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テロ実行犯への同情はなぜ起きるのか?...「五・一五事件」に見る、メディアが拡散した「大衆の願うヒーロー像」

ニューズウィーク日本版 2024年4月10日 11時5分

<「五・一五事件」の被告への同情と減刑嘆願運動は事件から1年後だった。そこには被告に「滅私」の精神があったこと、そして社会背景や軍部・メディアの影響力があった。『アステイオン』99号より「減刑嘆願の心理と背景」を転載> 

2022年7月に発生した、安倍晋三元首相の銃撃事件。それから約1年経った今年[編集部注2023年]7月、事件を起こした山上徹也被告の公判が延期されると報道された。6月に予定されていた公判前整理手続きは、奈良地裁への不審物送付によって開催されず、本稿を書いている段階(2023年8月)で、公判は少なくとも翌年以降になるとの見通しが示されている。

公判の争点は、犯行の動機に関わる情状酌量の余地になるであろう。だが一連の公判で明らかになる事実が、現代の人びとの心象にどれだけ影響を及ぼすかは、想像がつかない。

元首相銃撃事件のあと、五・一五事件について語る機会が多くなった。およそ90年前(1932年)の日本で、なぜ人びとが犬養毅首相を殺害した犯人に同情し、減刑嘆願の動きが起きたのか。その理由を知りたい人が増えたのである。

もちろん過去の事件は、現在の状況と簡単に並べては扱えない。犯行の動機も時代の背景も異なるからである。だがそれでも当時の大衆心理を推し量り、大規模な減刑嘆願が発生したプロセスを顧みることは、現在の私たちにとって無意味ではないと思われる。

日本の歴史を振り返れば、政治家の暗殺事件は未遂も含めて数限りない。昭和初期がテロの時代などと言われるが、その時期のみが多かったわけではない(筒井清忠『近代日本暗殺史』)。ただ犯人側に共感する人や報道は時折現われるが、世論が高揚するケースは珍しい。

1921年(大正10)9月、31歳の朝日平吾が安田財閥の総帥・安田善次郎を殺害した事件では、安田家の相続問題をメディアが取り上げ、大富豪への反感が一般大衆に醸成された。

当時の経済状況は、大戦景気から戦後恐慌に転落し、物価高と失業などで大衆の生活は苦しかった。そこに大富豪を攻撃する朝日の「斬奸状」や遺言などが報道され、一種の「時代の空気」が作られた(中島岳志『テロルの原点』)。原敬暗殺をはじめ、犯人の主張に影響された事件の続発もあった。

とはいえ、この事件は(犯行に及んだ朝日が現場で自裁したため)公判の場で犯人が語る機会はなかった。法廷で被告が直接に動機を語り、大衆が熱狂する五・一五事件の公判は、戦前においても稀なケースであった。

この五・一五事件においても、減刑嘆願運動が広まったのは公判が開始される1933年(昭和8)7月以降(事件発生から約1年後)であった。

公判の前には、事件の詳細に関する報道管制が敷かれ、一般の人びとが被告の主張を詳しく知る術はなかった。暗殺を批判する菊竹六鼓や桐生悠々のようなジャーナリストも存在した。減刑嘆願運動も始まってはいたが、低調であった。特高警察の分析では、大衆には「暗殺行為そのものに嫌悪」感すらあったとされている(『特高月報』)。

公判の開始が、世論の転換するきっかけとなったのは明らかである。では転換の理由は何か。

筆者は、被告の存在とその主張が、大衆の政治に対する不信感や英雄待望の期待と強く共振したこと。被告の主張の喧伝が、当時の軍部の利益となる面があったこと。満州事変を契機に軍とメディアが接近し、軍の意向を受けた報道が容易となったこと、などに注目したい。以下に詳しく見ていこう。

被告の主張への共感には、経済不況の影響がある。先に述べたように、当時の大衆は「暗殺」を賞賛したわけではない。だが第一次大戦後から断続する経済恐慌、とくに昭和恐慌の最中であった1933年には、東北をはじめ各地の農村が疲弊に喘いでいた。農家の次男・三男などを兵卒の供給源とする陸軍は、農村の困窮と社会の矛盾に直面する立場にあった。

首相官邸の襲撃に参加した陸軍士官候補生たちは、法廷で農村の困窮を訴え、無策のままに放漫贅沢を繰り返す「支配層」(政党・財閥など)への批判を繰り返した。他方で殺害した犬養毅首相に私的な怨みをもたず、「支配層」の象徴的存在として斃したと述べた。あくまで天下国家の大義のための公憤が動機だ、と供述したのである。

事件を起こした青年将校・士官候補生たちは、将来を約束されたエリートであった。事件によって彼らの将来は閉ざされる。それでも大義のためには起たねばならない。「金もいらぬ名誉もいらぬ人間」こそが非常時日本に求められると、ある被告は西郷隆盛の『南洲翁遺訓』を引用して訴えた。

私利私欲の利権誘導ばかりが目だつ政党政治に嫌悪感のあった大衆は、被告の主張に驚き、やがて熱烈な支持を与える。被告の動機が「私」ではなく「公」のためと説明されたことで、彼らの主張は拡がりを持ち始めたのである。

みずからの立身出世や生命までも投げうって、世のため人のために起ち上がる。病気の家族に秘して決起に加わる。遺言を残して覚悟を定める。

こうした被告の行動が事細かに報道され、人々の関心をひいた。ここに暗殺事件が、大衆の好むヒロイックなストーリーに転化される要素を見出すことは難しくないだろう。

こうして、新聞紙面には「義挙」「忠臣」「(赤穂)義士」などの文字とともに、被告らの主張である「昭和維新」が現われるようになる。

犬養首相を撃った三上卓海軍中尉の作詞した「青年日本の歌(昭和維新の歌)」が世に知られ、「昭和維新行進曲」「五・一五事件 血涙の法廷」などと題するレコードが発売される(発禁)。大衆小説や時代劇映画などの流行を背景に、被告らをモデルとする作品も現われた。

一部には、被告への同情心と刑罰の内容は分けるべきとの意見もあったが、多くの人びとは主要メディアによる連日の報道を受けて、被告らの動機が正しい以上、情状酌量があって然るべきだと考えた。

法廷で減刑を叫ぶ婦人や、官庁で切腹を図る者、果ては投身する少女までも現われて世論を搔き立てた。政治に深く失望し、「世直し」を待望していた大衆は、希求するヒーローの登場に最大級の共感を示そうとしたのである。

ところで事件の被告には、陸海軍の軍人のほかに民間人もいた。よく知られるように、事件に関与した民間人は最高で無期懲役の判決をうけ、内乱罪が適用された軍人(最高禁錮十五年)よりも重い結果となった。

なぜ軍人の量刑が軽くなったかといえば、そこに軍の意図があったと考える他はない。軍人を裁くのは陸海軍の軍法会議であった。軍法会議の構成員は軍部大臣を筆頭に、全員が軍人である。法廷に軍の組織的な主張を反映させることは容易であった。

当時、陸軍部内には軍縮や不干渉主義を進めた政党への強い反感があった。五・一五事件で政党政治が中断したとはいえ、再び政党が復権する可能性が絶たれたわけではない。軍縮や農村の荒廃などの政治問題を被告に主張させ、政党政治の劣悪さを世間に広める。そのための舞台装置として、公判は軍の利益に沿うものであった。

先に示したように、被告やその主張には大衆の願うヒーローの像が投影されていたが、その像を提示したのは軍とメディアであった。メディアが軍に積極的に協力したのも、組織の論理であった。

それまで政党との関係が深かったメディアは、満州事変を境に、戦争報道などの便宜上から陸軍へ接近し、軍の批判を控え、軍の主張に好意的な報道を流した。

さらに地方社会における在郷軍人会などの親軍組織が活動を活性化させ、反軍的な新聞論調に威嚇や不買運動などで対抗した。在郷軍人会は、学校などの教育機関(教員の指導で児童生徒に嘆願書を書かせた)とあわせて、被告に対する減刑嘆願運動の一翼を担う存在となる。

陸軍と異なり、海軍の軍法会議は必ずしも被告に有利な場ではなかったが、すでに軽い量刑が出された陸軍側(求刑禁錮8年─判決同4年)と対照的に、主犯格の海軍青年将校へ死刑が求刑されたことで、世論は激烈にヒートアップする。

嘆願書は公判開始から2カ月ほどで約70万通を超え、1933年末までに約114万通に達したといわれる。世論の隆盛は海軍部内を動揺させ、最終的に有期刑への減刑が実施される。

このように嘆願運動には、利益政治批判の高まりの裏面として、清廉で大義に殉じる青年将校のイメージが作用した。その背景には、軍が政治的意図のために被告の主張を支援し、メディアが拡散する構図が存在した。

陸海軍も青年将校も歴史上の存在となった現代日本において、嘆願運動が当時の形で盛り上がることは無いだろう。ただもし被告の主張が一般に意義を広く認められ、それを支持拡散する組織やメディアが強力であればどうか。

私たちが今いかなる価値を重んじ、どのような社会を目指すのか。改めて一人一人に問われていると考えるべきだろう。

小山俊樹(Toshiki Koyama)
1976年生まれ。京都大学文学部卒業。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間・環境学)。専門分野は日本近現代政治史。主な著書に『五・一五事件──海軍青年将校たちの「昭和維新」』(中央公論新社、サントリー学芸賞)、『憲政常道と政党政治』(思文閣出版)、『評伝 森恪』(ウェッジ)、『近代機密費史料集成Ⅰ・Ⅱ』(ゆまに書房)、『大学でまなぶ日本の歴史』(吉川弘文館、共編著)など。

『アステイオン』99号
 特集:境界を往還する芸術家たち
 公益財団法人サントリー文化財団・アステイオン編集委員会[編]
 CCCメディアハウス[刊]

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