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日本発祥の年末恒例「第九コンサート」はウィーンでも行なわれるようになった...芸術の活力は「境界」から生まれる

ニューズウィーク日本版 2024年4月3日 11時10分

<自己と他者という「境界」を越境し、対流することで新しい創造が生まれる...。「芸術には国境がない」を改めて考える> 

※【前編】世界から日本に帰還する美術、しづらい音楽、世界に溶け込む盆踊り...「二極的アイデンティティ」を超越する芸術の潜在力について から続く。

論壇誌『アステイオン』99号の特集「境界を往還する芸術家たち」をテーマに、1月に行われたエリス俊子氏(名古屋外国語大学教授)、長木誠司氏(東京大学名誉教授、音楽評論家)、三浦篤氏(大原美術館館長、東京大学名誉教授)とアステイオン編集委員の張競氏(明治大学教授)による座談会より。本編は後編。

◇ ◇ ◇

張 芸術の越境について考えるときに私が強く意識しているのは、「芸術には国境がない」という言葉です。

この言葉が芸術の普遍性を表現していると思うのですが、しかし裏返して言えば、この言葉には西洋中心主義が潜んでいるようにも思います。この点について長木先生、いかがでしょうか。

長木 基本的に芸術がそれ単独で流入してくることはありませんよね。植民地化や帝国主義に伴って、まず教会が来て、その後、政治や軍隊が来る。そういう形でヨーロッパが世界を侵略していく中で、西洋音楽がいわゆる権力者の音楽として押しつけられてきたという点はありました。

ただ、日本の場合は押しつけではない。いわば自主的に明治政府が西洋音楽を選択したところがあり、これは一種の発信だったのではないでしょうか。同じように西洋音楽を受け入れた場所の中では、日本はやや特殊かなというふうに思います。

張 世界に複数の文化がある以上、文化の間にはどうしても権力構造が生じます。西洋の芸術、東洋の芸術というように特定の文化地域と結びつけたときに、やはり無意識のうちに我々は上下関係を見出してしまう傾向がありますよね。

長木 日本では年末に第九を演奏しますよね。これは日本の伝統なんですよ。実は、ヨーロッパにはそういう伝統はなく、日本では、諸説ありますが、1960年代ぐらいから始まっている。

でも、これを日本だけの伝統だったと思っていたら、近年、ウィーンでは年末に第九を演奏しているんです。これは要するに逆方向の文化の流れです。

つまり、文化の伝播は一方向だけと思われてきたし、帝国主義も押しつけられるものと考えられてきたけれども、まさに「還流」と呼べるような、お互いに発信し合う事例が見られるのが現代だとも言えます。

張 音楽にもある意味で「還流」があったと言えますね。近年の日本文化について、世界ではどのように受け入れられていると考えておられますか。

長木 絵画や音楽とは異なり、伝統的ではない日本文化ではありますが、漫画やアニメは日本のものとしてオリジナルな西洋文化に入っていっている。これらは、必ずしもルーツやオーセンティシティを考えない、あるいは考える必要がないということで、ポストコロニアルの時代の一種の戦略にもなっていると思います。

張 美術においては、日本からの発信や日本を参照することが重要だとされている分野はありますか、三浦先生。

三浦 今、フランスで日本の文化で正当に評価されているものの1つに建築があると思います。

例えば隈研吾さん、坂茂さん、妹島和世さんは、フランスでも大活躍されていて非常に評価が高い。漫画、アニメも大変評価が高いですよね。

ただし、ジャポニスムのように、エキゾチックな形で日本に向かうというスタンスではなくて、面白いから、刺激的だから評価され、取り入れられている。

張 エキゾチシズムやオリエンタリズムを超えて、芸術が正当に評価される世界になりつつあるということですね。いわば文化的な境界が消失しつつあるということでしょうか。

三浦 確かに、これは「国境がない」とも言えますが、ある意味では平準化の方向に行きつつあるようにも感じられる。パラドキシカルではありますが、芸術には国境はないかもしれないけど、もしかしたら境界は必要かもしれないというようなことも考えます。

張 確かに、「境界を往還する」という言葉には「バリアを克服する」というニュアンスがあるかと思います。でも、境界があるからこそ、越境によって新しい創造が生まれるという面もありますね。エリス先生はいかがでしょうか。

エリス その通りだと思います。たとえば、オリエンタリズムは大きな境界の設定だったわけですが、長木先生の論考を拝読して、細川俊夫さんの場合のように、オリエンタリズムが一概にネガティブなものではなく、非常にクリエイティブな活動源・活力源にもなっているんだということを感じました。

それから、ウォント盛香織先生が「多人種化する日系アメリカ人作家」で示されたように、日系人であるというマイノリティー性が境界を再編成していく力にもなる。そして、その境界が制約であると同時にクリエイティビティの源にもなる。

ですから、様々な形で境界の壁にぶち当たったときに起こる一種の化学反応が非常に大きなポテンシャルを持っていると思います。

三浦 そうですね。境界あってこそのクリエーションというか、それがなくなると芸術的な豊かさもそがれるという一種のパラドックスがある。だから、往還も越境もあるのは当然だけど、境界をなくす方向で均質化していくことには違和感を覚えます。

エリス 私は今、世界教養学部というところに所属していますが、「グローバル教養」でも「国際教養」でもなくて、「世界教養」であることに意味があります。

というのも、グローバル化される世界には一元的な圧力が働いていて、いい意味で風通しはよくなりますが、平準化が進んでいく。それに対して、世界教養学部というとき、「世界」という言葉には多様性が込められています。

多様性を意識化していかないと非常につまらない、ある意味では恐ろしい、規範がどんどん同一化されていく地球になってしまうという危機感がありますね。

張 文化の平準化が進んでいくことに対する危機感をお示しいただきました。長木先生はいかがですか。

長木 このような平準化の先に、文化的な差異が消失してしまうのか、オーセンティシティやオリジナリティ、あるいはアイデンティティが本当になくなってしまうのかどうかは、まだわからないところです。

平準化は進行するでしょうけど、壁が壊れると別のところに壁ができるような気もします。

そして、どこかには必ずマイノリティの人たちがいて、その人たちはやはり常に壁を感じているからこそ、彼らの発言がどこかに壁をつくり、それがまた他とは異なって、際立って見えてくるのではないでしょうか。

張 マイノリティによる芸術活動が大きな可能性を持つということですね。エリス先生からもご意見をいただければと思います。

左より三浦 篤氏、長木誠司氏、エリス俊子氏、張 競氏

エリス マジョリティによる規範には潜在的な暴力性があります。そのなかで、どうにか平準化・均質化に抵抗することが多様性を生み出し続ける。その意味では、境界というのはなくなってはいけないと考えています。

三浦雅士さんも「越境とは何か」のなかで、普遍的な空間はないということをはっきりとおっしゃっていました。

自己とは常に他者から生まれるのであるから、他者がいないとそもそも文化も生まれない、越境とは、つまるところ自己という他者への越境であると。自分を発見しつつ、そこで新しいものが生まれていくのだ、ということでした。境界について、どこまでも問い続けていく必要がありますね。

張 境界があるというのは、言い換えれば差異とか多様性があるということなんですよね。越境によって様々な対流が起きていて、それが新たな創造につながります。その意味では、境界の存在自体は悪いことではないと思います。

グローバル化が急速に進んだ時代においても、実は同時にもう1つの動きはあるというふうに指摘されています。これがローカル化ですね。その意味では、そもそも境界というものはこれからも消えることはなく、むしろ境界があるからこそ芸術に新しい活力が生まれるのではないかと思います。

本日はみなさんありがとうございました。

エリス俊子(Toshiko Ellis)
名古屋外国語大学教授、東京大学名誉教授。1956年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科比較文学比較文化博士課程満期退学。Ph.D. (オーストラリア、モナシュ大学)。東京大学大学院総合文化研究科教授などを経て、現職。専門は比較文学、日本近代文学。著書に『萩原朔太郎』(沖積舎)、『越境する想像力』(共著、人文書院)、Pacific Insularity(共著、立教大学出版会)など。

長木誠司(Seiji Choki)
東京大学名誉教授、音楽評論家。1958年生まれ。東京大学文学部卒業後、東京藝術大学大学院博士課程修了。博士(音楽学)。東邦音楽大学・同短期大学助教授、東京大学大学院総合文化研究科教授等を歴任。オペラおよび近現代の音楽を多方面より研究。著書に『前衛音楽の漂流者たち』(筑摩書房)、『フェッルッチョ・ブゾーニ』(みすず書房、吉田秀和賞)、『オペラの20世紀』(平凡社、芸術選奨評論等部門受賞)など。

三浦 篤(Atsushi Miura)
大原美術館館長、東京大学名誉教授。1957年生まれ。東京大学教養学部教養学科フランス科卒業。同大学大学院美術史学博士課程中退。パリ第4大学美術考古学研究所で学び、博士号取得。東京大学教養学部助教授、同総合文化研究科教授を経て、現職。専門は西洋近代美術史、日仏美術交流史。著書に『近代芸術家の表象』(東京大学出版会、サントリー学芸賞)、『移り棲む美術』(名古屋大学出版会、芸術選奨評論等部門文部科学大臣賞)など。

張 競(Kyo Cho)
アステイオン編集委員・明治大学教授。1953年上海生まれ。華東師範大学卒業、同大学助手を経て1985年に来日。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。著書に『海を越える日本文学』(筑摩書房)、『異文化理解の落とし穴』(岩波書店)、『詩文往還』(日本経済新聞出版)など。

『アステイオン』99号
 特集:境界を往還する芸術家たち
 公益財団法人サントリー文化財団・アステイオン編集委員会[編]
 CCCメディアハウス[刊]

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