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オルテガが警告した「大衆の反逆」は日本では起こらないのか、それともすでに始まっているのか?

ニューズウィーク日本版 2024年4月17日 11時10分

<甘やかされた大衆とそれに媚びる政府のなれあいが垣間見える...。「優しい大衆」が生み出す危険について。『アステイオン』99号より「「大衆の反逆」、「無害な大衆」」を転載> 

オルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』は、筆者が強い影響を受けた本の一つである。

甚大な損害を被り人々が立ち上がれないほど打ちのめされた第一次世界大戦後のヨーロッパでは、『チップス先生さようなら』や『昨日の世界』(ツヴァイクの自伝)などが描写したように、社会が根底から変わってしまった。その結果生じた重大な危機が、本書の主題である。

この大きな社会的変化を、オルテガは一連の象徴的な光景の描写で示す。

「都市は人で」、「家々は借家人で」、「ホテルは泊まり客で、汽車は乗客で」満ちている。「有名な医者の待合室」や夏の「海浜」も同じだ。

いつの時代にも人は大勢いたが、以前はこうした場所に足を踏み入れず、分散してひっそり生きていた。その彼らが群れをなして「突如として姿を現し、社会の最良の場所を占めた」。大衆の登場である。

オルテガはその理由を人々の平等化に求める。19世紀にヨーロッパ人は飛躍的に豊かになり、社会の平均化が進んだ。さらに大戦後、少数者(エリート)と多数者(マス)の間の垣根がほぼ消滅し、人々は旧来の秩序やしきたりを意識せずに活動するようになった。

公的なことがらに責任を持って対処してきたそれまでの貴族的な少数者とは異なり、努力せずに得た豊かさを当然のものと捉える大衆は、「おのれが凡俗であることを知りながら、凡俗であることの権利を敢然と主張し、いたるところでそれを貫徹しようとする」。

共産主義やファシズムを筆頭に、「ヨーロッパに初めて理由を示して相手を説得することも、自分の主張を正当化することも望まず、ただ自分の意見を断固として強制しようとする人間のタイプが現れた」。

これこそが「大衆の反逆」であり、「民族や文化が遭遇しうる最大の危機」であるとのオルテガの予言は、ヒトラーやスターリンの全体主義体制実現によって不幸にも的中した。

この本を読み返して、オルテガの主張はアレクシ・ド・トクヴィルの考え方に通じると感じた。オルテガの100年前に無秩序と混乱が続く革命後のフランス社会の姿を目にしたトクヴィルは、その原因が社会の平等化(大衆化)にあると考えた。

しかし、この流れは今や止めがたい。そうであるなら、欠点を制度によって矯正しつつ、自由で平等な社会が実現できないか。

この問いへの答えを探して彼は階級のないアメリカへ渡り、その長所短所をつぶさに観察した結果を自著『アメリカのデモクラシー』にまとめ、将来を憂う故国の人々に伝えた。トクヴィルが模索したより穏健な民主主義は、20世紀になって定着したかのように見えた。

秩序の崩壊をもたらした最初の大戦とは異なり、第二次世界大戦ではドイツ、イタリア、そして日本というファシズム国家が徹底的に叩きのめされ、その後半世紀近く続いた冷戦の後には共産党の独裁が続いたソ連も崩壊した。「大衆の反逆」の最悪の果実は除去されたと、多くの人が感じた。

しかし、冷戦後も世界各地で紛争と圧政はなくならず、同時多発テロ事件をきっかけに中東へ軍事介入したアメリカは終わりのない戦を続け、国民の厭戦気分を背景に、成果を上げぬまま20年後完全に撤退する。その少し前に登場したのがトランプである。

オルテガが描写した大衆の思考と行動の様式を、トランプ以上に体現する人物はいないだろう。

理由を説明しないまま乱暴な政治的主張をする。批判的な知識人や学者、ジャーナリストは無視し、自分が正しいと言い張る。嘘もつく。一部の大衆がそれを痛快に感じ、熱烈に反応した。彼らはあっと言う間に大きな政治的勢力となり、トランプを大統領の座につける。

この背景には、左右を問わず現代の大衆が抱く大きな不満がある。オルテガが注目した20世紀初頭の大衆も不満を抱えていたが、エリートが独占していた特権を初めて享受したという意味で、悪いことばかりではなかった。

現代の大衆は仕事の質の低下、格差の拡大、難民の殺到と治安の悪化、優秀な教育のあるマイノリティに自分がとって代わられる可能性、自然災害の頻発、疫病の世界的流行などに直面し、不安を増し、不満を募らせる。

このような不満を代弁して、大統領選挙出馬宣言でトランプが述べた「壁を築こう」というスローガンは、アメリカで一つの時代が終わったことを暗示していた。この国が主張し続けた多様で開かれた国家の理念を、否定したのである。他国でも同様の動きがある。新しい大衆の反逆とともに、わがままな「壁の時代」が世界に広がった。

ところで現代の日本でも大衆の反逆は起こりつつあるのだろうか。この国にも大衆はいて「平均人」が巷に溢れている。通勤電車の席に並んで座る乗客は、大多数がスマホをいじりゲームに没頭している。大衆を対象にする多くのテレビ番組は、概して質が低い。

もちろん彼らも不安や不満を抱いている。物価上昇、人手不足、猛暑や豪雨など気候の異変、さらに最近ではマイナ保険証をめぐる政府の不手際、研修と称する自民党女性議員のヨーロッパ観光旅行、大阪万博の行き詰まり、など。しかしそうした不満が蓄積して大衆が反逆に走る気配はない。

物価高で苦しいと言うが、スーパーは物で溢れているし、専門店には高価なブランド品が並んでいる。コロナウイルスの流行が収まって新幹線はこの夏[編集部注:2023年]いつも満席に近かった。各地の花火大会や祭りは大変な人出だった。

しかし、どんなに観光地が混み台風で列車が運休になり駅が人で溢れても、人々は比較的落ち着いて係員の指示に従い、マナーを守る。若い人の多くも親切で礼儀正しい。群衆が突然暴れ出し略奪を始めるようなことはない。こうした「優しい大衆」の存在を、私は日本人として誇りに思う。

日本の大衆もかつては反逆に走った。古くは一揆や米騒動があった。戦後も70年代前半まで、スト、デモ、大学紛争などが頻繁に起きた。彼らは直接行動によって既存の体制を崩せると、本気で信じていた。意見は全く合わなかったが、あの頃の元気な左翼が、多少懐かしい。

彼らが穏やかになったのは、その後の経済発展だけが理由ではなく、政府そのものが大衆化したからかもしれない。オルテガによれば、社会は常に「少数者と大衆のダイナミックな統一体」から構成されている。

少数者は「進んで困難と義務を負わんとする人々」、大衆は「生きるということが自分の既存の姿の瞬間的連続」であり、「自己完成への努力をしない人々」である。どんな体制でも前者が後者をリードしなければ社会は機能しない。

しかしその役割を果たす責任ある少数者が、今の日本にいるだろうか。民主主義の仕組の下で、大衆には強力な武器、すなわち選挙での投票権がある。与党は選挙で敗ければ下野せねばならないから、大衆の要求を受け入れて支持を繋ぎとめようと必死に努力する。

昔は反対が強くても信念を曲げなかった総理大臣がいた。高級官僚にも頑固なエリートくさい人がいた。最近では安倍元総理にもそうした気骨が見られた。しかし岸田総理は大衆の要求を次々に受け入れる、あくまで大衆に「寄り添う」総理大臣なのである。

福島第一原発の処理水放出は開始したものの、風評被害を恐れる漁民の声に配慮し「たとえ今後数十年の長期にわたろうとも、全責任を持って対応する」と約束した。ガソリン価格の高騰を受け、補助金支払いの期限を延長した。

少子化を反転させ人口減少を食い止める、賃上げ、経済成長、脱炭素社会、防衛力強化を実現する。なんでも約束してくれるなら、大衆は自分たちが反逆する必要を感じない。

政府の大衆懐柔の仕方は、駄々をこねる子供にさらに欲しいものを与える親のようである。オルテガのことばを借りれば、「慢心しきったお坊ちゃん」をさらに肥満させ増長させるに等しい。大衆はそれに甘えて、自分で考えない、行動を起こさない。

こうした傾向は、政府をも無責任にする。約束が守れなくても、財源がないと言い訳をすればなんとかなる。与野党を問わず、責任を取らない政治家と彼らのスキャンダルばかり追いかけるメディア自身が、大衆の一員でしかない。

一方政治家の指示に従った官僚は、自身の責任を感じない。大衆も無責任。政府も無責任。本当の危機が到来した時に、反逆し戦う勇気と力が誰にもなかったら、この優しい大衆の国は果たして生き永らえうるだろうか。

「強くて優しい大衆」と、「独り立ちしない無害な大衆」は違うはずだ。甘やかされた大衆とそれに媚びる政府のなれあいは、この国を脆弱にしないか。オルテガが警告した「大衆の反逆」が、悪意ある扇動者の出現によってかえって起こりはしないか。心配である。

阿川尚之(Naoyuki Agawa)
1951年生まれ。慶應義塾大学法学部中退、ジョージタウン大学スクール・オブ・フォーリン・サーヴィスならびにロースクール卒業。ソニー、米国法律事務所勤務等を経て、慶應義塾大学総合政策学部教授、同志社大学法学部特別客員教授などを務めた。2002年から2005年まで在米日本国大使館で公使を務める。主な著書に『アメリカン・ロイヤーの誕生』(中公新書)、『憲法で読むアメリカ史』(ちくま学芸文庫)、『憲法改正とは何か──アメリカ改憲史から考える』(新潮選書)など多数。

『アステイオン』99号
 特集:境界を往還する芸術家たち
 公益財団法人サントリー文化財団・アステイオン編集委員会[編]
 CCCメディアハウス[刊]

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