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「ボストンを変えた」交響楽団に音楽監督として乗り込んだ小澤征爾が打ち破った上流社会の伝統

ニューズウィーク日本版 2024年2月28日 18時20分

<ボストン・レッドソックスの熱狂的なファンとして、誰にでも心を開いた気さくなマエストロがアメリカのこの地で成し遂げたこと>

小澤征爾の訃報を受け、深い悲しみに沈む今のボストンは、1973年に小澤がこの街の誇るボストン交響楽団の新任音楽監督として乗り込んだ当時とは、まるで趣を異にする。

筆者が生まれ育ったこの街の人々は、小澤を愛した。ハッピーで自由気まま、あふれる活力でこの街を包んだ小澤を......。

地元の大リーグ球団ボストン・レッドソックスの熱狂的なファンで、7月4日の独立記念日に行われる無料コンサートでは、球団のユニフォームを着て、往年の名打者カール・ヤストレムスキーと並んでお祭り気分を盛り上げた小澤。

そんな指揮者をこの街の人たちが好きにならないわけがない。だがそれ以上に、小澤にはボストンっ子に愛される理由があった。

彼はこの街を変えたのだ。それも人々の理想に近い形に。

小澤はボストン文化の堅苦しい一面にとらわれず、持ち前の温かな人柄とほとばしる情熱で人々に接し、この街に溶け込んだ。

相手が誰だろうと──ボストンの高級住宅地ビーコンヒルに住む気取ったプロテスタントだろうと、市南部の労働者地区出身のアイルランド系カトリック教徒だろうと、彼は意に介さない。

いつだってオープンマインド。古い因縁や慣習などお構いなしだ。

ボストン交響楽団の音楽監督を務めた29年間で、小澤はこの街のアイデンティティーの一部となった。

02年にここをたってから20年余りが過ぎた今も、それは変わらない。

小澤が就任する少し前の60年代、ボストン交響楽団はボストン大学美術応用芸術大学院とニューイングランド音楽院の院生たちが名演奏に親しめるよう、マチネ公演のチケットを格安料金で提供していた。

後に指揮者、オペラ歌手となった私の叔父と叔母はよく授業をさぼっては市内のシンフォニー・ホールのバルコニー席に陣取ったものだ。

公演は午後3時頃に始まるが、毎回はるか下のステージでボストン交響楽団が演奏している最中にバルコニー席の裕福なマダムたちが1人また1人と立ち上がり、玄関ホールで待つ運転手の元へと平然と去っていく。

高級ホテルでのお茶会に向かうか、自宅でお茶会を開くためだ。

当時の音楽監督だった厳格なオーストリア人指揮者、エーリヒ・ラインスドルフは指揮棒を振りつつ、演奏中に席を立つ無礼な客たちにちらりと冷たい視線を送るが、マダムたちは悪びれる様子もなく堂々と立ち去る。

ボストン社会のヒエラルキーには何者も逆らえないのだ。

修業時代の1960年、ブラジル人指揮者のエレアザール・デ・カルバーリョ(右)が見守るなか、リハーサルでタングルウッド音楽センターのオーケストラを指揮 PHOTOGRAPH BY HEINZ WEISSENSTEIN/WHITESTONE PHOTO, COURTESY OF THE BSO ARCHIVES

小澤がボストン交響楽団との初公演でベルリオーズの「ファウストの劫罰(ごうばつ)」(過去最高の名演とも評される)を振るため、73年9月にやって来た当時のボストンは、まさに堅苦しい伝統に凝り固まった街だった。

小澤は席を立つマダムたちがボストン交響楽団の財政的なパトロンであることなど気にも留めなかった。

タキシードの代わりにタートルネックのセーターを着て、ビーズのネックレスを着けた彼は、控えめに言っても不遜な「慣習の破壊者」に見えた。

ボストンと上流社会の長年の伝統を打ち破る新世代の一員。髪はボサボサで、無頓着で放埓、かつ大胆な独立不覊(ふき)の男という印象を与えた。

「上流階級の街」ボストンに新風

ボストン交響楽団の音楽監督就任10周年の記念公演を控えたリハーサル(82年) BETTMANN/GETTY IMAGES

指揮台に立った小澤は雄弁な身ぶりで聴衆を引き付けた。

クラシック音楽を全く知らない人でさえ、その指揮ぶりには魅了され楽しくなる。

世界的なチェロ奏者のヨーヨー・マは、後に「ジェスチャーで音楽を表現できる磁力」を持つと評した。

大げさなまでの身ぶりの指揮はシンフォニー・ホールに新風を吹き込んだ。

彼は明らかにボストンのお高く止まった上流階級の一員ではなかった。

もちろん、この街を変えたのは小澤だけではない。

当時、近郊のハーバード大学ではベトナム戦争に抗議する学生たちがキャンパスを占拠していたし、市内では毎夏のように人種暴動が起き、街の一部が炎に包まれた。

当時の若者、つまり46~64年生まれのベビーブーム世代はあらゆる慣習に異議を唱え、公民権運動やフェミニズム運動の旗を振った。

そして大企業の経営陣や大学当局、さらには音楽の殿堂の守り手たちまで、あらゆる権威にノーを突き付けた。

ボストン交響楽団は古いボストンの一部、高尚な趣味と富の要塞の仲介役であり、妙な潔癖さに凝り固まって面白みのない存在になっていた。

そこに飛び込んで来たのが外国人、それもアジア人の小澤だ。

彼は傲慢にも西欧文明の伝統的かつ保守的な音楽の殿堂を率いるというのだ。

それは前代未聞の事態だった。

緑豊かなタングルウッドに立つセイジ・オザワ・ホールの前でクラシックを楽しむ人々 HILARY SCOTT, COURTESY OF THE BSO

小澤は臆することなく交響曲を指揮し、時には伝統的な解釈から離れることもあった。

当然、批評家は小澤を生意気で薄っぺらな若造呼ばわりした。

バッハやベートーベンをこんなふうに解釈するのは邪道だと、彼らは決め付けた。

ヨーロッパの偉大な巨匠、つまり白人の巨匠の音楽はアジア人には分からない、と。

だが小澤の時代には、そんな偏見はもはや通用しなかった。

小澤は彼の師匠の1人、指揮者レナード・バーンスタインがニューヨークでやってのけたように、クラシックをボストンの「新しい」聴衆に親しまれる音楽にした。

ニューヨークとボストンだけでない。小澤とバーンスタインは世界中でそれを実現した。

小澤は芸術家気取りとは全く無縁で、生きる喜びを全身にあふれさせながら、この偉業を成し遂げた。

彼は地元の住民の誰にも負けない筋金入りのレッドソックス・ファンだった。

球団のキャップをかぶり、学校を訪れて子供たちの合唱を指揮し、若手音楽家の育成に尽力した。

一部の批判をものともせず、ボストンの西のバークシャー山地にあるボストン交響楽団の夏の本拠地タングルウッドで若手を指導し、演奏経験を積ませて技術水準を上げようと努めた。

ビーコンヒルの住民だけでなく、ボストンの全ての市民にとって、クラシック音楽がより身近なものになったのは彼のおかげだ。

彼は今のボストンを、そしてアメリカを形づくった先駆者たちの1人でもある。

階層の壁が崩れつつあり、多様な文化が花開き、誰もがどこにでも、そう、芸術の殿堂にも大手を振って入れる──ボストンをそんな街にしてくれた小澤を人々は決して忘れない。

<本誌2024年3月5日号掲載>

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