<豪フリンダース大の法科学者マリア・ゴーレイ博士らの研究チームが、部屋の空気から立ち入った人のDNAを検出し、個人を特定できる可能性を示した。空気中から証拠を検出する仕組みとは>
逃走した犯人の特定には、指紋や髪の毛、血痕といった現場に残された証拠試料の科学的な分析が大いに役立ちます。それゆえ、犯人が自分の痕跡を残さないために手袋をはめたり、犯行前に念入りにブラッシングしたりするのは、推理小説や刑事ドラマでもおなじみのシーンです。
もっとも、科学捜査は時代とともに進化しています。より少量の試料から検出できるようになったり、20世紀後半には個人の特定に威力を発揮するDNA鑑定が導入されたりして、犯人が逃げおおせることはますます難しくなってきています。
オーストラリアのフリンダース大の法科学者、マリア・ゴーレイ博士らの研究チームは、部屋の空気から立ち入った人のDNAを検出し、個人を特定できる可能性を示しました。とりわけエアコンのフィルターからは、直近にその部屋にいた人だけでなく、しばらく前に滞在した人のDNAすら採取できたといいます。研究成果は、科学学術誌「Electrophoresis」(4月2日付)に掲載されました。
科学捜査の最新技術は、どのように空気中から証拠を検出するのでしょうか。この技術が実用化すると、推理小説の犯人の描写にも影響しかねないのでしょうか。概観してみましょう。
科学捜査の歴史
犯人特定のための科学捜査は、血液や唾液、精液、汗といった体液、髪の毛や皮膚などの組織片、生体遺留物のDNA、指紋や足跡などが対象となります。
19世紀後半から西欧を中心に発展し、1893年には「犯罪科学の祖」と呼ばれるオーストリアの検事・予審判事で刑法学者のハンス・グロス氏が「刑事犯罪予審判事必携の書」を出版しました。ちょうど「シャーロック・ホームズ」シリーズが書かれた時代と重なり、作者のコナン・ドイルは当時最先端の科学捜査を作品に取り入れています。
同じ頃、スイスの生理学者ヨハネス・フリードリッヒ・ミーシェル博士はDNAの主成分と考えられる物質を発見し、「ヌクレイン」と名付けました。20世紀半ばにアメリカのジェームズ・デューイ・ワトソン博士とイギリスのフランシス・クリック博士らによってDNAの二重らせん構造が解明されると、DNAの研究は加速しました。
イギリス・レスター大のアレック・ジェフリーズ博士は85年、「ヒト特異的DNAフィンガープリント法」と題する論文を「Nature」に発表し、DNAを制限酵素で分解するとその結果には個性が現れることを示しました。この論文は警察関係者の注目を集め、世界各国の法科学の研究所でDNA鑑定を個人の特定に役立てる研究が進みました。イギリスでは86年からDNA鑑定が裁判資料に用いられ、日本でも同年より、東京大学医学部法医学教室の石山昱夫教授らによって被害者の特定や犯人の同定に利用されるようになりました。
一方、科学技術の発展によって、DNAは個体そのものからでなくても、つまり土壌や水、空気中に少量が拡散されて薄まった状態で、他の生物由来のものとごちゃまぜになって含まれていても、採取や分析できるようになっていきます。
環境DNA分析と呼ばれるこの手法は、たとえば湖の水中に放出された排泄物や粘液、剥がれ落ちた皮膚や鱗などから得られたDNAによって生息する複数種類の魚を同定できます。2019年にはイギリスのネス湖で「ネッシーは本当にいるのか」を調査するためにも用いられ、研究者らは「首長竜の生き残りではなく巨大ウナギと示唆される」と結論付けました。
空気に着目した理由
今回のフリンダース大の研究の発端は、「空気中の環境DNAから立ち去った犯人を特定することはできないか」です。実験は、南オーストラリア司法長官局の1部門であるForensic Science SA (南オーストラリア法科学所)のダンカン・テイラー博士と、ビクトリア州警察法医学部門のローランド・ファン・ウールショット博士が協力して行われました。
もともと犯罪捜査では、わずか数個のヒトの細胞からDNA鑑定をすることがあるといいます。ただし、Forensic Science SAによると、これらが証拠として役に立つ確率は低いそうです。そこで、犯罪現場でより多くのヒトDNAを溜めている可能性のあるものとして、空気に着目しました。
ヒトのDNAは、話したり呼吸したりした際に放出された唾液や、剥がれ落ちた皮膚細胞が空気中に漂って、環境DNAとして検出されることがあります。これらは犯人にとって、指紋を拭ったり犯行後に掃除をしたりしても、現場に残ってしまう可能性が高いそうです。特に、室内の空気を循環させるエアコン内部には、環境DNAが捕獲されて十分に蓄積されていることが期待されます。
実験1では、4つのオフィスと4つの住宅でエアコンを清掃して既存のDNAを除去した後に通常の生活をしてもらい、1日後、1週間後、4週間後にエアコンの様々な部位に付着した環境DNAサンプルを採取して分析しました。
その結果、1つを除くすべてのサンプルから、居住者と一致する環境DNAが見つかりました。居住空間に出入りする人の変化や滞在時間の違い、外部につながるドアの開閉の影響もあるので、一概にサンプル回収までの時間が長くなるほど環境DNAが得やすいとは言えませんが、エアコンの部位ではとりわけフィルターに多くの環境DNAが捕獲されることが分かりました。また、子供のDNAはより多く蓄積される傾向がありました。これは大人と比べて脱落率が高い(新陳代謝のサイクルが短い)せいと考えられます。
実験2では、人のいる部屋といない部屋で、採取時間と収集フィルターの種類をいくつか変えて、空気そのものからヒトDNAを採取できるかどうかを調べました。
その結果、ヒトDNAは空気からでも収集できることは示唆されましたが、フィルターの種類によっては居住者が2時間滞在しても検出できないこともありました。収集フィルターによる空気からのDNA採取は、フィルターの性能や置く場所だけでなく、居住空間の状態や私物の存在、活動内容などに影響されやすいと考えられるため、今後のさらなる調査が必要といいます。
研究を先導したゴーレイ博士は、「犯罪者が法医学的な知識を持っていたとしても、DNAの環境への放出を完全に阻止できる可能性は非常に低い」と話しており、この新しいDNA鑑定法は部屋への訪問者だけでなく、だれが日常的に使っていたかの特定にも役立つ可能性がある、と説明します。
その場合、空気サンプルの分析結果は最近その部屋を訪れた者を示す可能性が高く、エアコンフィルターから得られる結果は、以前にその部屋を使用していた者も検出できる可能性が高いと言います。
犯罪捜査に実装されるまでには、もっと多くの実験を行い精度を高める必要があります。けれど近い将来、推理小説では防護服に身を包んだ犯人が、環境DNAからの犯行発覚を恐れて、犯行後に部屋の空気を入れ替えたり、他人の唾液を霧吹きで拡散したりするシーンが見られるようになるかもしれませんね。
逃走した犯人の特定には、指紋や髪の毛、血痕といった現場に残された証拠試料の科学的な分析が大いに役立ちます。それゆえ、犯人が自分の痕跡を残さないために手袋をはめたり、犯行前に念入りにブラッシングしたりするのは、推理小説や刑事ドラマでもおなじみのシーンです。
もっとも、科学捜査は時代とともに進化しています。より少量の試料から検出できるようになったり、20世紀後半には個人の特定に威力を発揮するDNA鑑定が導入されたりして、犯人が逃げおおせることはますます難しくなってきています。
オーストラリアのフリンダース大の法科学者、マリア・ゴーレイ博士らの研究チームは、部屋の空気から立ち入った人のDNAを検出し、個人を特定できる可能性を示しました。とりわけエアコンのフィルターからは、直近にその部屋にいた人だけでなく、しばらく前に滞在した人のDNAすら採取できたといいます。研究成果は、科学学術誌「Electrophoresis」(4月2日付)に掲載されました。
科学捜査の最新技術は、どのように空気中から証拠を検出するのでしょうか。この技術が実用化すると、推理小説の犯人の描写にも影響しかねないのでしょうか。概観してみましょう。
科学捜査の歴史
犯人特定のための科学捜査は、血液や唾液、精液、汗といった体液、髪の毛や皮膚などの組織片、生体遺留物のDNA、指紋や足跡などが対象となります。
19世紀後半から西欧を中心に発展し、1893年には「犯罪科学の祖」と呼ばれるオーストリアの検事・予審判事で刑法学者のハンス・グロス氏が「刑事犯罪予審判事必携の書」を出版しました。ちょうど「シャーロック・ホームズ」シリーズが書かれた時代と重なり、作者のコナン・ドイルは当時最先端の科学捜査を作品に取り入れています。
同じ頃、スイスの生理学者ヨハネス・フリードリッヒ・ミーシェル博士はDNAの主成分と考えられる物質を発見し、「ヌクレイン」と名付けました。20世紀半ばにアメリカのジェームズ・デューイ・ワトソン博士とイギリスのフランシス・クリック博士らによってDNAの二重らせん構造が解明されると、DNAの研究は加速しました。
イギリス・レスター大のアレック・ジェフリーズ博士は85年、「ヒト特異的DNAフィンガープリント法」と題する論文を「Nature」に発表し、DNAを制限酵素で分解するとその結果には個性が現れることを示しました。この論文は警察関係者の注目を集め、世界各国の法科学の研究所でDNA鑑定を個人の特定に役立てる研究が進みました。イギリスでは86年からDNA鑑定が裁判資料に用いられ、日本でも同年より、東京大学医学部法医学教室の石山昱夫教授らによって被害者の特定や犯人の同定に利用されるようになりました。
一方、科学技術の発展によって、DNAは個体そのものからでなくても、つまり土壌や水、空気中に少量が拡散されて薄まった状態で、他の生物由来のものとごちゃまぜになって含まれていても、採取や分析できるようになっていきます。
環境DNA分析と呼ばれるこの手法は、たとえば湖の水中に放出された排泄物や粘液、剥がれ落ちた皮膚や鱗などから得られたDNAによって生息する複数種類の魚を同定できます。2019年にはイギリスのネス湖で「ネッシーは本当にいるのか」を調査するためにも用いられ、研究者らは「首長竜の生き残りではなく巨大ウナギと示唆される」と結論付けました。
空気に着目した理由
今回のフリンダース大の研究の発端は、「空気中の環境DNAから立ち去った犯人を特定することはできないか」です。実験は、南オーストラリア司法長官局の1部門であるForensic Science SA (南オーストラリア法科学所)のダンカン・テイラー博士と、ビクトリア州警察法医学部門のローランド・ファン・ウールショット博士が協力して行われました。
もともと犯罪捜査では、わずか数個のヒトの細胞からDNA鑑定をすることがあるといいます。ただし、Forensic Science SAによると、これらが証拠として役に立つ確率は低いそうです。そこで、犯罪現場でより多くのヒトDNAを溜めている可能性のあるものとして、空気に着目しました。
ヒトのDNAは、話したり呼吸したりした際に放出された唾液や、剥がれ落ちた皮膚細胞が空気中に漂って、環境DNAとして検出されることがあります。これらは犯人にとって、指紋を拭ったり犯行後に掃除をしたりしても、現場に残ってしまう可能性が高いそうです。特に、室内の空気を循環させるエアコン内部には、環境DNAが捕獲されて十分に蓄積されていることが期待されます。
実験1では、4つのオフィスと4つの住宅でエアコンを清掃して既存のDNAを除去した後に通常の生活をしてもらい、1日後、1週間後、4週間後にエアコンの様々な部位に付着した環境DNAサンプルを採取して分析しました。
その結果、1つを除くすべてのサンプルから、居住者と一致する環境DNAが見つかりました。居住空間に出入りする人の変化や滞在時間の違い、外部につながるドアの開閉の影響もあるので、一概にサンプル回収までの時間が長くなるほど環境DNAが得やすいとは言えませんが、エアコンの部位ではとりわけフィルターに多くの環境DNAが捕獲されることが分かりました。また、子供のDNAはより多く蓄積される傾向がありました。これは大人と比べて脱落率が高い(新陳代謝のサイクルが短い)せいと考えられます。
実験2では、人のいる部屋といない部屋で、採取時間と収集フィルターの種類をいくつか変えて、空気そのものからヒトDNAを採取できるかどうかを調べました。
その結果、ヒトDNAは空気からでも収集できることは示唆されましたが、フィルターの種類によっては居住者が2時間滞在しても検出できないこともありました。収集フィルターによる空気からのDNA採取は、フィルターの性能や置く場所だけでなく、居住空間の状態や私物の存在、活動内容などに影響されやすいと考えられるため、今後のさらなる調査が必要といいます。
研究を先導したゴーレイ博士は、「犯罪者が法医学的な知識を持っていたとしても、DNAの環境への放出を完全に阻止できる可能性は非常に低い」と話しており、この新しいDNA鑑定法は部屋への訪問者だけでなく、だれが日常的に使っていたかの特定にも役立つ可能性がある、と説明します。
その場合、空気サンプルの分析結果は最近その部屋を訪れた者を示す可能性が高く、エアコンフィルターから得られる結果は、以前にその部屋を使用していた者も検出できる可能性が高いと言います。
犯罪捜査に実装されるまでには、もっと多くの実験を行い精度を高める必要があります。けれど近い将来、推理小説では防護服に身を包んだ犯人が、環境DNAからの犯行発覚を恐れて、犯行後に部屋の空気を入れ替えたり、他人の唾液を霧吹きで拡散したりするシーンが見られるようになるかもしれませんね。