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なぜ台湾・金門島周辺で中国「漁民」の転覆事故が続くのか? 歴史で読み解く「金門・日本有事」

ニューズウィーク日本版 2024年3月16日 12時11分

<中台が対峙する最前線の島・金門島周辺の海域で、中国漁船の転覆事故が立て続けに起き、緊張が高まっている。歴史から読み解く「金門有事」と「日本有事」>

台湾と中国が対峙し合う最前線の金門は今、「本日天気晴天なれども、波高し」のごとき緊張感に包まれている。両者の対立の歴史的背景について、述べてみたい。

盧溝橋と金門の猛将

およそ戦争は、その前夜段階では双方が挑発し合い、相手が先に矢を引くよう仕掛ける。金門島をめぐる対戦にもこのような因縁の一面があり、日本とも無関係ではない。1937年7月7日夜11時。北平(北京)郊外の盧溝橋近くで演習中の日本軍の兵士1人が行方不明になった、と日本側は主張した。かのマルコポーロも通過した橋には無数の獅子の彫刻があり、日中双方のにらみ合いを傍観していたようだった。

結局、日中のどちらが先に引き金を引いたはまだ論争中だが、中国軍を率いていた吉星文団長(連隊長)は果敢に抵抗した。いわゆる「シナ事変」で、中国は国共両党とも「七・七事変」と呼ぶ。吉星文団長はその後も戦い続け、順調に出世した。国民政府が台湾に渡った後は、国防大学で研修を経て、常勝将軍として金門防衛部副司令官として赴任した。金門をはじめ、台湾西部の海岸線沿いの防衛陣地の構築に当たっていたのは、かつて吉星文副司令官の好敵手だった、退役した日本軍将校たちであった。

1958年8月23日夕方6時30分。金門島太武山麓にある翠谷水上レストランに向かっていた吉星文副司令官の車列に突然、対岸のアモイ(厦門)方面から砲弾が飛んできた。吉星文を含む3名の副司令官が殉職、国防部長も負傷した。内部にいた「共諜」すなわち中国軍のスパイが実に精確な情報を大陸側にリアルタイムで伝え、移動のルートや集まる場所などすべてが敵側に筒抜けだった。ここから「八・二三金門砲撃戦」は始まり、10月まで続いた。毎日のように「砲弾の雨が降って」着地したので、地元の住民はそれを拾って包丁に作り直したというほどである。今でも、金門包丁は観光客に喜ばれる土産物になっている。

当時の中国は人民公社という公有化制度を導入し、餓死者が続出し、人民の不満は頂点に達していた。その不満から目をそらす目的も兼ねて、毛沢東はソ連のフルシチョフ書記長の支持を取り付けて砲撃を始めた。毛の脳裏には「台湾解放」という夢もあったが、アメリカの圧力が顕著になると、第三次世界大戦の勃発を危惧したソ連が北京に砲撃を中止させたと見られている。毛の人民解放軍は1949年以降に何回か上陸を試みたが、その都度、撃退された。それほど弱かったのである。

偽物の「漁民」と「水鬼」

「時代は変わった」と、習近平主席は過去の中国よりも現在の方がはるかに強いと確信しているらしい。2月14日、金門島海域に中国の「漁船」が侵入し、台湾の海上警察である海巡署の警備艇の取り締まりから逃げようとして転覆し、「漁民」2人が死亡。正直な中国のSNSでは一時、2人は「漁民」ではなく「愛国青年」だったと暴露していたが、瞬時に削除された。3月14日朝にも同じような衝突が起こり、また中国の「漁民」2人が溺死している。泳げない「漁民」がこんなにも多く海に登場してくる現象はどう見ても不自然である。

私は2019年冬に金門島に駐屯していた元将兵たちと共に現地入りし、数日間過ごし、各地を回った。地元の有力者らによると、金門と中国の漁民が対立し合うことはまずないという。互いに親戚同士であり、出自と血筋を重視する古い伝統も維持されているので、平穏な付き合いをしているそうである。

ただし軍隊は別で、金門島とアモイ方面に駐屯している兵士はすべて現地人ではなく、遠い地域からの者ばかりである。彼らは深夜に海を渡って歩哨を殺害し、耳か鼻を切り落として持ち帰って「軍功」を建てる。こうした「勇敢」な兵士は「水鬼」と呼ばれ、歩哨に立つ青年が一番恐れる存在だった。ここ最近、「水鬼」は目立たなくなり、代わりに挑発する「漁民」が出現したようである。「わが国の善良なる漁民が殺害された」と、国内の好戦的なナショナリズムが醸成されれば、習近平の人民解放軍は金門島に雪崩れ込むだろう。吉星文連隊長が生きていたら、盧溝橋事件を思い出すに違いない。

金門は風の強い島だ。季節風の猛威や悪魔の邪視から漁師や島民を守ってくれる聖なる存在は獅子で、地元では「風獅子」「風獅爺」と呼んでいる。私の推察だが、この風獅子は沖縄のシーサー(獅子)ともルーツを同じくしているのではないか。そういう意味で、金門は文化的にも古くから日本列島との共通点を有している。金門有事は台湾有事で、同様に日本有事でもある


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