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ピュリツァー賞記者が綴る、戦場を渡り歩いた末にたどり着いた「末期がんとの闘い」と生きる喜び

ニューズウィーク日本版 2024年4月5日 10時28分

<世界の動乱を50年間追い続け、米国のジャーナリズムにおける最高栄誉「ピュリツァー賞」にも輝いた筆者がいま立ち向かうのは、悪性脳腫瘍との命を懸けた戦いだ>

ロッド・ノードランドはフィラデルフィア・インクワイアラー紙、本誌、ニューヨーク・タイムズ紙の外国特派員として50年近く活動し、ピュリツァー賞にも輝いた。

ニカラグア、カンボジア、ボスニアからアフガニスタンまで150を超える国で戦争や政変を追うのは、死と隣り合わせの日々だった。

そんなベテランジャーナリストが2019年、私的な戦いに直面した。膠芽腫(こうがしゅ)と診断されたのだ。膠芽腫は最も悪性度の高い脳腫瘍の1つで、アメリカでは毎年約1万2000人が新たにこの病気と診断される。

5年後の生存率は約6%と低く、ジョー・バイデン大統領の息子ボウやジョン・マケイン上院議員も膠芽腫に命を奪われた。

ノードランドは闘病のさなか、自分が最も得意とすることをした。つまり書き続けた。死の淵で癌との戦いと記者人生を見つめた回想録『モンスーンを待つ(Waiting for the Monsoon)』(マリナー・ブックス刊)から、一部を紹介する。

◇ ◇ ◇

過去の戦争の記憶に埋もれた退屈な年寄りになり、強烈だが古くさい体験談をやたらと吹聴する──。これは、外国特派員が陥りがちな危機の1つだ。

私はそんな人間になりたくないし、この本で取り上げるのは昔話だけではない。そうした戦場とは性質の違う、私が今いる戦闘地域について主に書いている。

けれども過去を振り返り、今の私には間違いなく「明日」より「昨日」のほうが多いのだとしみじみ実感するにつけ、思いは若く丈夫で自分は不死身だと信じていた頃に経験した絶体絶命の危機に飛ぶ。

そうした出来事の1つが起きたのは、フィラデルフィア・インクワイアラーの仕事でタイを取材していたときだった。

翌朝処刑されると決まった数人の記者仲間と私は、その晩カードゲームのジンラミーに興じていた。すると私たちがノートを破って作った粗末なトランプを監視の兵士たちが没収し、カードゲームは違法だと言い放った。

「へえ、でも裁判もしないで人を処刑するのはオーケーなんだ?」と私が片言のタイ語で言い返すと、兵士の1人に「フッパーク」と怒鳴られた。「黙れ」という意味だ。

時は1980年、ベトナム軍がクメール・ルージュを壊滅させるべくカンボジアに侵攻していた。隣国タイの国境地帯には難民キャンプが作られ、カンボジアから逃れてきた数万人が身を寄せた。

タイ軍が私たち記者を連行したのは、私たちがカンボジア側でタイ兵の姿を目撃したことに腹を立てたからだった。タイの兵士は国境を越えることを禁じられていた。

筆者(1979年撮影) MATTHEW NAYTHONS

加えて私はタイ軍が、カンボジアでベトナム軍と戦うゲリラ部隊を指揮していることも知っていた。報道するどころか、知られるだけでもまずい事実だ。そこで私たちを拘束し、翌朝処刑すると言い渡した。

私は不快だが避けようのない事態に直面すると、ありがたいことに体が反応する。眠ってしまうのだ。

例えば輸送機で航空母艦に着陸するのが、私は怖くてたまらない。湾岸戦争中、ジャーナリストは航空母艦で何週間も過ごすことが珍しくなかった。

着艦する際、輸送機は時速160キロを超えるスピードで母艦に接近しつつ尾部から拘束フックを出し、これを甲板に渡された直径8センチほどのワイヤに引っかける。機体はワイヤに引っ張られて甲板にたたきつけられ、急停止する。

これに耐える唯一の方法は、睡眠モードに切り替え熟睡することだった。機体が甲板に激突して停止するたび私はビクッとして目を覚まし、生きている喜びをかみしめた。最近はそうした生の喜びをかみしめることが増えた。末期癌のなせる業だ。

歴史的瞬間を逃した絶望

処刑前夜、うつらうつらする私を見て仲間の記者たちは憤慨し、またけげんそうな顔をした。「この世で最後の晩を寝て過ごすのか?」とある記者が聞くので、私はこう返した。

「ああ。体をしっかり休めておけば、朝一であのフェンスを跳び越え、ジャングルに逃げ込めるからね」

兵士は話の内容は分からなくても、言葉の響きが気に食わなかったらしい。「フッパーク」と繰り返した。

目が覚めると、赤十字の代表団が来ていた。職員が私たちの名前を控えたところで、もう大丈夫だと安堵した。やがて記者が拘束されていることが報道され、国際社会は激しく反発した。

こうした国境地帯の小競り合いのさなかに、私は大事なことを学んだ。当時の私はタフガイ気取りの18歳のまま内面の成長が止まり、命に限りがあることを分かっていなかった。

態度を改めたのは、無意味な小競り合いが起きている前線にのこのこ出かけたある日のことだった。1人の兵士が頭部を撃たれると、錯乱した同志たちが私に銃を突き付け、レンタカーで病院に運べと迫った。

撃たれた男と私は先ほどまで並んで立ち、銃弾が頭上をかすめる音に耳を澄ましていたのだ。弾が命中するのが彼ではなく私が殺されていても、不思議はなかった。

ノードランドの記事が表紙を飾った1986年の本誌英語版 NEWSWEEK ARCHIVE

40年来、私は折に触れてアフガニスタンに飛び、2021年までの9年間は毎年取材した。

だから脳腫瘍のために一線から離脱し、21年8月、米軍が惨憺たる撤退を繰り広げるなかイスラム主義組織タリバンが再び権力を掌握した悲痛な歴史的瞬間に立ち会えなかったときは、言い知れぬ挫折と絶望を味わった。

これは私が書くべき記事だった。現地には情報提供者もいた。タリバンのザビフラ・ムジャヒド報道官とは定期的に連絡を取っていた。

通訳を介して、考え得るシナリオを全て彼と検討したこともある。私には分かっていた。アメリカが支援していたような腐敗まみれの政権では、タリバンの勝利と復権は避けられない、と。

紛争地取材に必須の出口戦略

予想は的中した。私は事前に通訳を介してムジャヒドに、タリバンが復権した場合、首都カブールにとどまっても安全かどうか確認してもいた。彼は大丈夫だと請け合った。

ムジャヒドの人間性を知り抜いていたわけではないが、彼の言うことは信用できると確信していたし、その証拠は山ほどあった。

その何年か前、戦略的コミュニケーションなるものを担当する米軍当局者にタリバンの広報はアメリカのメディアに受けがいいようだが、米軍の広報とどう違うのかと聞かれたことがある。

私が「ムジャヒドにセミナーをやってもらったらいい。喜んでアレンジしますよ」と言うと、この当局者はムッとした顔をした。

私の口調に皮肉をかぎ取ったらしく、彼は「真面目な話だ。どこが違うか教えてくれ」と迫ってきた。

「そもそもタリバンは、本当のことを言うのが基本ですからね」と、私は答えた。

「何か聞かれて、正直に答えられない場合、彼らはそう言います。調べて後で答えると約束したら、何カ月も待たせるのではなく、何時間か後に答える。あなた方よりはるかに対応が早いんです」

「奴らは真実を突き止めようとしないからだ。われわれはこだわるが」

「へえ、そうですか」と私は言った。「そうであれば、あなた方もタリバンと変わらないってことです」

そのときとっさに思い出したのはアフガニスタンの政府軍強化を目指す米軍の取り組みを取材していたときのことだ。当時、米政府はアフガニスタンの空軍にアメリカ人が設計した新型ヘリコプターを何機も供与しようとしていた。

私はこの件を担当するアフガニスタンの将校に同行して、広報担当の米軍の大佐に会いに行った。新型ヘリが現地では役に立たないことを将校が説明し始めると、大佐は慌てふためいて必死で黙らせようとした。

タリバンは2021年8月、アフガニスタン全土を制圧。米英軍に見守られ祖国を逃れる GETTY IMAGES

将校はあきれ顔で構わず話を続け、新型ヘリの拠点はカブールだが、現状の飛行高度ではカブールを取り巻く高い峰々を越えられないと告げた。

攻撃能力も不十分なら装甲もお粗末。しかも標高の高いこの国の多くの空域は空気が薄すぎるため、長く飛び続けることは不可能だ、と。

こんな調子だったのだが、自分の予想どおりの展開になったとき、私は現地の混乱のただ中ではなく、ニューヨークにいた。そして関連記事を読みあさり、ニュース映像でカブール空港の大混乱を見ることになった。

この空港で離発着を何度繰り返しただろうと、私は思った。自分が書いた記事や出会った人々のことも。今まさに目にしているこの大混乱を不可避だと予想し、何度も書いてきた。それなのに今、現場にいない。まさかこんなことになるとは!

私が身を置いていたのは別の戦場だ。それは世界にとっては取るに足りない戦いだが、個人的には結果次第で全てが終わる大決戦だ。

長年の経験で学んだのだが、紛争地域での取材活動にはただ一つの黄金律がある。生き延びて事実を伝えるためには出口戦略が必須だ、ということだ。

制御不能な状況になった場合(そうなることは非常に多い)、迅速かつ安全に脱出できる戦略を常に用意しておく必要がある。

この黄金律は個人的に重要なばかりか、地政学的にも重要だ。カブール空港の混乱ぶりを目にして気付いたのだが、明らかにアメリカはまともな出口戦略らしきものを持っていなかった。ましてや事前にリスクを検討していたとはとても思えない。

今の私の戦い、生死を分ける戦いでは、出口戦略はさらに立てにくい。膠芽腫という厄介な状況からどうやって脱出できるのか。

「丸儲け」で生き永らえて

戦場に行って記事を書くとき、記者は必ずリスクと報酬をてんびんにかける。私は生き延びる確率をはじき出すことが習慣になっている。

この本が出版されるまで自分が生きている確率は、せいぜい6〜7%。私の年齢で膠芽腫と診断されたら、余命は中間値で15カ月だ。大ざっぱな計算で言えば、私の墓石の一番下には2020年11月5日没、享年71と刻まれるはずだった。

これを書いているのは23年だから、長年の付き合いの同業者ジョージ・デ・ラマの言い草ではないが、今の私はほぼ2年間「丸儲け」で生き永らえているということになる。

時に、私の出口戦略は思考実験のようになる。時間稼ぎをして、ポーカーで言う「大勝ちするために相手の出方を待つ」作戦を取ったらどうか。

つまり最悪の破滅的事態をどうにか押しとどめ、やりたいことができない今の生活に耐えて、全く新しい奇跡的な膠芽腫の治療法が開発されるのをひたすら待つのだ。

散らばった癌細胞を完全に死滅させ、脳の可塑性を活性化させて、損傷を受けた部位を修復する。そんな治療法が登場するかもしれない。

この出口戦略を夢想している間は、衰弱し病苦にあえいだこの数年間も、濃密な仕事漬けの日々の静かな間奏曲のように思えてくる。

だが、私は現実主義者だ。そんな展開はまずあり得ないと知っている。

息子を膠芽腫で失ったバイデンは「癌ムーンショット」と銘打って治療法などの研究開発の支援に多額の予算を充てる政策をぶち上げたが、そのうちどの程度の金額が膠芽腫研究に回されるか心もとない限りだ。

たとえ有望な治療法が開発されたところで、私たち患者が生きているうちに実用化にこぎ着けることはまず期待できそうにない。

ロッド・ノードランド(ジャーナリスト)

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