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「なぜここに?」アレクサンドロス大王の肖像が刻まれた工芸品を「意外な場所」で発見

ニューズウィーク日本版 2024年4月24日 11時50分

アリストス・ジョージャウ
<専門家は「謎めいた、素晴らしい発見」だと主張している>

金属探知機で発見された「独特の」工芸品は、考古学者によれば、アレクサンドロス大王の肖像が刻まれていた。だがそれが見つかった意外な場所に、専門家は首をひねっている。

【画像】「なぜここに?」アレクサンドロス大王の肖像が刻まれた工芸品を「意外な場所」で発見

問題のオブジェはフィン・イブセンとラース・ダニエルセンが発見した小さな青銅の工芸品で、直径は2.5センチほど。発見場所はデンマークのシェラン島中部に位置するレングステズ近郊だった。

「謎めいた、そしてこの分野では間違いなく素晴らしい発見だ」。西シェラン博物館はフェイスブックでそう解説している。「フィンとラースがレングステズ近郊の遺跡で金属探知機を使っていたところ、突然の発見に目を見張った。小さな、そして途方もない発見だった」

青銅の円盤は紀元200年ごろのものと思われ、古代最も偉大な支配者の1人だったアレクサンドロス大王の肖像が片面に刻まれていた。

アレクサンドロス大王は紀元前336年から32歳で死亡する同323年まで、ギリシャ半島の北東部にあった古代マケドニア王国の王だった。

在位中、アレクサンドロス大王は目覚ましい戦果を重ね、ギリシャからインド北西部に至る世界最大級の帝国を築いた。戦争で1度も敗北せず、史上最大の成果を収めた軍事司令官の1人だったとされる。

死後100年あまりで既に崇拝の的となり、歴代ローマ皇帝の模範となった。カラカラ帝(紀元198年-217年)は、自らをアレクサンドロス大王の生まれ変わりと称した。

「(アレクサンドロス大王は)伝説となり、その権力は正当化された。続く支配者の多くはその顔を好んで使い、アレクサンドロス大王とのつながりを誇示した」。西シェラン博物館の考古学者フレーク・オルデンブルガーはデンマークの放送局TV2 Ostにそう語った。

レングステズ近郊で見つかった青銅の工芸品(鉛の痕跡もあった)に刻まれた肖像がアレクサンドロス大王だったことは、波打つ髪と耳の横の羊の角のおかげですぐに分かる。

「素晴らしい。ここスカンジナビアでは普通、アレクサンドロス大王に関係するものは見つからない」(オルデンブルガー)

同氏によると、この肖像はデンマーク本土のイレルプオーダル遺跡で見つかったものとよく似ている。同地は紀元200年ごろ、ゲルマン人の2つの民族の間で起きた大戦の地だった。この年代は、シェラン島の青銅の工芸品が制作された時代とほぼ一致する。

同遺跡では、戦士の肖像が刻まれた小さな円盤状の装飾をあしらった盾が出土している。その1つは前述のアレクサンドロス大王の肖像が刻まれていて、シェラン島で見つかった工芸品の肖像とそっくりだった。

ただ、描かれていたのが明らかにアレクサンドロス大王だったにもかかわらず、今回の発見からは現段階で答え以上に多くの疑問が浮上した。例えば、このオブジェを制作したのが、やはり鉛を含む合金を彫像の鋳造に使用していたローマ人だったのかどうかがはっきりしない。溶かした彫像からローマ人が鋳造したのか、それとも溶かす工程がシェラン島で行われたのかも不明だ。

もしこれを鋳造したのがローマ人だったとすれば、どうやってシェラン島にたどり着いたのか。ローマが征服した領地が、現在のデンマークの占領地に達したことはなかった。だが、ローマ人はかつてこの地に住んでいたゲルマン人と交易していた。

一方、もしこれがゲルマン由来だとすると、ゲルマン人にとっての重要性は何だったのか。ゲルマン人はこれが戦場で幸運をもたらすと信じたのか。これが誰の顔なのかさえ、認識していたのか。

「彼らがこれを自分たち自身の神と見ていた可能性もある。しかし彼らは知っていたと私は思う。アレクサンドロスの神話は欧州、アジア、北アフリカであまりに大きかった」とオルデンブルガーは推測する。

このオブジェの使い道もはっきりしない。例えば盾の円盤装飾だった可能性も、剣のさやのベルトの一部だった可能性もある。

「この小さな青銅の円盤は、どんなに小さい考古品でも、とてつもない物語を秘めている可能性があることを物語る」。オルデンブルガーはプレスリリースでそう言い添えた。

「これは世界史上、最も有名な人物の1人に関係するスカンジナビア独特の発見だ」

(翻訳:鈴木聖子)

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