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独占インタビュー:師弟関係にあった佐渡裕が語る、「小澤先生が教えてくれたこと」

ニューズウィーク日本版 2024年3月2日 11時48分

<小学生の頃に見た『オーケストラがやって来た』から、米タングルウッド音楽祭で受けた指導、年齢と共に成熟していった指揮......佐渡だけが知る師匠・小澤征爾とは。好評発売中の本誌「世界が愛した小澤征爾」特集より>

今年2月、小澤征爾先生の訃報に接してから初めて臨む演奏会は、私が音楽監督を務めるウィーンのトーンキュンストラー管弦楽団による、ブルックナー作曲の「交響曲第7番」でした。

この曲は、ブルックナーが大変に尊敬していたワーグナーの体調が悪いことを知って書き進められました。作曲中にワーグナーが亡くなると、その悲しみのなかで加筆がなされた交響曲です。

小澤先生の死後初めて指揮するのが、よりによって葬送の曲だなんて。もちろん曲目は事前に決まっていたので偶然ですが、小澤先生への思いが込み上げてきました。

第1楽章の幸福感に満ちあふれた冒頭部から、第2楽章の葬送音楽を経て、第3楽章で宇宙的な音楽の間に挟まれるトリオは、子守歌のように美しい音楽です。安らかにお眠りくださいという音楽のように聞こえてくる。やがて第4楽章の最後まで大きな一つの虹のようにつながっていく──。小澤先生も縁の深いウィーン楽友協会ホールでこの曲を指揮しながら、私は先生との出会いの日々を少しずつ思い出していました。

私が小学5年生の秋、テレビ番組『オーケストラがやって来た』の放送が開始されます。山本直純さんの司会で、小澤先生率いる新日本フィルが何度となく出演していました。毎週日曜日の午後、とても楽しみにこの番組を見ていました。クラシックに夢中だった小学生にとって、小澤先生は憧れの的だったのです。

初めて小澤先生が指揮する生演奏を聴いたのは、1975年6月10日。サンフランシスコ交響楽団の京都会館での来日公演です。私は中学2年生でした。指揮者は通常、舞台の下手(舞台に向かって左側)から出てくるものですが、このとき長髪の小澤先生は右側から小走りで出てきて指揮台に立ちました。格好はえんび服ではなく、森英恵さんデザインの白いジャケットにタートルネックでネックレス姿。ここで度肝を抜かれました。ああ、格好いい! と。

アイブスの「夕暮れのセントラルパーク」、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第27番」に続いて、最後に演奏されたのがドボルザークの「交響曲第9番」(新世界より)でした。「家路」で知られる第2楽章の演奏は今でも耳に残っています。テレビでしか見たことのない小澤先生を生で見られて、私は興奮していました。思わず、終演後に楽屋に立ち寄って、サインをもらっていました。

その後京都芸大に在学中には、小澤先生指揮のボストン交響楽団の関西公演を見に行きました。既に指揮者を志していたこの頃の自分にとって、先生はますます雲の上の存在でした。

2009年1月、ウィーン楽友協会ホールで伝統的なウィーン・フィル舞踏会を指揮する小澤 AP/AFLO

大学を出て26歳になった私は、とにかく棒を振って飯を食っていくというのが最大の目標でした。しかし、名古屋フィルの副指揮者のオーディションに出願したものの、2度とも最後まで残って落選。そんなときに、ボストン交響楽団が夏の活動拠点にしている「タングルウッド音楽祭」のオーディションに応募したのです。

どこかで海外に出たいという気持ちはありました。「宝くじは買わないと当たらないし」という軽い気持ちで書類を出したんです。しかし私は大学ではフルート専攻で、有名な指揮の先生に師事していたわけでもない。普通の方法ではとても書類選考で目に留まらないだろうと、ドボルザーク「交響曲第8番」を大阪大学の学生オケで指揮した際のリハーサルのビデオを、書類に同封して送りました。

ところがこれが吉と出た。当時はビデオはまだ普及していなかったので、タングルウッドの事務局長が珍しがったんですね。妙な日本人がいる、これはセイジに見せなきゃ、と思ったらしいんです。小澤先生がヨーロッパから空港に着いたばかりのところへ事務局長がビデオプレーヤーを持参し、その場でそのビデオを小澤先生に見せた。それで、こいつは面白い、採ろう、ということになったようです。

楽屋で聞いた言葉に号泣

とはいえ、ここに集まってくるのはコンクールの優勝経験者や私より若い連中がいっぱいいる。とても最後まで残れるとは思っていませんでした。奨学金をもらえるフェローシップに入れるのは3人から4人、応募してくるのは何百という単位です。

ところが1次、2次審査とポンポンと通過し、最終審査はボストン・シンフォニー・ホールで小澤先生の前でストラビンスキーの「兵士の物語」を振りました。

頻繁に拍子が変わる曲なんですが、私のハッタリをかます性格がこの大事な本番で強烈に出てしまいました。あの小澤征爾の前で指揮できるというので、楽譜を持っていかず、暗譜で振ったんです。

しかし、見事に振り間違えた。

ばかだなあ、俺......と、演奏終了後、楽屋で落ち込んでいました。すると、小澤先生がフラッと楽屋に入ってこられて、こうおっしゃった。

「あんた、面白いっすよ」

私は不覚にも号泣してしまいました。悔しさと、うれしさの入り交じったような気持ちです。もう少し何か話をした気がしますが、その言葉以外は覚えていません。

結局最終審査に合格し、6週間にわたるキャンプが始まりました。小澤先生や(レナード・)バーンスタインから直接指導を受けられることになったのです。

2023年4月に新日本フィルの第5代音楽監督に就任した佐渡裕 ©PETER RIGAUD C/O SHOTVIEW ARTISTS.

タングルウッドのオーケストラで練習しているところに、小澤先生が見学に来られた日のことは忘れられません。ラベルの曲だったと思うんですが、私は一生懸命下手な英語で「ここはこうしてくれ」とか「ああしてくれ」と楽団員に指示していたんですね。すると、終わってから舞台の裏に来られた小澤先生に、激しいけんまくでこう言われました。

「お前はその指揮で音楽を示せ!」

言葉ではなく、腕と身体で音楽を示せということなんですね。役者じゃないんだから、しゃべる必要なんてない。練習では、無意味な話をする必要など全くない。重心を低くして、もっと低い腰の位置で指揮しなきゃいけないと。

年数と共に成熟していった

練習の後、ご自宅に誘われました。まだ15歳だった娘の征良(せいら)ちゃんと一緒に、トラックのようなゴツい車に乗せられてご自宅に行きました。

お茶を入れていただいて、「あんたいま何してんの?」と尋ねられました。当時、日本での私は、アマチュアの学生オーケストラや高校の吹奏楽部の指揮、あるいはママさんコーラスの指揮をいくつも掛け持ちし、多い日は1日4カ所で振っていた。そこそこ収入はあります──そう話をしたら、小澤先生にこう一喝されました。

「あんたねぇ、ばかじゃなかったら、いま親のすねかじってでも勉強しなきゃ駄目でしょ。全てやめて留学しなさい」

その後、先生のアドバイスどおりウィーンに留学することになりますが、その前に1年弱、小澤先生が日本に帰られているときは勉強させてもらうことになりました。

新日本フィルのアシスタントコンダクターとして、オルフの「カルミナ・ブラーナ」やオペラ「サロメ」などのプロジェクトに参加しました。

桐朋学園の指揮クラスを先生が教えられるときには見学させてもらいました。桐朋学園は、小澤先生の師匠である齋藤秀雄氏の指揮法の総本山です。学生たちは一生懸命齋藤メソッドで厳格に指揮棒を振る練習をしています。正直なところ、それ自体には私は興味は持てませんでした。ある日、小澤先生が「佐渡君ちょっと振ってごらん」って言われて、学生たちの前でベートーベン「交響曲第2番」の冒頭を振りました。すると先生はこうおっしゃった。

「こいつはさぁ、汚い棒振るんだけど、いい音するんだよね」

もはや褒められてないのは分かっているのですが、それが自分のスタイルかなぁとは思い定めました。

当時の私とは違って、小澤先生は指揮棒を扱うことがものすごくうまかった。こんなにも正確にきびきびとオーケストラが仕上がるということに、アメリカでもヨーロッパでも、「小澤征爾」の登場は驚きの出来事だったと思います。

しかし小澤先生の指揮の姿は、その後大きく変化していきます。ウィーン国立歌劇場の音楽監督になられた頃から、指揮棒を持たなくなった。よくオーケストラの音を聴くようになった。あるいは、オーケストラをもっと自由に解放するようになられた。年齢と共に成熟していく過程を見てきた気がします。

最後は、オーケストラにやらせ、それを自分が聴くという境地に達したのではないか。そうなってくると、オーケストラのみんなが瞬時にしてテンポを感じて、ニュアンスを感じ、どういうリズムとスピードが適切かを判断するようになります。

先生には指揮の技術とは別に、音楽に対する強烈な情熱がありました。嫌なこともきっとあっただろうけど、どこに行っても人を楽しませて、おちゃめでいたずら好きで、いろんな文化や風習の違う国々を渡り歩いていくたくましさを持つ人でした。

最後まで挑戦を忘れなかった

かつてはN響と対立して楽団員にボイコットされるほどの衝突もありました。ぼろっと一回だけ「若い頃、自分はやっぱりつけ上がっていた。すごいショックだったけど、それは大きな勉強になった」というふうにおっしゃっていました。

小澤先生に1年間指導を受けた後、私はウィーンに留学し、89年にブザンソンの指揮者コンクールで優勝し、フランスを中心に仕事を始めていくことになります。その頃、小澤先生にこう言われました。「ヨーロッパで活動していくんだったら、ドイツのオーケストラを指揮しなさい」

どんなに小さくて未熟なオーケストラでもいいから、振りなさいとおっしゃるのです。ドイツ人のオーケストラ社会というのは、1日目の練習、2日目の練習で何をして、3日目の練習で何をつくってどう本番に持っていくか、そのプロセスが大事なんですね。楽団員が納得していなかったら、なかなか「ヤー(はい)」とは言わないんです。でもヤーって言ったら本当に、みんなで考えていたことを実行してくれる。

だからドイツのオーケストラは、ずっしりしているんだけれど、なにか跳ね上がっていて、輝いている。後にベルリン・フィルでも指揮することになりましたが、小澤先生が何を伝えたかったかが、今はよく分かります。

その後、留学を経て私が31歳で新日本フィルの指揮者グループの一人に選んでいただいたのも、「佐渡に指揮をやらせろ」という小澤先生の強い推薦があったからです。

新日本フィルで、私はベートーベンの第九を任されてサントリーホールで練習していました。最後の本番前のリハーサルで、オーケストラがやけに緊張していて、どうもムードが違う。途中で、客席にいる誰かに合唱とオーケストラの音のバランスを聞こうと思って、指揮をしながら振り返って「バランスどおぉー?」って叫んだら、「オッケーです!」と大声で返事をしてくれた人がいた。なんとそれは、手で大きく丸を作った小澤先生だったんです。

こうした逸話は、先生に関わった人は誰もが持っていると思います。

小澤先生がウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任されたのは2002年、67歳のときのことです。決して先生が得意とはいえなかったオペラという分野です。しかも先生はドイツ語はすごく苦手だったはず。政治力が渦巻く歌劇場で、オーケストラだけで200人、合唱団や熟練のスタッフや歌手や演出家と舞台をつくっていくのは、いくら小澤先生でも覚悟のいることだったでしょう。最後まで挑戦を忘れなかった小澤先生には、敬服の思いしかありません。

私は昨年4月、小澤先生が約50年前に創設した新日本フィルの音楽監督に就任しました。小学生のときから憧れていた小澤先生のオーケストラを引き継ぐ──これも運命だと思っています。(構成・本誌編集部)

◇ ◇ ◇

佐渡 裕(指揮者)

京都市立芸術大学卒業。1987年、米タングルウッド音楽祭に参加。その後、故レナード・バーンスタイン、小澤征爾らに師事。1989年、新進指揮者の登竜門として権威あるブザンソン国際指揮者コンクールで優勝。2015年よりオーストリアで110年以上の歴史を持つウィーンのトーンキュンストラー管弦楽団の音楽監督を務め、2023年4月より新日本フィルハーモニー交響楽団第5代音楽監督に就任。テレビ番組『題名のない音楽会』の司会を2008年から7年半務めた。

小澤征爾最後の指揮は宇宙に配信された(2022年)
ONE EARTH MISSION - Unite with Music 小澤征爾/SKO&JAXA 共同企画

小澤征爾が公の場で最後に指揮したのは、2022年11月23日。サイトウ・キネン・オーケストラを4年ぶりに指揮し、国際宇宙ステーション(ISS)の若田光一宇宙飛行士に向け、ベートーヴェンの「エグモント序曲」の演奏をライブ配信した。宇宙へのオーケストラ演奏のライブ配信は史上初だった。



佐渡 裕(指揮者)

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