に加えて過去の動画を2本アップした。
1つは、1994年に当時14歳だったビーナス・ウィリアムズのインタビューを父親のリチャードが遮っている動画。ABCニュースの記者が娘の不安をあおるような質問を繰り返すことが許せなかったのだ。
もう1本は、アメリカン・フットボールのマーショーン・リンチが2015年のスーパーボウル前の記者会見で、何を聞かれても「俺は罰金を科されないために、ここにいるんだ」と答えているものだ。
19年の全豪オープンを制してトロフィーにキス JIMMIE48
テニス界の反応は冷ややか
なおみの宣言はパリ時間の深夜にアップされたが、その衝撃はすぐさまネット上に広がり、主流メディアやポップカルチャーの隅々にまで激震が走った。
なおみはBLM(ブラック・ライブズ・マター=黒人の命は大事だ)運動や#MeToo運動が盛り上がる時代の機運にぴったりの形で抗議を行った。
非白人の若い女性が高齢の白人男性が支配するとみられている「残酷で不公正な体制」に挑む、というものだ。
これにはラッパーのニッキー・ミナージュや、歌手で女優のジャネル・モネイら多くのセレブが声援を送った。
なおみの主張は部外者には広く支持されたものの、テニス界の反応は冷ややかだった。
大会関係者や記者、選手たちの間にはいら立ちと当惑が広がった。
なおみの主張だけでなく、発表の方法も関係者の逆鱗に触れた。なおみはSNSへの投稿で連盟に挑戦状をたたき付け、けんかを売ったと見なされたのだ。
関係者の思いはこうだ。
記者会見に不満があるのなら、なぜ自分たちに一言相談しなかったのか。そうすれば、もっと穏便な形で解決する方策が見つかり、テニスというスポーツそのものがたたかれるような事態を招かずに済んだのに......。
記者たちも、これまでずっと敬意を持って彼女を取材してきたつもりだったのに、なぜ自分たちが悪者に仕立てられるのか理解に苦しんだ。
そもそもなぜ、なおみは会見を苦痛に感じたのか。
関係者らはそれも理解できなかった。
最近の記者会見のどの場面で彼女がつむじを曲げたのか、誰もはっきり指摘できなかった。全仏オープンの前哨戦と位置付けられていたイタリア国際で、なおみは初戦でジェシカ・ペグラと対戦して敗れたが、このときは会見が行われなかった。
試合前に行われた会見に取材拒否につながるような問題がなかったか、関係者は改めて質疑応答を点検した。
だが、そこで聞かれたのは9月にニューヨークのメトロポリタン美術館で開催される恒例のファッションの祭典で、なおみがホストの1人を務めることや、会場で歌手のリアーナと会うのが楽しみかといったことばかり。
記者たちにすれば、なおみの会見は長年奇抜かつ新鮮で、チャーミングなものだった。何が変わったのか。
なおみの会見拒否について、選手やエージェントがよく問題にするのは「栄光の絶頂でなぜ?」ということだ。
彼らにすれば、スポンサー契約だけで年5000万ドルも稼ぎながらメディアに注目されたくないなんて、わがままもいいところだ。
注目度も収入もなおみに遠く及ばない選手たち(プロの大半がそうだ)は彼女に同情する気にはなれないだろう。
21年の全仏オープンで開幕前の練習から思うようなプレーができずコーチに慰められる JIMMIE48
たった1つの投稿で、なおみとテニス界のお偉方との関係性は180度変わった。
彼らはなおみのメッセージをSOSの叫びとは受け取らなかった。
プロスポーツとしてのテニスを発祥当初から支えてきた収益構造を揺さぶり、その存在を脅かす危険な主張と解釈したのだ。
70年代初め、ビリー・ジーン・キングが女性だけのトーナメント開催のために奮闘していた頃には、女子のプロスポーツは興行的に成り立つかどうか疑わしいとみられていた。
キングは生まれたばかりの女子ツアーを取材するよう男社会のスポーツメディアに懸命に働きかけた。
「伝統的なメディアが取り上げてくれなければ、私たちは全く相手にされない」と、彼女は話していた。
なおみの投稿の翌日に開かれた記者会見で、仏テニス連盟のジル・モレトン会長はなおみの宣言を「驚くべき過ち」と表現した。
「これはわれわれが解決するか、少なくとも危惧しなければならない(テニス界)全体の問題だ」と、モレトンは記者団に語った。
なおみの投稿は「このスポーツに、テニスにとって、おそらく彼女自身にとっても非常に有害だ。彼女はゲームを損ない、テニスを傷つけた。見過ごすことはできない」。
「Zoom会見」に戸惑いも
表向きには厳しく断罪しつつも、テニス界の重鎮らは事態を沈静化させようと、なおみと話し合うチャンスを水面下で探った。
だが、その試みはむなしいあがきに終わった。
翌27日、全仏オープンの大会ディレクターであるギー・フォルジェとモレトンは大坂からメールを受け取った。
そこには「これは100%全仏オープンに対するものではありません」と書かれていた。
「アスリートがメンタルヘルスの問題で苦しんでいるときにプレス対応を強いられるシステムに対するものです。このシステムは古くさく、改革が必要だと考えます。この大会が終わってから、(女子)ツアー関係者や運営団体と協力して、このシステムを変えるためにベストな妥協案を見つけたいと思います」
そしてメールの最後にはこうあった。
「今はテニスに集中します」
前日のSNSでの宣言に比べればはるかに穏やかなトーンだったが、状況はさらに悪化した。
なおみが「妥協」を望むのは「この大会が終わってから」。つまり大会期間中は姿勢を変える気はないということだ。
さらにお偉方はまだ知らなかったが、より深刻なのは「今はテニスに集中する」という宣言の意味だった。
その後の数日間、さまざまな関係者がコンタクトを取ろうとしたが、ことごとく失敗した。3日間にわたって、彼女は接触を拒否し続けた。
やがて記者会見でもヘッドホンを外さない場面が目立つように(21年) JIMMIE48
なおみの態度はメディアへの全面攻撃と受け止められた。
数カ月後、または数年後、彼女はこの瞬間についてニュアンスをかなり変えて話すようになった。
あのときは不安感が高まっていて、記者会見は自分の判断次第で軽減できるストレス要因と考えていた、と。
記者会見が自分にとって問題になったのは、新型コロナのパンデミック中に起きた変化の影響が大きいと、彼女は後に語った。
リモートで仕事をしていた無数の人々と同じように、なおみはモニターの向こう側にいる人々とのつながりをなかなか感じられなかった。
かつて自分と同じ部屋に座っていた記者たちとの関係とは違っていた。彼女はバーチャル記者会見について、「人間的な交流がなくなってしまった」と語っている。
記者会見をZoomに切り替えたことで、参加人数も大幅に増えた。
世界中から誰でもバーチャルで参加できるようになったため、以前はテニストーナメントの取材旅費を出さなかったメディアも、数回のクリックで記者をなおみの前に立たせることが可能になり、彼女の言葉を自社のウェブメディアに載せて閲覧回数を稼ごうとするようになった。
この変化は9カ月前、ウィスコンシン州ケノーシャで29歳の黒人男性ジェイコブ・ブレイクが警察に銃撃され、下半身麻痺になった事件を受けて、なおみがニューヨークで開催される全米オープンの前哨戦を棄権すると表明した頃から始まっていた。
「記者会見に私の知らない新しい記者たちが加わるようになった。私の成長を見守ってくれた人たちとは違う記者が」と、彼女は言った。
精神的に疲れ切っていた
「それでエネルギーが落ち始めた。もっと自分を守らないといけないと思うようになった。知り合いの記者を攻撃するつもりはなかった。日本のメディアや何人かのテニス専門記者の人たちとは、とても強い絆を感じている。だから、もし彼らを傷つけてしまったのなら申し訳ないと思う。そんなつもりは全然なかった」
数年後、この対立劇について語ったなおみは、多くの記者会見はとても楽しかったと言った。ほかの場所ではめったにできないような、飾らない生の自分の言葉を話せたから。
「記者会見場では、私はすごくオープンなキャラクターになる。時には言うべきじゃないことを言ってトラブルになったことも。でも、それは私が記者たちを好きだから。彼らは知らないと思うけど、私は彼らと話すのが好きだし、質問を聞くのも好き。誰かが質問するほど私を気にかけてくれるのはクールなこと」
それまで安全だった空間が、新参者や非人間的なテクノロジーに侵害された──そう感じたときに初めて不安を感じ、心を閉ざしたくなったと、なおみは言う。
「自分が少し閉鎖的になり、性格が変わっていくのを感じた。それがとても嫌だった」
21年5月当時、なおみがこの視点で自分の考えを説明できていれば、全ての騒動はおそらく回避できたはずだ。
しかし、それ以前の数カ月、数年間のあらゆる経験が、なおみから自分の気持ちをそのようにはっきりと表現する力を奪っていた。
「あんなに精神的に消耗したのは初めてだった」と、彼女は振り返る。
テニスライターのハナ・ウィルクスはこう書いている。
「鬱や不安に悩まされた経験がない人間には、不思議に感じられることがある。それは助けやサポート、休息を求めることが最も緊急に必要なとき、それらを最も必要としているときは、自分が必要なことを伝える能力が最も低いときでもあるという事実だ」
<本誌2024年2月13日号掲載>
ベン・ローゼンバーグ(ジャーナリスト)