ジャンナ・ネムツォワ(「自由のためのボリス・ネムツォフ財団・共同創設者」)
<邪魔者を全て抹殺するプーチンから祖国と自由と法の支配を守るため私は闘い続ける>
私の父、ボリス・ネムツォフ(ロシアのエリツィン政権で第1副首相を務めた)は2007年に『反逆者の告白』という本を出し、その序文で政界復帰を宣言した。
ロシアのウラジーミル・プーチン大統領が自国のために選んだ道、民主主義に背を向けて独裁制に向かう道は根本的に間違っている。何としても止めなければ──そんな思いに駆られたのだ。
当時、父の訴えに人々は耳を貸さなかった。ロシアに限った話ではないが、景気が良かったこともその一因だ。
私は05年に大学を出て資産運用会社で働いていた。当時ロシアの証券市場は活気に満ち、仕事は面白かった。私のごく普通の暮らしが激変するとは、思ってもいなかった。
転機となった出来事は2つある。1つは14年のクリミア併合。プーチンは越えてはならない一線を越えたと、私は思った。2つ目はその翌年、父が暗殺されたことだ。
当時、私は父に会って、クリミア侵攻で身の危険がかなり高まっていると思う、と忠告していた。国外脱出を真剣に考えてほしい、と。父は笑って言った。「本当に危なくなったら、そう言うよ」
父のレガシーを受け継ぐ
驚いたのは、クリミア侵攻をきっかけに国中が一気に愛国的熱狂に包まれたこと。このとき私はビジネス専門の民間のテレビ局RBCで働いていた。同僚たちは現代的で、西側寄りだったから、侵攻にも批判的だろうと思った。でも違った。「クリミア奪還」に万歳を叫ぶばかり。私は彼らの正気を疑った。
父が殺されたのは15年2月27日の真夜中。私はアパートで寝ていた。翌日一緒にイタリアに旅する予定だったので、その晩は母も私のアパートに泊まりに来ていて、母が携帯で友人から知らせを聞いたのだった。母は泣きながら私の部屋に入ってきて告げた。「たった今、あなたのお父さんが撃たれて亡くなった」と。
ロシアで起きる主要な政治的暗殺事件は全て、元をたどればプーチンに責任がある。父だけではない。アレクセイ・ナワリヌイも、アンナ・ポリトコフスカヤも、ほか何人も......。プーチンが認めなければ、殺されることにはならなかったはずだ。
父の暗殺後、私は祖国を去る決心をした。周囲からは「なぜ? 警戒しすぎじゃない?」などと言われた。
その後22年にロシアがウクライナに本格的に侵攻すると、何十万ものロシア人がろくに準備する時間もなく祖国から逃げだすことになった。
プーチンが大統領職に復帰した2012年の選挙を控え、厳寒のモスクワでデモを率いるネムツォフ(中央) KONSTANTIN ZAVRAZHIN/GETTY IMAGES
亡命後、私の生活はがらりと変わった。ゼロから立て直すことになり、ドイツの国際公共放送ドイチェ・ウェレの記者として働き始め、主に旧ソ連圏出身の政治家や指導者にインタビューした。
それまで政治や市民活動の経験はなかった。でも私は父の政治的レガシーを受け継ぎたいと思い、仲間と共に「自由のためのボリス・ネムツォフ財団」を設立した。
この9年余りで、ロシア国内にとどまった人も国外に出た人も「消される」リスクは大幅に高まった。
ナワリヌイが獄死したことを知ったとき、私はミュンヘン安全保障会議の会場にいた。ショックだった。ナワリヌイは個人的な友人でもある。プーチンが殺害を命じたに違いないと思った。邪魔者を全て抹殺する気なのだろう。
今はとても暗い時代だ。ウクライナにとっても、ロシアにとっても、ロシアの反体制派にとっても。
ロシアの今の現実を分析するのに民主主義の枠組みを当てはめないでほしい。ロシアには本物の野党は存在しないが、ジャーナリストや知識人らを中心に体制批判の動きはある。ナワリヌイが設立した「反腐敗財団」は今でも強固に組織化された反体制派として大きな影響力を持っている。
ただ、反体制派は経済やインフラ、医療、教育など、ロシアの人々にとって切実な問題を十分に語っていない。魅力的な新しいアプローチでこうした問題を語らなければ。彼らは自由の価値や民主主義といった壮大な概念を説明しようとするが、真剣に耳を傾ける人がどれだけいるだろう。
生き残ることこそが使命
もちろん、未来のビジョンを提示する必要はある。ナワリヌイの言う「明日の美しいロシア」を。その構想づくりが私たちに課せられた仕事だ。希望がないとは思わない。リスクはとても大きいが、だからといって、諦めたり、何もしないわけにはいかない。
ナワリヌイが好んで引用した名言によると、「悪が勝利するために唯一必要なことは、善人が何もしないこと」だ。
今でも私は、ロシア国内から始まる変化に期待している。亡命者にできるのは支援や助言を提供すること。変革の旗手は国内から現れるだろう。
私がまずやるべきことは、生き残ること。そして、ネムツォフ財団のリーダーとして声を上げること。亡命者が移住先の社会に溶け込み、キャリアを築けるよう支援し、人的資本を守る必要がある。
外国人の寄付頼みから脱して、自分たちの資金でロシアの市民運動を支援できる体制をつくりたい。それにメディア。報道インフラとロシア語報道機関が必要だ。それを通じて私たちのメッセージを流し、ロシアの人々が外界から孤絶しないようにしなければ。
私の最新のプロジェクトは「民主主義のためのベンチャーファンド」。ロシアとベラルーシ、さらには旧ソ連圏出身のプーチンと関係がないクリーンな起業家の事業に投資するファンドで、目標を上回った投資収益の50%をロシアの市民団体に寄付する予定だ。
こうした取り組みは世界初であり、ロシア出身のベテラン投資家たちの理解を得て、ファンド設立にこぎ着けられたことに感謝している。
生き残って闘い続ける──それが今の私の使命だ。
<邪魔者を全て抹殺するプーチンから祖国と自由と法の支配を守るため私は闘い続ける>
私の父、ボリス・ネムツォフ(ロシアのエリツィン政権で第1副首相を務めた)は2007年に『反逆者の告白』という本を出し、その序文で政界復帰を宣言した。
ロシアのウラジーミル・プーチン大統領が自国のために選んだ道、民主主義に背を向けて独裁制に向かう道は根本的に間違っている。何としても止めなければ──そんな思いに駆られたのだ。
当時、父の訴えに人々は耳を貸さなかった。ロシアに限った話ではないが、景気が良かったこともその一因だ。
私は05年に大学を出て資産運用会社で働いていた。当時ロシアの証券市場は活気に満ち、仕事は面白かった。私のごく普通の暮らしが激変するとは、思ってもいなかった。
転機となった出来事は2つある。1つは14年のクリミア併合。プーチンは越えてはならない一線を越えたと、私は思った。2つ目はその翌年、父が暗殺されたことだ。
当時、私は父に会って、クリミア侵攻で身の危険がかなり高まっていると思う、と忠告していた。国外脱出を真剣に考えてほしい、と。父は笑って言った。「本当に危なくなったら、そう言うよ」
父のレガシーを受け継ぐ
驚いたのは、クリミア侵攻をきっかけに国中が一気に愛国的熱狂に包まれたこと。このとき私はビジネス専門の民間のテレビ局RBCで働いていた。同僚たちは現代的で、西側寄りだったから、侵攻にも批判的だろうと思った。でも違った。「クリミア奪還」に万歳を叫ぶばかり。私は彼らの正気を疑った。
父が殺されたのは15年2月27日の真夜中。私はアパートで寝ていた。翌日一緒にイタリアに旅する予定だったので、その晩は母も私のアパートに泊まりに来ていて、母が携帯で友人から知らせを聞いたのだった。母は泣きながら私の部屋に入ってきて告げた。「たった今、あなたのお父さんが撃たれて亡くなった」と。
ロシアで起きる主要な政治的暗殺事件は全て、元をたどればプーチンに責任がある。父だけではない。アレクセイ・ナワリヌイも、アンナ・ポリトコフスカヤも、ほか何人も......。プーチンが認めなければ、殺されることにはならなかったはずだ。
父の暗殺後、私は祖国を去る決心をした。周囲からは「なぜ? 警戒しすぎじゃない?」などと言われた。
その後22年にロシアがウクライナに本格的に侵攻すると、何十万ものロシア人がろくに準備する時間もなく祖国から逃げだすことになった。
プーチンが大統領職に復帰した2012年の選挙を控え、厳寒のモスクワでデモを率いるネムツォフ(中央) KONSTANTIN ZAVRAZHIN/GETTY IMAGES
亡命後、私の生活はがらりと変わった。ゼロから立て直すことになり、ドイツの国際公共放送ドイチェ・ウェレの記者として働き始め、主に旧ソ連圏出身の政治家や指導者にインタビューした。
それまで政治や市民活動の経験はなかった。でも私は父の政治的レガシーを受け継ぎたいと思い、仲間と共に「自由のためのボリス・ネムツォフ財団」を設立した。
この9年余りで、ロシア国内にとどまった人も国外に出た人も「消される」リスクは大幅に高まった。
ナワリヌイが獄死したことを知ったとき、私はミュンヘン安全保障会議の会場にいた。ショックだった。ナワリヌイは個人的な友人でもある。プーチンが殺害を命じたに違いないと思った。邪魔者を全て抹殺する気なのだろう。
今はとても暗い時代だ。ウクライナにとっても、ロシアにとっても、ロシアの反体制派にとっても。
ロシアの今の現実を分析するのに民主主義の枠組みを当てはめないでほしい。ロシアには本物の野党は存在しないが、ジャーナリストや知識人らを中心に体制批判の動きはある。ナワリヌイが設立した「反腐敗財団」は今でも強固に組織化された反体制派として大きな影響力を持っている。
ただ、反体制派は経済やインフラ、医療、教育など、ロシアの人々にとって切実な問題を十分に語っていない。魅力的な新しいアプローチでこうした問題を語らなければ。彼らは自由の価値や民主主義といった壮大な概念を説明しようとするが、真剣に耳を傾ける人がどれだけいるだろう。
生き残ることこそが使命
もちろん、未来のビジョンを提示する必要はある。ナワリヌイの言う「明日の美しいロシア」を。その構想づくりが私たちに課せられた仕事だ。希望がないとは思わない。リスクはとても大きいが、だからといって、諦めたり、何もしないわけにはいかない。
ナワリヌイが好んで引用した名言によると、「悪が勝利するために唯一必要なことは、善人が何もしないこと」だ。
今でも私は、ロシア国内から始まる変化に期待している。亡命者にできるのは支援や助言を提供すること。変革の旗手は国内から現れるだろう。
私がまずやるべきことは、生き残ること。そして、ネムツォフ財団のリーダーとして声を上げること。亡命者が移住先の社会に溶け込み、キャリアを築けるよう支援し、人的資本を守る必要がある。
外国人の寄付頼みから脱して、自分たちの資金でロシアの市民運動を支援できる体制をつくりたい。それにメディア。報道インフラとロシア語報道機関が必要だ。それを通じて私たちのメッセージを流し、ロシアの人々が外界から孤絶しないようにしなければ。
私の最新のプロジェクトは「民主主義のためのベンチャーファンド」。ロシアとベラルーシ、さらには旧ソ連圏出身のプーチンと関係がないクリーンな起業家の事業に投資するファンドで、目標を上回った投資収益の50%をロシアの市民団体に寄付する予定だ。
こうした取り組みは世界初であり、ロシア出身のベテラン投資家たちの理解を得て、ファンド設立にこぎ着けられたことに感謝している。
生き残って闘い続ける──それが今の私の使命だ。