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写真花嫁、戦争花嫁...「異人種間結婚」から生まれたもう一つの「日系アメリカ人文学」の100年

ニューズウィーク日本版 2024年5月22日 11時5分

ウォント盛香織(甲南女子大学国際学部国際英語学科教授) アステイオン
<人種差別、家族、ルーツなど「居場所のなさ」や「今の経験」をテーマに進化し続けてきた「日系アメリカ人文学」について。『アステイオン』99号の特集「境界を往還する芸術家たち」より「多人種化する日系アメリカ人作家」を一部抜粋> 

日本人移民が日系アメリカ人となり、
多人種化するまでの物語

2020年のアメリカ国勢調査では、日系アメリカ人はアメリカに現在およそ150万人暮らしている。日本人のアメリカへの移民は明治元年(1868年)のハワイ移民から始まり、アメリカ本土に広がっていった。

当時の日本の家父長・長子制度で生活の資を持たない次男、三男といった男性や、明治の新しい時代の中で、アメリカでの学問やビジネスチャンスを求める男性がアメリカに渡っていった。

こうした人々は、アメリカで一旗揚げた後、帰国することを願う人が多かったが、アメリカでの生活は多くの人々にとって楽なものではなく、その日暮らしをするだけで精一杯であり、帰国は困難であった。

こうした男性はアメリカに根を下ろすことになるが、問題が結婚相手であった。当時のアメリカでは多くの州で異人種間結婚禁止法が施行されており、日本人男性の結婚相手を他人種に求めることは難しかった。

そこで、結婚を希望する男性の中には、故郷の親族や仲人に結婚相手を紹介してもらうよう依頼する者もいた。海を越えてのこの見合いは、当事者の写真と手紙の交換を通じて行われたため、結婚に応じた日本人女性たちは写真花嫁と呼ばれた。

日本人花婿と写真花嫁たちの多くは、やがて子を作った。国籍に関して出生地主義を採るアメリカでは、日本人移民の子どもたちはアメリカ人として生まれ、つまり日系アメリカ人となっていった。

日本人移民とその子どもたちのアメリカでの生活は1941年12月7日に大日本帝国軍がハワイの真珠湾を攻撃した時に一変した。

フランクリン・ルーズベルト大統領は大統領令9066号を発令し、当時アメリカ西海岸に住んでいた約12万人の日系アメリカ人たちを、アメリカに危害を加えうる敵性外国人とし、強制収容を命じ、彼/女たちの生活基盤を一夜にして奪った。

日系アメリカ人強制収容は、当事者たちにとって、日本人であるがゆえに受けた理不尽な人種差別であったことから、強制収容以降、日系アメリカ人たちの中には、日本人ルーツを持つことを恥じ、忠誠なアメリカ人であろうとした人もいた。

彼/女たちはアメリカの主流社会に同化していき、結婚相手も日本人以外とする者も現れた。こうして日系アメリカ人の多人種化が始まった。

日系アメリカ人の多人種化の他の要因としては、1924年以降、日本人移民が禁止されたこともある。明治元年以来続いていたアメリカへの日本人移民は、白人社会から煙たがられるようになる。

白人たちの中には、日本人移民が安い賃金で働くことで、自分たちの賃金が下がることを嫌がり、また日本人移民が子沢山であることで、白人社会がアジア化することを恐れる人々がいた。

彼/女らは立法者に働きかけ、1924年にアジア人移民排斥法を作ってしまう。日系アメリカ人は数的に少なくなり、結婚適齢期を迎えた日系アメリカ人は、他の人種グループに結婚相手を求めざるをえなくなり、日系アメリカ人の多人種化が進んでいった。1967年に廃止された異人種間結婚禁止法も、多人種化に拍車をかけた。

日系アメリカ人の多人種化のもう1つの要因として、戦争花嫁の存在が挙げられる。

第二次世界大戦に敗戦した日本は、アメリカ軍を中心とする進駐軍に占領された。この占領中にアメリカ軍兵士と結婚した日本人女性を戦争花嫁という。戦争花嫁の多くが異人種間結婚をしており、複数の人種ルーツを持つ日系アメリカ人が生まれていった。

日系アメリカ人の多人種化は、このように19世紀末からアメリカに移民した日本人移民の子どもたちの異人種間結婚や、20世紀中葉以降にアメリカに渡った戦争花嫁の異人種間結婚の結果である。

時代によってその背景は異なるが、それぞれの集団に属する複数の人種ルーツを持つ日系アメリカ人が自分の経験を元に文学を作り出している。

複数の人種ルーツを持つ日系アメリカ人作家の文学テーマの概観

複数の人種ルーツを持つ日系アメリカ人作家は、存在そのものがトランスボーダーの作家群といえる。

なぜならば彼/女たちの多くは人種という境界を越えて生まれ、日本とアメリカという国境を行き来し、一部の作家は日本語と英語という言葉の境界も越えており、多くがそのトランスボーダー性を文学に表現しているからだ。

筆者が知る中でもっとも古い複数の人種ルーツを持つ日系アメリカ人作家にKathleen Tamagawa Eldridge(以後、エルドリッジ)がいる。

彼女は1893年に日本人実業家の父と、アイルランド系アメリカ人の母の間に生まれた。20世紀前後に日米を往復するような豊かな家に生まれ、物質的に何不自由なく育ったものの、日米いずれでも疎外感を味わった。

彼女が1932年に出版したHoly Prayers in A Horse's Ear(Roy Long & Richard Smith)には、20世紀初頭に日本人とアイルランド人のルーツを持つことで、日系人コミュニティにも、白人コミュニティにも属しきれないことの苦悩が書かれている。

居場所のなさという問題は、多くの複数の人種ルーツを持つ日系アメリカ人作家の共通テーマである。

エルドリッジは、白人男性と結婚をして、白人にしか見えない子どもを産んだ後、ようやく自分の人種的不安定さが解消できたとし、白人アイデンティティへの帰属を書いている。

彼女のように、白人が主流であるアメリカ社会で、日本人のルーツを隠し、白人として生きようとすることをパッシングというが、パッシングも複数の人種ルーツを持つ日系アメリカ人作家のテーマとして扱われる。

また興味深いテーマとして、複数の人種ルーツを持つ日系アメリカ人の中には、両親と外見が似ていない人もおり、他者が親子関係を疑うといったことを題材とする作家もいる。

作家となった戦争花嫁の子どもたちは、19世紀末からの日本人移民の子孫である複数の人種ルーツを持つ日系アメリカ人作家たちと一部重なりつつも異なる独自のテーマを文学の中で表現している。

日本人であるがゆえに強制収容という過酷な経験をした日系アメリカ人の中には、自分たちを苦境に陥れた白人アメリカ人と結婚した戦争花嫁に苦々しい思いを抱いている人もいた。戦争花嫁たちの中にはアメリカで日系アメリカ人コミュニティから受け入れてもらえなかった人もいた。

また、第二次世界大戦中、日本はアメリカの敵であり、日本軍に自分の家族を殺されたアメリカ人たちの中には、戦争花嫁に敵対的な態度をとる者もいた。

アメリカ社会の中で孤立する母と暮らした複数の人種ルーツを持つ作家たちは、母の孤独や、自分自身の所在の無さ、父親やその家族の差別的態度などを文学テーマとして扱い、こうした作家にはTeresa Williams-LéonやVelina Hasu Houstonがいる。

日系アメリカ人文学は、その始まりは移民世代のToshio Moriといった作家たちで、アメリカでの生活の厳しさや、一方でアメリカに根付いていく中で家族が増え、子どもがアメリカ人として育っていくことの喜びを書いた。

その後、第二次世界大戦中の強制収容の経験は、日系アメリカ人強制収容文学というジャンルを生み出し、John OkadaやYoshiko Uchidaといった作家が数々の傑作を作り出した。後続の日系アメリカ人作家たちも、日系アメリカ人たちの今の経験を表現し続けている。

日系アメリカ人文学と、上述した複数の人種ルーツを持つ日系アメリカ人作家の文学テーマは一線を画していることがわかる。

複数の人種ルーツを持つ日系アメリカ人作家は、その存在のトランスボーダー性、そしてそこから生じる文学テーマの独自性から、日系アメリカ人文学の文学表現の多様化、複雑化、超域性に貢献しているといえるだろう。

しかし、複数の人種ルーツを持つ日系アメリカ人作家たちの経験は、前述した事柄だけに収斂されず、今も進化している。

ウォント盛香織(Kaori Mori Want)
ニューヨーク州立大学バッファロー校博士課程修了、Ph.D.(文学)。専門はアジア系アメリカ文学、ジェンダー論、批判的人種理論。著書に『ハパ・アメリカ:多人種化するアジアパシフィック系アメリカ人』(御茶の水書房)、共著にReclaiming Migrant Motherhood: Identity, Belonging, and Displacement in a Global Context(Lexington)、Red&Yellow Black&Brown: Decentering Whiteness in Mixed Race Studies(Rutgers University Press)など。

『アステイオン』99号
 特集:境界を往還する芸術家たち
 公益財団法人サントリー文化財団・アステイオン編集委員会[編]
 CCCメディアハウス[刊]

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