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中国に愛された坂本龍一の「ラストエンペラー」は中国音楽か日本音楽か

ニューズウィーク日本版 2024年2月21日 11時0分

<中国外交部のスポークスマンが哀悼の意を表したほど中国でも愛された坂本龍一。あの時代とこの場所に生きる日本人だからこそ、作ることが可能だった『ラストエンペラー』の音楽について> 

2023年3月に坂本龍一が亡くなった時、中国外交部のスポークスマンが定例会見で哀悼の意を表明した。そのニュースを見て、坂本が中国で愛されていることを初めて知った日本人が多かっただろう。

私もその一人だった。気になって調べてみると、坂本と中国には、1960年代の毛沢東主義への関心から始まる長い縁があるとわかった。日中の文化交流史としておもしろいテーマだと思い、「坂本龍一と中国」という論文を書いて大学の紀要に投稿した。

『アステイオン』99号の特集「境界を往還する芸術家たち」は、日本を「視座の中心」におき、日本人や日系人の芸術家に焦点を当てている。

長木誠司氏の「ヨーロッパで活動する日本人音楽家」の冒頭で、坂本龍一がニューヨークを拠点に活動していたことが言及されているように、日本からアメリカやヨーロッパに向けたベクトルで語られることが多いテーマだろう。

本特集ではそこに南米が加わっていることが新鮮である。ブラジル社会における日系アーティストの活躍や、日本に住むブラジル出身者の「デカセギ文学」など、これまで私の知らなかった世界を見せてくれた。

ただ、日本人にとって「境界」を越えたすぐそこにあるのはアジアである。とりわけ中国について語ってみることは今日的な課題であるし、21世紀の日本の芸術がどこに向かうのかを考える上でも避けては通れないだろう。

YMOから映画音楽へ

1970年代にものごころつき、80年代に青春を過ごした私のような世代にとって、坂本龍一といえばYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)で活躍していた頃のイメージが強い。

論文には恥ずかしくて書かなかったが、中学校の体育の授業で女子だけの「創作ダンス」に取り組んだ時、私はYMOの「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」を選曲し、先頭に立って振り付けを行なった。

何の曲を使うかは自由だったが、半数以上のグループが「ライディーン」などYMOのヒット曲を選んだ。1980年代初頭の日本でいかにYMOが流行っていたかの証である。

その後坂本は映画『ラストエンペラー』(1987年公開)の音楽を担当し、日本人として初のアカデミー賞作曲賞を受賞した。

テクノポップのスターだった坂本が、どのような経緯で世界的な映画に関わるようになったのか、当時は詳しく知らなかった。ただ二胡の音色が印象的な「ラストエンペラーのテーマ」は、どこでもよく耳にした。

映画公開後40年近く経った今でも、この曲は中国関係のテレビ番組のBGMとして流れることがある。二胡の音色を、中国のイメージを喚起するものとして日本人の間に定着させたのは、坂本の功績であろう。

中国音楽が嫌いだった坂本龍一

『ラストエンペラー』での成功のおかげで、坂本は中国音楽に通暁した人と思われているし、中国人の坂本に対する親しみもそれが一因になっている。

ところが坂本の自伝『音楽は自由にする』によれば、『ラストエンペラー』の作曲を依頼されるまで、坂本は「中国の音楽というものはあまり好きになれず、中国風の音楽は書いたことがないし、ほとんど聴いたことすらなかった」。

東京芸術大学在学中に小泉文夫の民族音楽学に傾倒し、世界の楽器の音色に触れてきた坂本であるが、ここまで断言するのはよほど相性が悪かったのだろうか。

ふと疑問に思うのは、それ以前にYMOとして作曲した「東風(Tong Poo)」のような楽曲は、坂本にとって「中国風」ではなかったのだろうか、ということだ。

実は坂本は別のところで、「東風」が中国の曲を「下敷きにして」作られたものであることを明かしている。中国の熱心なファンの間では元歌探しも行なわれ、ほぼ特定されている。

おそらく電子的にさまざまなアレンジを加える過程で、それが中国に由来したものであるとの意識は坂本から抜け落ちた。結果的に東洋的ではあるが、無国籍の音楽ができあがったのだろう。

作曲の裏話

『ラストエンペラー』の音楽を2週間という短い期間で作ることになった坂本は、「とりあえずレコード屋に走って、20巻ぐらいある中国音楽のアンソロジーを購入、丸一日かけて全部」聴いた。

それまであまり関心の持てなかった中国音楽を、まずは知ることから始め、次に「時代とシチュエーションを考慮して」使うべき楽器を選んだ。

当時東京には二胡の演奏家である姜建華や琵琶奏者の楊宝元が留学しており、坂本は彼らを招いてその場で弾いてもらいながら、各場面に曲をつけていった。

二人は日中国交正常化50周年にあたる2022年9月、駐上海日本総領事館で行なわれた記念イベントに出演し、坂本との思い出を披露している。

楊宝元は、坂本が「中国音楽の要素」を「選び」、「彼が最も得意とする電子音楽の和声の技術と融合させた」と語った。

実際には『ラストエンペラー』の音楽自体は「電子音楽」ではなく、西洋音楽の作曲技法に基づいたオーケストラ音楽である。しかし楊宝元がこのような言い方をしたのは、坂本が作った音楽が「中国音楽」とは思えなかったからだろう。この証言に接した時の私の感想は、「やはり」というものだった。

私は大学の授業で中国の近現代史をおさらいするため、毎年のように『ラストエンペラー』を見ている。どの場面でどのような音楽が出てくるかを大体わかっているが、たとえ二胡や琵琶を用いていても、それらが「中国音楽」であるとはとうてい思えなかった。

今風に言えば、それらは「なんちゃって中華」の音楽であり、もっと言ってしまえば「坂本節」のバリエーションの一つなのだった。

二胡を用いた「ラストエンペラーのテーマ」について、インターネット上では、冨田勲作曲のNHK「新日本紀行」のテーマ曲(「オープニング・テーマ~祭の笛」)と似ているとの指摘がよく見られる。これも私にとっては「やはり」というもので、以前から同様に感じていた。

伝統的な中国音楽と日本音楽はいずれも五音音階である。坂本が300年続いた清朝の終焉をイメージした曲は、冨田が日本の農村の原風景を思い描いて書いた曲と、結果的に似てしまった。もしかすると日本人が「ラストエンペラーのテーマ」を好むのは、それにどこか懐かしい響きを感じるからだろうか。

1980年代の日本と中国

坂本龍一がデビューした1970年代末から80年代の日本では、折しも開始された中国の改革開放政策が好意的に受け止められていた。日中戦争に対する贖罪意識もあいまって、官民をあげた「日中友好」が展開された。

『ラストエンペラー』で二胡を担当した姜建華が、訪中した小澤征爾に見出されて世界デビューのきっかけを作ったことはよく知られている。拠点を東京に移したからこそ、姜建華と坂本の縁も生じたのであり、東京はアジアの現代文化のハブとして機能していた。

アジア随一の経済大国として「世界に貢献する日本」でありたいということは、当時の政財界のみならず文化界にも共有されていた。時はNHK「シルクロード」に始まる中国ブームのまっただ中である。

古代以来の中国とのつながりを踏まえつつ、現代の中国文化の発揚に協力することは、日本の文化人にとって一つの使命だった。

坂本はイタリア人のベルトルッチ監督から、「中国が舞台だがヨーロッパ映画」であることを念頭に作曲してほしいと言われていたという。坂本が自らの感性と西洋の作曲技法を用いて、1980年代の東京という場で行なったのは、文字通り東洋と西洋の橋渡しだったのではないか。

この時代とこの場所に生きる日本人だからこそ、可能だったのが『ラストエンペラー』の音楽を作ることだった。それは坂本龍一の音楽であり、中国音楽でも日本音楽でもなかったのである。

榎本泰子(Yasuko Enomoto)
1968年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科で比較文学比較文化を専攻。学術博士。同志社大学言語文化教育研究センター助教授などを経て、現在、中央大学文学部教授。主な著書に『楽人の都・上海──近代中国における西洋音楽の受容』(研文出版、サントリー学芸賞)、『上海──多国籍都市の百年』(中公新書)、『「敦煌」と日本人──シルクロードにたどる戦後の日中関係』(中公選書)などがある。

『アステイオン』99号
 特集:境界を往還する芸術家たち
 公益財団法人サントリー文化財団・アステイオン編集委員会[編]
 CCCメディアハウス[刊]

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「ラストエンペラーのテーマ」

The Last Emperor (Theme)/Ryuichi Sakamoto


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