<脳科学者の茂木健一郎氏や漫画家の瀧波ユカリ氏の指摘で炎上した東京芸大美術館の『大吉原展』。「遊女の性的搾取軽視」とSNSで猛批判されたが、主催者は本当に無自覚だったのか>
美術展の初日は雨だった。3月26日から東京芸術大学で始まった『大吉原展』の初日、担当学芸員の古田亮・大学美術館教授の目には戸惑いが浮かんでいるように見えた。
吉原の遊郭を描いた江戸期浮世絵を中心に「吉原文化」を正面から題材としたわが国初の大規模展示会である(東京新聞・テレビ朝日と共催)。構想・準備期間は5年。しかし前日の記者会見では、「吉原における売買春」に質問が集中した。著名な脳科学者の茂木健一郎氏や漫画家の瀧波ユカリ氏の指摘を受けて、「遊女の性的搾取」という負の側面を芸大が軽視しているのではないかという批判がSNS上で湧き起こっていた。黒川廣子館長が会見で「開催までこんなにハラハラした展示会はない」と吐露し、薄氷を踏む対応を余儀なくされた。展示作品に実質的な変更はなかったが、展示説明には負の側面への言及が慎重に加えられた。
美術館に向かう道中で目にしたポスターは、当初のショッキングピンクからグレー基調の地味な色彩に置き換えられ、寂しく雨に打たれていた。
ジャニーズ事務所問題の潮流の中で開かれた展覧会
福田美蘭『大吉原展』(作家蔵)
江戸時代の吉原で売買春が行われていたことは日本史の常識である。しかし着物・舞踊・浮世絵といった絢爛な江戸文化の神髄が吉原に凝縮されていたことは常識とまではいえない。その認識の差を埋めるべく、展覧会は吉原の文化史的価値に焦点を当てた。
ところが、光の照射は影を生む。人権侵害の側面が強調されることなく、「江戸アメイヂング」や「お大尽ナイト」「The Glamorous Culture of Edoʼs Party Zone(江戸の華やかなパーティー文化)」といった宣伝フレーズが用いられ、あたかも吉原を無批判にもてはやしているような印象を持たれた。
昨年のジャニーズ事務所性加害事件以来、芸能界の人権侵害に耳目が集まり、性的搾取を含めた「現代奴隷制」は「ビジネスと人権」の観点からも世界的に注目されている。その潮流のただ中で開かれた展覧会だ。批判には一定の理由がある。
しかし筆者のインタビューで古田教授は「人が殺される光景を描いた絵画を展示するに当たって、人を殺すことは悪いことだという説明を述べる必要があるだろうか」と疑問を呈した。説明を加えれば、なぜその説明を加えたのかについて更なる説明が要求され、作品自体から遠ざかりかねない。古田教授は昨年11月の段階で企画者としてこうも述べていた。
「近代が切り捨てていったものを、そのままに捉え直してみたいという気持ちから、私はこの展覧会を企画した。遊郭は現在の社会通念からは許されざる制度であり、既に完全に過去のものとなっている。それ故に失われた廓内でのしきたりや年中行事などを、優れた美術作品を通じて再検証したい」
美術展の学術顧問を務めた田中優子前法政大学総長も2021年に公刊した『遊廓と日本人』(講談社現代新書)で、遊郭の人権侵害を踏まえて「現代で吉原を論じることの問題」を詳細に検討している。今回のPR会社は、20年に国立歴史民俗博物館で展示され高い評価を得た『性差(ジェンダー)の日本史』を手がけた会社だ。
つまり主催者の問題意識は実は明確で、吉原における人権侵害という負の側面は当然に踏まえるべき前提であり、むしろ吉原を江戸の視点で「そのままに捉え直す」こと、「遊女」に差別的な視線を向けない姿勢に十分な配慮が払われていた。すなわち性的搾取があった事実を前提として、その先を見据えた企画だったのだ。ポスターのピンク色は性産業とは関係なく、遊郭で演出された舞台装置としての「桜」を表象するものだった。
本物の実力を持つが故
高橋由一『花魁』(東京芸術大学)
にもかかわらず「芸大が人権感覚の欠如した美術展を企画した」と決め付ける評価が伝播して「炎上」したのは広報戦略の見誤りに加え、そうした前提の共有可能性が現代の日本社会で揺らいでいるからだろう。SNS時代、特にコロナ禍以降の言説は誇張と刺激を追い求め、共通了解を支える土台は脆弱化している。
もう1つにはキャンセルカルチャーの台頭がある。「特定の人物・団体の言動を問題視し、集中的な批判を浴びせて表舞台から排除しようとする動き」を指すが、狭義には「現代の基準から不適切だと思われる功績を過去にさかのぼって否定する」風潮をいう。
これが過剰になると、過去の作品あるいは作品の展示自体に現在の価値観を投影して断罪することになりかねない。いわば後出しジャンケンで、美術史の積み重ねの中で定まるべき芸術作品の客観的評価が損なわれる可能性がある。
今回の『大吉原展』が扱うのは江戸期の美術品が中心であり、現代芸術(モダンアート)のキュレーションとの違いにも留意が必要だ。主として存命中の作家を扱う現代美術展では、キュレーション自体が作家・観客・キュレーターの関係性を変容させる可能性を持つ。それゆえ社会的潮流と無縁ではいられない。
これに対して古典的芸術の場合、作者は既にこの世にいないから、作品に光を当てれば生まれる影について作者の弁明を聞くことは不可能だ。だからこそ美術館には「ありのままに展示」するという謙抑性が求められる。それは単なる美徳というだけでなく、古典的芸術の展示における客観性と誠実性を担保する。
『大吉原展』は図らずも遊女の性的搾取についてどこまでの説明が必要とされるかの線引きの曖昧化、人権侵害に関する共通了解の土台が脆弱化しているという現代日本の実相を照射したが、それはこの展覧会が本物の実力を持っているが故でもある。高橋由一作『花魁』やワズワース・アテネウム美術館所蔵『吉原の花』、大英博物館からの里帰り作品などは圧巻だ。遊女の生活がリアルに紹介され、遊郭の壮大な建築構造が手に取るように分かり、吉原を支えた浮世絵の重厚な出版文化を浮き彫りにしている。
5月19 日まで続く展示は必見だ。
【動画】『大吉原展』を見た感想を語る茂木健一郎氏
北島 純(社会構想大学院大学教授)
美術展の初日は雨だった。3月26日から東京芸術大学で始まった『大吉原展』の初日、担当学芸員の古田亮・大学美術館教授の目には戸惑いが浮かんでいるように見えた。
吉原の遊郭を描いた江戸期浮世絵を中心に「吉原文化」を正面から題材としたわが国初の大規模展示会である(東京新聞・テレビ朝日と共催)。構想・準備期間は5年。しかし前日の記者会見では、「吉原における売買春」に質問が集中した。著名な脳科学者の茂木健一郎氏や漫画家の瀧波ユカリ氏の指摘を受けて、「遊女の性的搾取」という負の側面を芸大が軽視しているのではないかという批判がSNS上で湧き起こっていた。黒川廣子館長が会見で「開催までこんなにハラハラした展示会はない」と吐露し、薄氷を踏む対応を余儀なくされた。展示作品に実質的な変更はなかったが、展示説明には負の側面への言及が慎重に加えられた。
美術館に向かう道中で目にしたポスターは、当初のショッキングピンクからグレー基調の地味な色彩に置き換えられ、寂しく雨に打たれていた。
ジャニーズ事務所問題の潮流の中で開かれた展覧会
福田美蘭『大吉原展』(作家蔵)
江戸時代の吉原で売買春が行われていたことは日本史の常識である。しかし着物・舞踊・浮世絵といった絢爛な江戸文化の神髄が吉原に凝縮されていたことは常識とまではいえない。その認識の差を埋めるべく、展覧会は吉原の文化史的価値に焦点を当てた。
ところが、光の照射は影を生む。人権侵害の側面が強調されることなく、「江戸アメイヂング」や「お大尽ナイト」「The Glamorous Culture of Edoʼs Party Zone(江戸の華やかなパーティー文化)」といった宣伝フレーズが用いられ、あたかも吉原を無批判にもてはやしているような印象を持たれた。
昨年のジャニーズ事務所性加害事件以来、芸能界の人権侵害に耳目が集まり、性的搾取を含めた「現代奴隷制」は「ビジネスと人権」の観点からも世界的に注目されている。その潮流のただ中で開かれた展覧会だ。批判には一定の理由がある。
しかし筆者のインタビューで古田教授は「人が殺される光景を描いた絵画を展示するに当たって、人を殺すことは悪いことだという説明を述べる必要があるだろうか」と疑問を呈した。説明を加えれば、なぜその説明を加えたのかについて更なる説明が要求され、作品自体から遠ざかりかねない。古田教授は昨年11月の段階で企画者としてこうも述べていた。
「近代が切り捨てていったものを、そのままに捉え直してみたいという気持ちから、私はこの展覧会を企画した。遊郭は現在の社会通念からは許されざる制度であり、既に完全に過去のものとなっている。それ故に失われた廓内でのしきたりや年中行事などを、優れた美術作品を通じて再検証したい」
美術展の学術顧問を務めた田中優子前法政大学総長も2021年に公刊した『遊廓と日本人』(講談社現代新書)で、遊郭の人権侵害を踏まえて「現代で吉原を論じることの問題」を詳細に検討している。今回のPR会社は、20年に国立歴史民俗博物館で展示され高い評価を得た『性差(ジェンダー)の日本史』を手がけた会社だ。
つまり主催者の問題意識は実は明確で、吉原における人権侵害という負の側面は当然に踏まえるべき前提であり、むしろ吉原を江戸の視点で「そのままに捉え直す」こと、「遊女」に差別的な視線を向けない姿勢に十分な配慮が払われていた。すなわち性的搾取があった事実を前提として、その先を見据えた企画だったのだ。ポスターのピンク色は性産業とは関係なく、遊郭で演出された舞台装置としての「桜」を表象するものだった。
本物の実力を持つが故
高橋由一『花魁』(東京芸術大学)
にもかかわらず「芸大が人権感覚の欠如した美術展を企画した」と決め付ける評価が伝播して「炎上」したのは広報戦略の見誤りに加え、そうした前提の共有可能性が現代の日本社会で揺らいでいるからだろう。SNS時代、特にコロナ禍以降の言説は誇張と刺激を追い求め、共通了解を支える土台は脆弱化している。
もう1つにはキャンセルカルチャーの台頭がある。「特定の人物・団体の言動を問題視し、集中的な批判を浴びせて表舞台から排除しようとする動き」を指すが、狭義には「現代の基準から不適切だと思われる功績を過去にさかのぼって否定する」風潮をいう。
これが過剰になると、過去の作品あるいは作品の展示自体に現在の価値観を投影して断罪することになりかねない。いわば後出しジャンケンで、美術史の積み重ねの中で定まるべき芸術作品の客観的評価が損なわれる可能性がある。
今回の『大吉原展』が扱うのは江戸期の美術品が中心であり、現代芸術(モダンアート)のキュレーションとの違いにも留意が必要だ。主として存命中の作家を扱う現代美術展では、キュレーション自体が作家・観客・キュレーターの関係性を変容させる可能性を持つ。それゆえ社会的潮流と無縁ではいられない。
これに対して古典的芸術の場合、作者は既にこの世にいないから、作品に光を当てれば生まれる影について作者の弁明を聞くことは不可能だ。だからこそ美術館には「ありのままに展示」するという謙抑性が求められる。それは単なる美徳というだけでなく、古典的芸術の展示における客観性と誠実性を担保する。
『大吉原展』は図らずも遊女の性的搾取についてどこまでの説明が必要とされるかの線引きの曖昧化、人権侵害に関する共通了解の土台が脆弱化しているという現代日本の実相を照射したが、それはこの展覧会が本物の実力を持っているが故でもある。高橋由一作『花魁』やワズワース・アテネウム美術館所蔵『吉原の花』、大英博物館からの里帰り作品などは圧巻だ。遊女の生活がリアルに紹介され、遊郭の壮大な建築構造が手に取るように分かり、吉原を支えた浮世絵の重厚な出版文化を浮き彫りにしている。
5月19 日まで続く展示は必見だ。
【動画】『大吉原展』を見た感想を語る茂木健一郎氏
北島 純(社会構想大学院大学教授)