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『オッペンハイマー』:被爆者イメージと向き合えなかった「加害者」

ニューズウィーク日本版 2024年4月11日 10時35分

<ヒロシマ・ナガサキの惨状が描かれていないなど批判もあったが、これは紛れもない反核映画だ>*若干のネタバレあり

今年のアカデミー賞で、作品賞など7賞を獲得したクリストファー・ノーラン監督『オッペンハイマー』が今年3月にようやく日本公開された。「原爆の父」とも呼ばれるアメリカの物理学者オッペンハイマーの半生を描いたこの作品は、被爆国である日本では特に政治的な議論の対象になったこともあり、公開が大幅に遅れていた。

 

そのような事情から、この映画は原爆投下についてのアメリカ側の弁明にすぎないのではないかという先入観を持っていたが、鑑賞してみると、それとは異なる印象を抱くことになった。

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オッペンハイマーの視点を中心に描いた反核映画

結論から先に言えば、この映画はクリストファー・ノーラン監督が、オッペンハイマーという人物の視点を通して、アメリカにおける反核兵器のリアリティを描いた作品だといえよう。確かに事前情報通り、ヒロシマ・ナガサキの惨状は描かれていなかった。日本ではその点を批判する人もいる。しかしこの映画はむしろ、原子爆弾の惨状が直接的に描かれなかったことにこそ、演出上の意図があるのではないか。

というのも、この映画は原爆についての記録映画ではなく、オッペンハイマーという人物についての映画だからだ。全編を通して、オッペンハイマーの主観を中心に一人称的に構成され、彼の主観が介在しない場面はモノクロになる。つまり視点の違いが厳密に区別されている。そしてカラーのシーン、つまりオッペンハイマーの主観的な場面では、抽象的な心理世界や白昼夢の演出があり、オッペンハイマーという人物の心理を強く反映した描かれ方になっている。作品中でフロイトやユングといった精神分析家について言及されているのは偶然ではない。2010年の映画『インセプション』など、精神分析的な理論をもとにした世界観はノーラン監督の得意とするところだ。

オッペンハイマーは、原爆の開発には積極的だが、一方で水爆の開発には消極的だったと作中で描かれる。この変化について、作中で問われるシーンがあるが、オッペンハイマーは答えをはぐらかす。作中後半の「解決編」でも、それについて明示的な解答は与えられず、永遠に謎のままになっている。

 

しかし、その理由は実は明らかになっている。被爆者である。オッペンハイマーがヒロシマ・ナガサキの惨状を後日、映像によって目の当たりにするシーンがある。映画ではそのシーンは、彼が被爆者の映像を見る場面として表現されるが、映像そのものは決して映ることはない。だが、被爆者の映像が映らないことこそ、オッペンハイマーにとって原爆の被害者のイメージが、いかに心理的に抑圧されているのか、ということの暗示となっているのではないか。被爆者の存在はオッペンハイマーに対して明かに影響を与えているのだが、それは作中ではただ仄めかされるだけで、ほぼ語られることはないのだ。

原爆によって変貌する世界

原爆は単なる兵器ではなく、世界を変貌させる兵器だ。それは原爆によるとてつもない被害を前提としており、オッペンハイマーは被爆者の映像を見る前から、そのことを知っていた。原爆が日本に投下され、戦争が終わったことを喜ぶ人たちの前に立って、オッペンハイマーはもはや正常に世の中を見ることができない。彼はスタンティングオベーションをする観衆の中に、全身が焼け爛れる被爆者の幻影をみる。祝宴で飲みすぎて吐いている人に、原爆症の患者をみる。

もちろん、オッペンハイマーはその時点ではそれらのリアルを目の当たりにしていない。しかし彼は人類に火を与えたギリシャ神話の神プロメテウスに喩えられている。プロメテウスは「先んじて知る者」という意味だ。原爆が存在する世界とは、何らかのきっかけがあれば、世界が瞬時に白く焼き尽くされる世界のことであり、オッペンハイマーはそれを先んじて理解しているのだ。

原爆によって世界が崩壊する可能性を知るということは、オッペンハイマーにとって、自分の慣れ親しんだ世界が突然「不気味なもの」「疎遠なもの」として認知されることを意味する。従ってオッペンハイマーはそれを避けるために、被爆者のイメージを抑圧せざるを得ないのだ。

 

そして、ある意味ではこれは、アメリカの縮図ではないだろうか。世界を何度破壊しても足りないぐらいの核ミサイルを持ち、世界で唯一人間の頭上に原爆を投下した国が、今になってもなお原爆の被害と向き合えないのは、被害と直接向き合ってしまうと、この世界が崩壊するイメージがトラウマのように広がっていき、社会が根本から崩れ落ちる恐怖に苛まれる。クリストファー・ノーランはそれを寓話的に描いていると解釈することもできるのではないか。

エピメテウスとしてのオッペンハイマー

もう一つ重要な点は、この映画ではオッペンハイマーを「殉教者」としてヒロイックに描くこともしていないということだ。映画では、オッペンハイマーはのちに政敵の陰謀によって「赤狩り」の対象となり、社会的な地位を失墜させられてしまう。さらにその政敵は、オッペンハイマーはそのような理不尽な迫害を甘んじて引き受けることによって、原爆の罪滅ぼしを行おうとしている、というオッペンハイマーの隠れた意図を暴露している。そしてその作戦は成功しないだろうとも言う。映画では晩年のオッペンハイマーが表彰を受けるシーンで終わる。彼は「原爆の父」という「栄光」から死ぬまで逃れられないのだ。

ここで描かれているオッペンハイマーの一面は、火を人間に与え、その結果磔にされ、ハゲタカに内臓を永遠に啄まれることになった「殉教者」プロメテウスのイメージとは異なる。むしろプロメテウスの忠告を無視してパンドラと結婚した結果、世界に災厄が振りまかれるきっかけをつくったプロメテウスの兄弟、エピメテウスになぞらえる方がしっくりくる。

エピメテウスは「後から考える者」の意だ。高揚する感情と虚栄から、原爆の使用に賛成してしまったオッペンハイマーは、後になってその選択について苦悩し、「殉教者」になることすらできない。ノーラン監督が意図的に行ったかどうかは別として、この映画のオッペンハイマーは、プロメテウスという自他共に認める英雄の表象だけでなく、エピメテウスという、プロメテウスとは相反する愚者の表象としても解釈できるように描かれている。

 

そしてこのプロメテウスとエピメテウスという表裏一体の兄弟は、オッペンハイマーという人物を通して、これもまたアメリカそのものを表象しているとも解釈できる。アメリカは先んじて核を人類にもたらし、その結果到来した「核の時代」の諸問題に後になってから苦悩しているようにみえる。

それでもまだアメリカは、世界最大の核保有国であることを誇り、核抑止力の正当性を主張している。しかし、その自信は思いのほか強固なものではないのではないか。つまりそれは被爆者の存在を抑圧することによって成り立っており、抑圧のタガが外れ被爆者が前景化してきたとき、白い光につつまれてあっさりと熔解してしまうのだ。映画『オッペンハイマー』は、そのことを示唆する寓話なのであった。



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