酒井朋子(京都大学人文科学研究所准教授) アステイオン
<3年間つづり続けた「汚さの記録」が明らかにした人間の日常の営みとギリギリのバランス、そして「汚穢(おわい)」について>
日々のきたなさと乱雑さの記録
「きたない.docx」と題したファイルを作ってから3年ほどになる。日々の生活のなかのよごれや乱雑さについて、あるいはそれらに対する自分の反応を書き留めていく記録だ。
なぜそんな記録をとり始めたのかと言えば、「汚穢(おわい)の倫理」という研究を始めることになったからである。研究仲間とともに生活の現場について考える研究会を起こそうとしていたとき、新しい視界をひらいてくれそうなテーマとして浮かび上がったのが「汚穢」だった。
これまで汚穢に関する重要な研究は、死の象徴体系を検討するケガレ論や、近代市民社会や国民国家の形成過程における「清潔な主体」構築を分析する歴史社会学において重ねられてきており、今なおそれらの知見の重要性は揺らいでいない。
しかし生活の現場に這おうとするからには、また別の焦点を定める必要がある。そのために、ためしに始めたのが上の記録だった。
なおこの研究の成果は、『汚穢のリズム──きたなさ・おぞましさの生活考』(左右社、2024年)として刊行している。体臭、体から漏れ出るもの、傷、空間の片付かなさなど日常経験から出発し、都市空間の分断や、命をはぐくむ「にごり」等についても考えていく本である。
「けがれたもの」の象徴性と隔離にかかわる権力のしくみ、という従来の問題意識を引き継ぎつつ、人が「きたないもの」「おぞましいもの」と一体化したりそこから距離をとったりしつつ、長期的にかかわりながら生活を紡いでいく様子を描き出した。
そして汚れと乱れの生活記録は、研究が進んでいく過程で重要なアイディア源となったのだった。
生きる身体への忌避と愛着
この記録行為を通じて実感されたことがいくつかある。
まず、とにかく時間がかかった。書いても書いてもきりがない。
排泄、入浴、着替え。ごみや不要物への向き合い方。片づけ、掃除、洗濯、皿洗い。共同生活する子どもの身体ケアなどなど(わたしの家では、いわゆる「家事」と育児は、成人がほぼ均等割で担っている)。予想外に多様な作業が記録の対象として浮かび上がった。
時間がかかったのは、記録スタイルのためもあった。たとえば「掃除」にしても、この言葉ひとつで済ませては何も見えない。自分がその作業のなかで、何にどのように触れ、何を変えたのか、その内実を「ひらいて」書いていかなくては新しい気づきは浮かばない。
とはいえ、実践するのはたやすくなかった。ほかの作業の時間を圧迫することもしばしばで、しだいに毎日記録を更新できなくなっていった。数日、時には1週間以上、記録がとだえることもあった。
そんななかで、ふと気づいたことがある。日々を構成する作業と時間のうち驚くほど多くの部分が、実はきたなさや乱れや不要物との物理的なかかわりに当てられていること、それ自体が重要な発見なのだ。
たとえば記録の重要な対象だった排泄や月経は、避けようもなく身体に起きる事柄である。抜けた体毛、排泄物、垢や体臭なども生きているかぎりとめどなく生み出され続ける。
これらを汚穢と見なすのであれば、汚穢は生そのものとも言える。
さらに、身体のにおいや分泌物、あるいは皮膚のかぶれやできものなどの生起と変化を継続的に見て・ふれて・嗅いで感じることは、目の前の身体や存在への愛着や、生体の不思議に対する感嘆にもつながっていた。
もちろん、自分自身を研究対象とするときには気をつけるべき側面もある。研究者本人に構造的に見えにくい事柄を記述・考察できないのだ。
わたしの行動が歴史的・地域的に(そしてあるいは社会階層的に)特異なものであることや、その清潔感覚が上下水道設備などの近代インフラに依存していることは、わたしの記録のみからは見えてこない。
しかし、自分の生活を分析することではじめて気づける事柄が確かにある。この研究においては、自分と他者の体をケアし体を休める環境を物理的につくっていく作業が、生の根幹にあるということだった。その多くは、通常「家事」として括られてきた作業なのだった。
よごれや乱れを生み出しながらそれらに対処する生の営み
ハンナ・アーレント『人間の条件』(ちくま学芸文庫、1994年)における労働・仕事・活動に関する議論でも知られるように、生きる身体の維持にかかわる営みや作業は、古代から現在まで、人間を人間たらしめる重要な営みだとは考えられてこなかった。
それは下層の特定の属性や階級の人間に──あるいは今日であれば機械に──まかせておくべきものだったのだ。
医療人類学者アネマリー・モルは、「食べる」営みをめぐって身体の内外で起きている事象を微細に分析した著作のなかで、こうした考え方がくつがえる可能性を示唆する(Eating in Theory, Duke University Press, 2021)。
そして、生きる身体の維持にかかわる作業のほとんどは、よごれや乱れを生み出しながら、それらに対処していく営みなのである。
汚穢とは、通常の分類からはみ出た例外的なもののことである──。不浄についての人類学の古典、『汚穢と禁忌』(ちくま学芸文庫、2009年)において、かつてメアリ・ダグラスはそう書いた。しかし例外的なのは、実はきれいに分類可能なものごとのほうではないのか。
汚穢とは、様々なものが境界をはみ出し混じり合う、生命力と危険に満ちた場である。そのただなかで、自分と他者とが生き続けることができる状況をかろうじて保とうとする。人の日常の営みとは、おそらくそのようなものなのである。
酒井朋子(Tomoko Sakai)
京都大学人文科学研究所准教授。Ph.D(ブリストル大学)。「危機のなかにある日常」をテーマに、紛争や災害、公害にかかわる人類学研究を行なう。主なフィールドはアイルランド、イギリス、福島県東部。主な著作に『紛争という日常──北アイルランドの記憶と語りの民族誌』(人文書院、2015年)、『汚穢のリズム──きたなさ・おぞましさの生活考』(左右社、2024年、共編著)。
※本書は2021年度 サントリー文化財団研究助成「学問の未来を拓く」の成果書籍です。
『汚穢のリズム──きたなさ・おぞましさの生活考』
酒井朋子/中村沙絵/奥田太郎/福永真弓/オスカー・レン/古田徹也/原口剛/比嘉理麻/市原佐都子/斎藤喬/藤原辰史/井上菜都子[著]
左右社[刊]
(※画像をクリックするとアマゾンに飛びます)
<3年間つづり続けた「汚さの記録」が明らかにした人間の日常の営みとギリギリのバランス、そして「汚穢(おわい)」について>
日々のきたなさと乱雑さの記録
「きたない.docx」と題したファイルを作ってから3年ほどになる。日々の生活のなかのよごれや乱雑さについて、あるいはそれらに対する自分の反応を書き留めていく記録だ。
なぜそんな記録をとり始めたのかと言えば、「汚穢(おわい)の倫理」という研究を始めることになったからである。研究仲間とともに生活の現場について考える研究会を起こそうとしていたとき、新しい視界をひらいてくれそうなテーマとして浮かび上がったのが「汚穢」だった。
これまで汚穢に関する重要な研究は、死の象徴体系を検討するケガレ論や、近代市民社会や国民国家の形成過程における「清潔な主体」構築を分析する歴史社会学において重ねられてきており、今なおそれらの知見の重要性は揺らいでいない。
しかし生活の現場に這おうとするからには、また別の焦点を定める必要がある。そのために、ためしに始めたのが上の記録だった。
なおこの研究の成果は、『汚穢のリズム──きたなさ・おぞましさの生活考』(左右社、2024年)として刊行している。体臭、体から漏れ出るもの、傷、空間の片付かなさなど日常経験から出発し、都市空間の分断や、命をはぐくむ「にごり」等についても考えていく本である。
「けがれたもの」の象徴性と隔離にかかわる権力のしくみ、という従来の問題意識を引き継ぎつつ、人が「きたないもの」「おぞましいもの」と一体化したりそこから距離をとったりしつつ、長期的にかかわりながら生活を紡いでいく様子を描き出した。
そして汚れと乱れの生活記録は、研究が進んでいく過程で重要なアイディア源となったのだった。
生きる身体への忌避と愛着
この記録行為を通じて実感されたことがいくつかある。
まず、とにかく時間がかかった。書いても書いてもきりがない。
排泄、入浴、着替え。ごみや不要物への向き合い方。片づけ、掃除、洗濯、皿洗い。共同生活する子どもの身体ケアなどなど(わたしの家では、いわゆる「家事」と育児は、成人がほぼ均等割で担っている)。予想外に多様な作業が記録の対象として浮かび上がった。
時間がかかったのは、記録スタイルのためもあった。たとえば「掃除」にしても、この言葉ひとつで済ませては何も見えない。自分がその作業のなかで、何にどのように触れ、何を変えたのか、その内実を「ひらいて」書いていかなくては新しい気づきは浮かばない。
とはいえ、実践するのはたやすくなかった。ほかの作業の時間を圧迫することもしばしばで、しだいに毎日記録を更新できなくなっていった。数日、時には1週間以上、記録がとだえることもあった。
そんななかで、ふと気づいたことがある。日々を構成する作業と時間のうち驚くほど多くの部分が、実はきたなさや乱れや不要物との物理的なかかわりに当てられていること、それ自体が重要な発見なのだ。
たとえば記録の重要な対象だった排泄や月経は、避けようもなく身体に起きる事柄である。抜けた体毛、排泄物、垢や体臭なども生きているかぎりとめどなく生み出され続ける。
これらを汚穢と見なすのであれば、汚穢は生そのものとも言える。
さらに、身体のにおいや分泌物、あるいは皮膚のかぶれやできものなどの生起と変化を継続的に見て・ふれて・嗅いで感じることは、目の前の身体や存在への愛着や、生体の不思議に対する感嘆にもつながっていた。
もちろん、自分自身を研究対象とするときには気をつけるべき側面もある。研究者本人に構造的に見えにくい事柄を記述・考察できないのだ。
わたしの行動が歴史的・地域的に(そしてあるいは社会階層的に)特異なものであることや、その清潔感覚が上下水道設備などの近代インフラに依存していることは、わたしの記録のみからは見えてこない。
しかし、自分の生活を分析することではじめて気づける事柄が確かにある。この研究においては、自分と他者の体をケアし体を休める環境を物理的につくっていく作業が、生の根幹にあるということだった。その多くは、通常「家事」として括られてきた作業なのだった。
よごれや乱れを生み出しながらそれらに対処する生の営み
ハンナ・アーレント『人間の条件』(ちくま学芸文庫、1994年)における労働・仕事・活動に関する議論でも知られるように、生きる身体の維持にかかわる営みや作業は、古代から現在まで、人間を人間たらしめる重要な営みだとは考えられてこなかった。
それは下層の特定の属性や階級の人間に──あるいは今日であれば機械に──まかせておくべきものだったのだ。
医療人類学者アネマリー・モルは、「食べる」営みをめぐって身体の内外で起きている事象を微細に分析した著作のなかで、こうした考え方がくつがえる可能性を示唆する(Eating in Theory, Duke University Press, 2021)。
そして、生きる身体の維持にかかわる作業のほとんどは、よごれや乱れを生み出しながら、それらに対処していく営みなのである。
汚穢とは、通常の分類からはみ出た例外的なもののことである──。不浄についての人類学の古典、『汚穢と禁忌』(ちくま学芸文庫、2009年)において、かつてメアリ・ダグラスはそう書いた。しかし例外的なのは、実はきれいに分類可能なものごとのほうではないのか。
汚穢とは、様々なものが境界をはみ出し混じり合う、生命力と危険に満ちた場である。そのただなかで、自分と他者とが生き続けることができる状況をかろうじて保とうとする。人の日常の営みとは、おそらくそのようなものなのである。
酒井朋子(Tomoko Sakai)
京都大学人文科学研究所准教授。Ph.D(ブリストル大学)。「危機のなかにある日常」をテーマに、紛争や災害、公害にかかわる人類学研究を行なう。主なフィールドはアイルランド、イギリス、福島県東部。主な著作に『紛争という日常──北アイルランドの記憶と語りの民族誌』(人文書院、2015年)、『汚穢のリズム──きたなさ・おぞましさの生活考』(左右社、2024年、共編著)。
※本書は2021年度 サントリー文化財団研究助成「学問の未来を拓く」の成果書籍です。
『汚穢のリズム──きたなさ・おぞましさの生活考』
酒井朋子/中村沙絵/奥田太郎/福永真弓/オスカー・レン/古田徹也/原口剛/比嘉理麻/市原佐都子/斎藤喬/藤原辰史/井上菜都子[著]
左右社[刊]
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