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「海外在住・日本人作曲家」の起源...故国を離れて初めて日本を「見出した」音楽とは?

ニューズウィーク日本版 2024年2月28日 11時10分

<日本以外に住みながら創作活動を続けるという日本人作曲家のあり方、そのモデルの創始者は誰だったのか? そして、それは音楽に何をもたらしたのか? 『アステイオン』99号特集「境界を往還する芸術家たち」より「ヨーロッパで活動する日本人音楽家」を一部転載> 

クラシック音楽家にとっての「ヨーロッパ」

坂本龍一がニューヨークを拠点にして活動していたように、音楽家のなかには国外に住まいながら創作活動、演奏活動に専念するひとは少なくない。

合衆国生まれの宇多田ヒカルがロンドンに拠点を持っているなどということにまったく違和感を持たないのは、グローバル化が進んだ21世紀の現在ゆえだろうが、坂本の世代以前にはたしてそうした、国外在住の日本人ポピュラー・ミュージック(とあえて言っておく)・アーティストがいたかどうか考えてみたとき、即座には具体的な名に思い至らないことも事実だろう。

なんと言っても英米圏を中心に最新モードが登場してくるポピュラー音楽界では、ロンドンやニューヨーク、そしてかつてとはがらりと変わって非常にアメリカ的になってきたベルリンに住むことが、ミュージシャンたちにとっても刺激と情報を得るには好都合であり、人的な交流がスムーズにいくことは容易に理解できる。

それは、ネット環境やメディアが発達した現在においても変わることがない。

翻って、「ポピュラー」ではない音楽の世界、すなわちシーリアス・ミュージック、あるいはもっと馴染みのあることばで言えばクラシック音楽の世界の日本人音楽家で、国外に住むひとの状況はどうなのだろう? 

それは流行の先端を歩まねばならないポピュラーの世界とはだいぶ様相を異にすることだろうし、そもそも相手にしているのが「クラシック」であるかぎり、「最新の」情報や刺激がどれくらい必要とされるのかどうか、疑問に思う向きもあるだろう。

結論から言えば、それはぜひとも必要だ。というか、国外在住のクラシック音楽家という枠で考えるならば、作曲家よりも演奏家の方が圧倒的に多いわけであるが、彼・彼女らが活動の上でメインに取り組んでいるバロックから近代に到るまでの作品の演奏スタイルは、ここ50年、いや30年でがらりと変わってしまった。

その変成の速度はポピュラー・ミュージック界のスタイル変化にけっして負けていない。またそれは、ポピュラーのように売れる/売れない、流行る/流行らないを実質的な基準や尺度、大きな目標にする新しさとは関係なく生じたことなので、純粋に自律的な変化と言ってもよい。

もちろん消費社会下では、結果的に新しい演奏スタイルが、クラシック界でもその新味ゆえに耳新しく、人気も出て売れるということもあるので、その点で実際の現象だけ見れば両者間に歴然とした差異を見出すのはなかなか難しいのだが、変化を駆動する発端のモティヴェイションがかなり違うのは事実である。

ポピュラー音楽のなかにも懐古的な要素を持つものはあるけれど、それは限られているわけで、絶えず新しい響きやリズムや、近年では聴き手の新たな参加形態などを求めて音楽が変化している。

他方、クラシックの場合はむしろ、作品が作曲された何百年も前のスタイルを再考し、可能な限り復元しようとする研究(いわゆる「古楽」研究を発端とした)のなかから、結果的にここ数十年の新たな演奏様式ができあがってきたという経緯があるのだから。

当然のことながら、クラシック界のこうした変化も、イギリスやオランダといったヨーロッパの国々から始まっており、日本の音楽家たちがそれを「学ぶ」までにはかなりのタイムラグがあった。

そうした情報を感知し技術として習得し、またその習得後もヨーロッパに住み続けて、絶えず新たな刺激を受け続ける必要がある。ことに、HIPと略される「歴史的知識に基づく演奏historically informed performance」が日々更新されている現場にいるような、ソロ活動やアンサンブル活動をしている演奏家には、このことがより的確に当てはまるだろう。

もちろん、現在合衆国ないしヨーロッパのどのオーケストラにも必ずひとりふたりは所属している日本人演奏家たちのすべてが、そうした意識で音楽活動を「国外で」行っているわけではないにしても、モーツァルトやベートーヴェン、ヴァーグナー、マーラーといった作曲家たち(例がドイツ系だけで申し訳ないが、もちろんフランスやイタリア、ロシア等々、他の諸国の作曲家たちを含めて)のオーケストラ作品演奏スタイルの急激な変化も顕著であるわけで、常に最新の刺激と変化の最前線の感触を肌で得ながら、日々の演奏活動を続けられる現場がそこにあることには変わりがない。

「国外」在住の作曲家像

国外で活躍するクラシックの日本人演奏家は、現在けっして珍しい存在ではない。人数の上だけで計るならば、他の芸術ジャンルはまったく及ばないだろう。

しかしながら、オリジナルなもの(作品)を創る音楽家、すなわち作曲家として国外に在住しながら創作活動を行うひとは、それに比べるとはるかに少ない。

そもそも、日本以外に住みながら創作活動を続けるという日本人作曲家のあり方、そのモデルとも言えるものを創始したのは誰なのだろう? 

例えば、かつての山田耕筰のようにドイツに留学し、いくつかの作品を書いて発表はするものの、基本的には帰国して創作活動を続けるというひとが第二次世界大戦以前には多かった。

近年、再評価の高い大澤壽人のように、合衆国とフランスで創作活動を行ったひとも、その期間はさほど長くはなく、また本来の滞在目的は「学び」である。貴志康一のように、最初の留学のあとに、数回ドイツに赴いてはベルリン・フィルを振るなどした作曲家/指揮者の場合も、その期間は非常に限られている。

じっくりと腰を据えて、創作家としての地盤を日本の外に持っていたひとは、第二次世界大戦が終わるまではなかなか見当たらない。戦後になると、国際的な感覚を持っていた邦楽の音楽家も同様の道を歩む。

例えば、生田流箏曲の唯是震一のようにコロンビア大学でヘンリー・カウエルに学び、しばらく合衆国内で活動するものの(ストコフスキーなどとも共演して)、数年後には帰国して日本に本拠を置くようになったひとも出てくる。

すなわち、ヨーロッパ(ないし合衆国)は日本の作曲家たちにとって、まずもって「学びの場」なのである。その意味では、刺激と「最先端」の情報の多いこうした空間は、ヨーロッパ音楽に真摯に取り組もうとする若い才能にとってはなくてはならぬものだろう。

しかしながら、学習期間を終えたのちもその地に留まり、あるいは土地を変えて居残りながら、自分独自の音楽を探究し創っていくひと、それがここで扱おうとする「モデル」である。

そう考えた場合、その初期の顔ぶれとして数名が思い浮かぶ。一柳慧(ニューヨーク)、丹波明、平義久(以上、パリ)、篠原眞(ケルン、ユトレヒトほか)、松下眞一(ハンブルク)といった作曲家たちである。

いずれも1950~60年代に日本を離れたひとびとだが、このなかで、一柳慧は留学期間のあとの滞在期間が他に比べて短いものの、その後の日本国内に与えたインパクトが強く、またあとで触れるように、居場所にこだわらない「国際性」という意味では、新しい形態の創作像のひとつのモデルとなったと言える。

ここに挙げた作曲家たちは、留学時、日本を出国する時点では明らかに欧米の音楽を学ぶという姿勢が強かったにもかかわらず、いずれかの時点で「日本」を見出し「回帰」することになる。あるいは日本と向き合う顕著な要素を創作のなかに採り入れていく。

故国を離れたのちに初めて日本を「見出した」という意味で、彼らは共通している。こうした現象はなにも日本人作曲家に限らず、またこと音楽に限りもしない。

異国の環境に置かれて初めてルーツに目覚めるということは往々にしてあることだ。その意味で、彼らは典型でもあり、またそれは国外で活動する日本人作曲家のあり方のひとつの「モデル」を形作っている。

丹波明はパリの地で『能音楽の構造』という博士論文を書いて博士号を取っているが、「序・破・急」の時間構造と、それを採り入れた能楽の構造を、西洋音楽の時間構造のなかに組み込むことによって、東西どちらにも与さない独特の作品を創り上げているし、平はもう少し抽象的ながら、日本的な「間」の感性に惹かれつつ、それを響きの余韻や音色の趣味のなかに採り入れていった。

パリのメシアンのクラスにおいても、ケルンにおける電子音楽の創作においても卓越した才能を披瀝していた、まさにヨーロッパ前衛の一旗手とも言える篠原も、1972年の作品《たゆたい》から「和と洋の音楽的融合」という課題を自らに課すことになった。

ハンブルク大学で位相幾何学(トポロジー)を講じる教授職にあった松下も、哲学や物理学にまたがった難解な時間論を書きながら、立正佼成会の委嘱で、ライフワークとも言える巨大なカンタータ作品《仏陀》を書き続けた。

こうした「日本回帰」ないし「日本への視線」は、アイデンティティについての自己認識から来る場合がほとんどだろうが、そのアイデンティティの確立自体が、周囲の環境に制されながら発することもまた自明のことだ。

日本のなかにいるだけならば気がつかない、あるいは気がつく必要もないものに、外界に出ることによって否応なく気づいてしまう。自と他の異が顕著ななかで、なんらかのオリジナリティを求められて、自分本来のものを見つめ直す契機から、日本回帰は生じる。それはときに「強制」と感じられることもあるだろう。

例えば、周囲が彼・彼女に求めるもの、周囲が自己と異なったものとして他者としての「私」に求めるもの、それは区別でも差別でもあり得るが、自己にはないものを他者に求めるというのは、あるいみ自然の成り行きであろうから、そうした環境のなかで日本について考えざるを得なくなる状況というのは当然生じてくる。

他者は(教師も作曲家も聴衆も)、日本人に自分と同じものを求めていないのである。

長木誠司(Seiji Choki)
1958年生まれ。東京大学文学部卒業後、東京藝術大学大学院博士課程修了。博士(音楽学)。東邦音楽大学・同短期大学助教授、東京大学大学院総合文化研究科教授等を歴任。オペラおよび近現代の音楽を多方面より研究。著書に『前衛音楽の漂流者たち』(筑摩書房)、『フェッルッチョ・ブゾーニ』(みすず書房、吉田秀和賞)、『オペラの20世紀』(平凡社、芸術選奨評論等部門受賞)など多数。紫綬褒章受章。

『アステイオン』99号
 特集:境界を往還する芸術家たち
 公益財団法人サントリー文化財団・アステイオン編集委員会[編]
 CCCメディアハウス[刊]

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