河原梓水(福岡女子大学国際文理学部准教授) アステイオン
<「良い人」は絶対にDVをしない? 被害者が語る「優しい加害者」を全面否定することの暴力性に関する、新しい議論について>
私はマゾヒストであり、この男性から完全に支配されることを望んでいます、と主張する女性がいたとする。私はサディストであり、この女性を縛り、鞭打つことを「愛情行為」として実践しています、と主張する男性がいたとする。これらの行為には同意があるとしよう。これらは、いわゆる「SM」と呼ばれる実践に当てはまる。
対等な成人同士による、同意の上の行為については、それがたとえ一般的な社会通念に沿わないものであっても尊重されるべき、という考えは、現在それなりに支持を得ている。しかしそうはいっても、支配や暴力行為に対する同意については、なんとなく不安を覚えることが多いはずだ。
そもそもその同意は本当に本人の意思なのか。男性のほうがかなり年上で社会的地位もある場合、女性の同意は信じられるのか。そもそもどのような関係が真に対等な関係と言えるのか。本人の気づかないうちに、誘導されているのではないか。そもそも、なぜ支配や暴力などを欲望するのか。そんな欲望を抱くこと自体が、何らかの病の症状なのではないか...そんな疑問が浮かんでくるはずである。
私が取り組んでいるSM研究は、親密な人間同士の対等性と同意、そして同意能力の確かさをめぐって浮上するこのような問いを中心的に論じてきた学問分野である。
なかでも女性マゾヒストの存在は争点のひとつであり、彼女たちは真にその行為を欲望しているのか、それとも単に、男性優位社会の社会通念を内面化しただけの「被害者」であるのかが、これまで問われてきた。
『歪な愛の倫理 〈第三者〉は暴力関係にどう応じるべきか』(筑摩書房)は、このようなSM研究の諸課題と深いかかわりをもつテーマを論じている。本書は、DVや虐待など、親密な人間の間で生じる暴力関係のうち、被害者が加害者から逃れないという事態に関する、通説的理解の再考を主張する本である。
副題の〈第三者〉とは、福祉・医療職に従事する、被害者を制度的に支援する立場の人々が主に想定され、終章を除いて、制度上の課題が中心的に議論されている。
従来、暴力の被害者が加害者のもとに留まる理由としては、経済的理由や、家族は一緒にいるべきだという規範意識、長期間の抑圧によって抵抗の意思を喪失した無力化状態、洗脳、「暴力のサイクル理論」など、十分説得的に思われる仮説が提示されてきた。
これらの仮説では、総じて被害者は暴力と支配によって正常な判断能力を失っているとされ、被害者がしばしば語る加害者への愛は、「暴力と愛を混同」した誤った認識であるとされる。したがって被害者の主張を真に受けすぎないことが、〈第三者〉が取るべき態度だとされてきた。
とりわけ、被害者に生命の危機があるような場合には、本人の主張がどのようなものであれ、強制的な介入的措置──すなわち強制的に両者を分離させること──が是とされてきた。
この強制的な介入措置に多大なメリットがあり、多数の被害者を救ってきたことを著者は否定してはいない。加害者から分離させることで、「正気」を取り戻す被害者がいることも否定していない。
しかし、このような、被害者の意思を無化した上でなされる政策だけでは取りこぼされるものがあることを著者は訴える。
「どんな理由があれ、女性に暴力を振るう男性はクズである」という見解は社会に浸透しつつあり、たとえどんなに「良い人」であっても、ハラスメントや性加害を行なった瞬間、その「良い人」の部分は嘘であったとみなされる。さらには、善人の仮面をかぶったより悪質な人物と見なされることもあるだろう。
しかし、あたかも矛盾した問いとして聞こえるだろうが、「良い人」が「良い人」のまま、暴力を振るうことは決してないのだろうか。
被害者は、少なくとも〈第三者〉よりははるかに加害者と親密であり、長いつきあいがある。にもかかわらず、〈第三者〉はしばしば被害者よりも加害者のことをよく理解しており、被害者の考える「優しい」加害者像は嘘だと考える傾向がある。
正直なところ、話に聞く「優しい」加害者の「大半」はやはり「クズ」のような気が私にもするのだが、それを当人に伝えて本人の気持ちを否定することは慎むであろうし、私が自身の家族について、初めて会った〈第三者〉から一方的に非難されれば当然抵抗を覚えるだろう。
そのような当たり前のことがこれまで考慮だにされてこなかったのは、DV・虐待被害者がいかに主体性を剥奪され、その主張が無化されているかを物語っているように思われた。
被害者の一部の声を無化する〈第三者〉のあり方は、人は苦しみから逃れようとするものであり、暴力を振るわれればその相手に恐怖と嫌悪感を持つはずで、愛することなど有り得ないという社会通念を土台としている。
とするならば、暴力や支配を自ら望むマゾヒストの存在は、〈第三者〉の基本姿勢に対する根本的な批判になり得る。しかし同時に、広く暴力と支配についてこれまで展開されてきた批判、社会をより良きものにするためになされている議論の土台を根本的に脅かすような「危険」も秘めている。
しかしながら、著者はこのようなマゾヒストの存在に、可能性を見出している。本書では、暴力から逃れない理由のひとつとして、「私はマゾヒストである」という主張が検討されている。
この主張は、暴力の原因を被害者に押し付け、加害者を免責するものとして、これまで強く批判されてきた。著者は、その批判は正当だとしながらも、この批判によって不可視化される、真に暴力を求めるマゾヒストの存在に注意をうながす。
大多数の人々を救う論理・政策は明らかに有用だ。しかしこれらが消し去ってしまう「異端」で「歪」なものたちを、著者はどうにかして拾い上げようとするのである。
本書は、〈第三者〉を読者として想定しているはずだが、加えておそらく、「何も考えられないし話すこともできない被害者」として扱われ、感情を否定されたことのある人々に向けても書かれている。
加害者を擁護する意図はないが、被害者が語る加害者像を通じて、加害者を全面的に否定する通説もゆらいでいく──論争的な本であることは間違いない。様々な立場の人に読まれ、議論が進展することを願う。
河原梓水(Azumi Kawahara)
1983年生まれ。立命館大学大学院文学研究科博士課程後期課程修了。博士(文学)。現在、福岡女子大学国際文理学部准教授。専攻は日本史。サディズム・マゾヒズム・SMを中心とする近現代日本の性文化史・思想史・メディア史。共編著に『狂気な倫理 「愚か」で「不可解」で「無価値」とされる生の肯定』(晃洋書房)、単著に『SMの思想史 戦後日本における支配と暴力をめぐる夢と欲望(※)』(青弓社、2024年5月上旬刊行予定)。
※本書は2022年度 サントリー文化財団研究助成「学問の未来を拓く」の成果書籍です。
『歪な愛の倫理 〈第三者〉は暴力関係にどう応じるべきか(※)』
小西真理子[著]
筑摩書房[刊]
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<「良い人」は絶対にDVをしない? 被害者が語る「優しい加害者」を全面否定することの暴力性に関する、新しい議論について>
私はマゾヒストであり、この男性から完全に支配されることを望んでいます、と主張する女性がいたとする。私はサディストであり、この女性を縛り、鞭打つことを「愛情行為」として実践しています、と主張する男性がいたとする。これらの行為には同意があるとしよう。これらは、いわゆる「SM」と呼ばれる実践に当てはまる。
対等な成人同士による、同意の上の行為については、それがたとえ一般的な社会通念に沿わないものであっても尊重されるべき、という考えは、現在それなりに支持を得ている。しかしそうはいっても、支配や暴力行為に対する同意については、なんとなく不安を覚えることが多いはずだ。
そもそもその同意は本当に本人の意思なのか。男性のほうがかなり年上で社会的地位もある場合、女性の同意は信じられるのか。そもそもどのような関係が真に対等な関係と言えるのか。本人の気づかないうちに、誘導されているのではないか。そもそも、なぜ支配や暴力などを欲望するのか。そんな欲望を抱くこと自体が、何らかの病の症状なのではないか...そんな疑問が浮かんでくるはずである。
私が取り組んでいるSM研究は、親密な人間同士の対等性と同意、そして同意能力の確かさをめぐって浮上するこのような問いを中心的に論じてきた学問分野である。
なかでも女性マゾヒストの存在は争点のひとつであり、彼女たちは真にその行為を欲望しているのか、それとも単に、男性優位社会の社会通念を内面化しただけの「被害者」であるのかが、これまで問われてきた。
『歪な愛の倫理 〈第三者〉は暴力関係にどう応じるべきか』(筑摩書房)は、このようなSM研究の諸課題と深いかかわりをもつテーマを論じている。本書は、DVや虐待など、親密な人間の間で生じる暴力関係のうち、被害者が加害者から逃れないという事態に関する、通説的理解の再考を主張する本である。
副題の〈第三者〉とは、福祉・医療職に従事する、被害者を制度的に支援する立場の人々が主に想定され、終章を除いて、制度上の課題が中心的に議論されている。
従来、暴力の被害者が加害者のもとに留まる理由としては、経済的理由や、家族は一緒にいるべきだという規範意識、長期間の抑圧によって抵抗の意思を喪失した無力化状態、洗脳、「暴力のサイクル理論」など、十分説得的に思われる仮説が提示されてきた。
これらの仮説では、総じて被害者は暴力と支配によって正常な判断能力を失っているとされ、被害者がしばしば語る加害者への愛は、「暴力と愛を混同」した誤った認識であるとされる。したがって被害者の主張を真に受けすぎないことが、〈第三者〉が取るべき態度だとされてきた。
とりわけ、被害者に生命の危機があるような場合には、本人の主張がどのようなものであれ、強制的な介入的措置──すなわち強制的に両者を分離させること──が是とされてきた。
この強制的な介入措置に多大なメリットがあり、多数の被害者を救ってきたことを著者は否定してはいない。加害者から分離させることで、「正気」を取り戻す被害者がいることも否定していない。
しかし、このような、被害者の意思を無化した上でなされる政策だけでは取りこぼされるものがあることを著者は訴える。
「どんな理由があれ、女性に暴力を振るう男性はクズである」という見解は社会に浸透しつつあり、たとえどんなに「良い人」であっても、ハラスメントや性加害を行なった瞬間、その「良い人」の部分は嘘であったとみなされる。さらには、善人の仮面をかぶったより悪質な人物と見なされることもあるだろう。
しかし、あたかも矛盾した問いとして聞こえるだろうが、「良い人」が「良い人」のまま、暴力を振るうことは決してないのだろうか。
被害者は、少なくとも〈第三者〉よりははるかに加害者と親密であり、長いつきあいがある。にもかかわらず、〈第三者〉はしばしば被害者よりも加害者のことをよく理解しており、被害者の考える「優しい」加害者像は嘘だと考える傾向がある。
正直なところ、話に聞く「優しい」加害者の「大半」はやはり「クズ」のような気が私にもするのだが、それを当人に伝えて本人の気持ちを否定することは慎むであろうし、私が自身の家族について、初めて会った〈第三者〉から一方的に非難されれば当然抵抗を覚えるだろう。
そのような当たり前のことがこれまで考慮だにされてこなかったのは、DV・虐待被害者がいかに主体性を剥奪され、その主張が無化されているかを物語っているように思われた。
被害者の一部の声を無化する〈第三者〉のあり方は、人は苦しみから逃れようとするものであり、暴力を振るわれればその相手に恐怖と嫌悪感を持つはずで、愛することなど有り得ないという社会通念を土台としている。
とするならば、暴力や支配を自ら望むマゾヒストの存在は、〈第三者〉の基本姿勢に対する根本的な批判になり得る。しかし同時に、広く暴力と支配についてこれまで展開されてきた批判、社会をより良きものにするためになされている議論の土台を根本的に脅かすような「危険」も秘めている。
しかしながら、著者はこのようなマゾヒストの存在に、可能性を見出している。本書では、暴力から逃れない理由のひとつとして、「私はマゾヒストである」という主張が検討されている。
この主張は、暴力の原因を被害者に押し付け、加害者を免責するものとして、これまで強く批判されてきた。著者は、その批判は正当だとしながらも、この批判によって不可視化される、真に暴力を求めるマゾヒストの存在に注意をうながす。
大多数の人々を救う論理・政策は明らかに有用だ。しかしこれらが消し去ってしまう「異端」で「歪」なものたちを、著者はどうにかして拾い上げようとするのである。
本書は、〈第三者〉を読者として想定しているはずだが、加えておそらく、「何も考えられないし話すこともできない被害者」として扱われ、感情を否定されたことのある人々に向けても書かれている。
加害者を擁護する意図はないが、被害者が語る加害者像を通じて、加害者を全面的に否定する通説もゆらいでいく──論争的な本であることは間違いない。様々な立場の人に読まれ、議論が進展することを願う。
河原梓水(Azumi Kawahara)
1983年生まれ。立命館大学大学院文学研究科博士課程後期課程修了。博士(文学)。現在、福岡女子大学国際文理学部准教授。専攻は日本史。サディズム・マゾヒズム・SMを中心とする近現代日本の性文化史・思想史・メディア史。共編著に『狂気な倫理 「愚か」で「不可解」で「無価値」とされる生の肯定』(晃洋書房)、単著に『SMの思想史 戦後日本における支配と暴力をめぐる夢と欲望(※)』(青弓社、2024年5月上旬刊行予定)。
※本書は2022年度 サントリー文化財団研究助成「学問の未来を拓く」の成果書籍です。
『歪な愛の倫理 〈第三者〉は暴力関係にどう応じるべきか(※)』
小西真理子[著]
筑摩書房[刊]
(※画像をクリックするとアマゾンに飛びます)