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韓国の春に思うこと、セウォル号事故から10年

ニューズウィーク日本版 2024年4月15日 20時0分

<冬を乗り越えてやってきた韓国の春は、記憶と向き合う季節でもある>

「ちょっと韓国語の勉強でも」と、仕事をやめてソウルに渡ったのは1990年9月だった。バブル時代の終わり頃、日本を出る20代女性は結構いたけれど、周囲には「え、どうして韓国?」と不思議がられた。それは現地に行ってからも同じだった。

「我が国に何かありますか?」

あれから30年余り、韓国は大いに化けたというのか、今は世界中に韓国で暮らしたいという人びとがいる。今はもう「韓国に何があるか?」なんて聞かれない。つまり私には先見の明があった!? とかでは全くなくて、私が韓国を選んだのは自然のなりゆきだった。とにかく子どもの頃から韓国が大好きだった。というか、好きな物や人が全部韓国に関連していた。友人に「私の前世は中国人」と信じている女性がいるけれど、私もそれかもしれない。だから1年の予定だったのが、そのまま30年も暮らしてしまった。

まずは日本を離れてよかったのは、ひどかったアトピーが治ったことだった。ステロイドで黒くなった皮膚が見事に元に戻った。仕事をやめたことの効果だったかもしれない。そして1年目の春、これまたひどかった花粉症からも解放された。それだけでかなり幸せだった。

 「あなたは何しに韓国へ?」
 「デトックス」

立派な答えを期待した人々はがっかりしたかもしれない。

韓国の春は辛かった

ただし韓国の水や空気が100%優しかったわけではない。それはとても辛(から)かった。

その頃の韓国はすでに民主化後ではあったけれど、春となれば学生デモが頻発して、街には機動隊が発射する催涙ガスが充満した。目と鼻を突き刺すような強烈な痛みに、涙と鼻水が止まらなくなる。その痛みを韓国人は「メプタ、メウォ(辛い)」と表現していた。キムチや韓国料理に使う「辛い」と同じ単語だ。

春は革命の季節だ。3・1、4・3、4・19、5・18という数字が何を意味するのか、韓国に詳しい人はご存知だと思う。3.1独立運動、済州島4.3事件、4.19学生革命、5.18光州民主化運動と、韓国の春は文字通り「冬の終わり」を願う人びとの季節だった。

90年代初頭、すでに3・1と4・19は政府主催の記念式典となっていたけれど、4・3と5・18はまだ軍事政権時代のタブーを引きずっていた。当時政権の座にあった盧泰愚(ノ・テウ)大統領が、盟友である全斗煥(チョン・ドファン)前大統領とともに光州事件の被告席に立たされるのは、次の金泳三(キム・ヨンサム)政権(1993~98)になってからだった。

「国民は真実を知らされていない」――春の新歓シーズン、日本以上の厳しい受験戦争をくぐり抜けてきた新入生が知るのは、お酒や恋愛だけじゃなかった。90年代初頭の韓国の春は、学生たちの切ないほどの正義感が充満していた。そして30年後の今は、「記憶する」ことが新たなスローガンに加わっている。私たちはとても忘れやすいのだ。

「セウォル号事件」の悲しみ

韓国の春に新たな記憶が書き込まれたのは2014年4月。大型旅客船「セウォル号」が韓国南部の珍島沖の海上で転覆した。「全員救出」の速報に皆が安堵したのも束の間、それは大誤報だった。家族が現場に向かうなか、傾き始めた船はどんどん沈んでいき、人々が海に飲み込まれていった。テレビカメラはその様子をとらえていたが、誰もが眼の前で起きていることが信じられなかった。

死者・行方不明者は304名、その多くは修学旅行中の高校2年生だった。現場には海洋警察の救助船もヘリコプターもいたのに、沈みゆく船を前に何もできなかった。なぜ、助けられなかったのか。誰もが茫然自失となった。韓国全土が悲しみに包まれた沈没事故は、まさに「事件」だった。

あの日の映像は、今の韓国ではもう見られない。セウォル号事件をテーマにした映画『君の誕生日』が公開されたときも、「船の映像は出てきません」という注意書きを見て、映画館に足を運んだ人が多かった。私もその1人だった。事故当時に自分が無我夢中で書いた原稿すらも、後になって読めなくなった。そこに船の写真が掲載されていたから。それは後になって削除された9.11の映像や、放映段階で泣きながら切り取られた3.11の映像と同じだった。

今も追加される記憶

セウォル号事件の遺族たちは2月から韓国各地をまわり、4月16日にソウルに到着する全国行脚を行っている。 JTBC / YouTube

今年の4月16日で、セウォル号事件からちょうど10年となる。節目の年に、遺族たちは事故現場の海からソウルまで慰霊の行脚をし、また記録集やドキュメンタリーも作られている。そうして、私たちは新しい事実をまた知ることになった。

「やっと話せるようになりました」

その言葉はこの10年間で何度も聞いた。映画『君の誕生日』は、同じ被害者遺族すらも避けてきた母親が、やっと我が子の死に向き合えるようになるまでの物語だった。沈黙したのは、遺族だけではなかった。傷が大きすぎて語れない人もいれば、自分の傷などは小さいからと抑え込んでしまった人たちもいた。

3・11の後の日本でも、そういう話をよく聞いた。

最近、翻訳した韓国のインタビュー集に、事故の1年後に亡くなった潜水士の妻の話が出ていた。遺体収集には民間のダイバーたちがあたったのだけれど、作業の途中で亡くなった人もいたし(偶然ながら友人の高校の同級生だった)、その後に身体や精神を壊した人たちもいた。

ダイバーは犠牲者の最期の様子を見た唯一の人たちだった。沈んだ船の船室で、生徒たちの遺体は肩を組み、抱き合っていることもあり、手をしっかりつなぎ、もつれあっていることもあったという。つないだ手をはずして、1人ずつ抱きかかえて、292人を船から引き上げた。沈んだ船の中で見たことを、自分の家族にも話せなかったという。

「一刻も早く家族の元に返してあげたい」という思いで無理したことで、多くのダイバーが潜水病から骨壊死を起こして、二度と海にもぐれない身体になった。彼らは職業潜水士だったけれど、遺体収容はボランディアで行ったことであり、労災の対象にもならなかった。
そのうちの1人は4月8日の京郷新聞のインタビューで「今もパニック障害・不眠症・外傷後ストレス障害(PTSD)で睡眠薬や精神安定剤など8つの薬を飲んでいる」と語っていた。

過去の事件や事故に対して、「いつまで、そのことにこだわるのか?」という人もいる。でも今になって「やっと語れるようになった」人もいる。春が来るたびに、私たちはそうやって記憶を追加していく。記憶を語ってくれる人は、多ければ多いほどいいと思う。私たちはとても忘れやすいのだから。

セウォル号事件の記憶を語る映像

セウォル号事件の遺族について描いた映画『君の誕生日』予告編 映画カルチュア FilmIsNow Japan / YouTube 

犠牲者の捜索にあたった民間ダイバーの1人キム・サンウ氏による証言。 연합뉴스 Yonhapnews / YouTube 

修学旅行でセウォル号に乗り合わせた檀園高校の生徒たち。映像に出てくる遺品などは学校から1キロ離れた場所に教室と職員室をそのまま復元した「檀園高4.16記憶教室」にすべて移されて、事件の記憶を語り継いでいる。 주권방송 / YouTube


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