大場正明
<中学校で起こった小さな事件が波紋を広げ、数日のうちに学校全体が混乱に陥っていく過程が、ひとりの新任教師の目を通して描き出される......>
トルコ系ドイツ人の新鋭イルケル・チャタク監督にとって4作目の長編になる『ありふれた教室』では、中学校で起こった小さな事件が波紋を広げ、数日のうちに学校全体が混乱に陥っていく過程が、ひとりの新任教師の目を通して描き出される。
ポーランド系ドイツ人のカーラは、仕事熱心で責任感が強い若手教師だ。新たに赴任した中学校では1年生のクラスを受け持ち、同僚や生徒の信頼を獲得しつつある。そんなある日、校内で相次ぐ盗難事件の犯人として、彼女の教え子が疑われる。校長らの強引な調査に反発した彼女は、自分で犯人を捜そうと思い立つ。
カーラが職員室に仕掛けた隠し撮りの動画には、ある人物の不審な行動が記録されていた。確信を持った彼女は、ベテランの女性事務員クーンを問い詰めるが、意外にもクーンは全面否定し、対立が騒動に発展する。カーラや学校側の対応は噂となって広まり、保護者の猛烈な批判、生徒の反乱を招いてしまう。さらに同僚教師とも対立したカーラは、孤立無援の窮地に追い込まれる。
リューベン・オストルンドの世界を想起させる
本作の舞台はほぼ中学校に限定され、カーラやその他の登場人物がどんな生活を送っているのかは、想像に委ねられている。イルケル監督は、緻密に構成された脚本をもとに、次から次へと難しい判断を迫られるカーラを追い、観客は彼女とともに混乱に引き込まれていく。
このイルケルのアプローチは、リューベン・オストルンドの世界を想起させる。たとえば、コラムでも取り上げた『ザ・スクエア 思いやりの聖域』(2017)で、主人公のキュレーター、クリスティアンが、財布やスマホを盗まれたときにとる行動だ。
GPS機能で貧困層が住む地域にあるアパートを突き止めた彼は、全戸に脅迫めいたビラを配って返却を迫る。その甲斐あって、財布とスマホがビラで指定したコンビニに届けられる。だが、ビラが原因で深く傷ついた少年がクリスティアンに付きまとうようになる。クリスティアンはなぜそんなことをしたのか。提案したのはアシスタントだったが、安易にそれに乗ってしまった。そこには、階層をめぐる偏見や自分が安全地帯にいるような錯覚が介在しているように見える。結局、クリスティアンが行動の責任を背負い、傷が広がり、精神的に追い詰められていく。
同調圧力をめぐる5つの物語で構成された作品から
本作で隠し撮りという手段に出るカーラも、冷静さを欠いている。そこには、先述したように校長らの強引な調査への反発もあるが、それだけではない。彼女は職員室で、同僚の教師が募金箱の小銭をくすねるのを目にする。さらに、リモートで別の人間と話しているときに、同僚の教師が話しかけてきて、教え子のアリがこのままでは進級できないと伝える。アリとは、盗難を疑われた生徒だ。すでにその疑いは晴れているにもかかわらず、その教師は学力とは無関係な盗難の一件にまで言及する。
苛立ちを抑えられないカーラは、隠し撮りという手段に出てしまう。財布を入れたままの上着を椅子にかけて席を離れ、ノートパソコンのカメラで決定的な瞬間を撮影しようとしたのだ。その後も彼女は、動画をめぐって安易な行動をとるが、そこに話を進める前に、オストルンドの作品をもう一本、思い出しておく必要がある。
それは、もっと古い作品『インボランタリー』(2008)だ。同調圧力をめぐる5つの物語で構成された作品だが、注目したいのは、とある小学校を舞台にした女性教師の物語だ。彼女は、同僚の男性教師が生徒に体罰を加えていることに気づき、行動を起こすのだが、その前に見逃せないエピソードが盛り込まれている。
女性教師は、心理学者ソロモン・アッシュの古典的な実験を思わせる実験を授業で行う。ひとりの生徒に長さの違う2本の線が描かれたパネルを見せ、どちらが長いかを答えさせる。その後で、実はサクラである他の生徒たちがそろって短いほうの線を選ぶ。それを繰り返すと、最初に答える生徒も短い線を選ばざるをえなくなる。
そんなエピソードの後で、女性教師は、生徒に体罰を加えている教師に対して抗議の声を上げるが、逆に周囲から彼女に問題があるかのように見られてしまう。観客は、同調圧力の実験を意識しつつ、そんなドラマを見ることになる。
さらに複雑にした仕掛け
本作には、それをさらに複雑にしたような仕掛けがある。ポイントになるのは、カーラが教える数学の授業だ。彼女が生徒たちに出すのは、小数点以下にずっと9が続く0.999...は1と同じかという問題だ。
最初に指名された女の子は、引き算を使って、ふたつが違うという答えを導く。するとカーラは、他の生徒たちにその答えが「主張」か「証明」なのかを尋ねる。女の子の答えは、証明ではなく主張になる。
次に指名されたオスカーは、分数を使う。0.111...は1/9と同じで、9×1/9=1だから、0.999...=1になる。それは、分数を使った証明だ。これに対して、「隙間がある」といって納得できない生徒もいるが、カーラは、「証明で大事なのは1つ1つ導き出していくことよ、それを学ぶの」と説明する。
ここでオスカーという名前を明記したのは、彼が、やがてカーラと盗難をめぐって対立する事務員クーンの息子で、鍵を握る人物になっていくからだ。カーラは数学ができるオスカーにルービックキューブを貸し、アルゴリズムについて、ある問題を解くための手順のことだと説明する。
「主張」と「証明」が意識され、対置されていく
こうして本作のドラマでは、「主張」と「証明」が意識され、対置されていく。たとえば、カーラはテスト中に、ひとりの生徒からカンニングペーパーを取り上げる。生徒は自分のものではないと主張する。だがカーラは、カンペの間違った答えがそのまま答案用紙に写されていることを指摘し、彼のものだと証明する。
カーラの隠し撮りも、そんな大きな枠組みのなかで、意味が掘り下げられる。確かに彼女の財布から金は抜き取られていたが、動画に記録されていたのは、特徴的な模様のブラウスだけだ。それでも彼女は決定的な証拠と判断し、動画は見せずにクーンを問い詰めるが、逆に追い払われる。
そんな仕打ちをされて気が収まらないカーラは、その足で校長室に駆け込み、校長自身がクーンを呼んできて、決定的な証拠であるかのように動画を見せてしまう。激高したクーンは、息子のオスカーを連れて帰宅し、電話にも出なくなる。そのときになってはじめてカーラは、対応を間違えたかもしれない、これでは証拠不十分だと思う。
それは彼女が冷静であれば、予測できただろう。この校長は、事あるごとに不寛容(ゼロ・トレランス)方式を導入していることを強調する。ならば学校側は、厳正に対処するために、手続きにおいて規則を遵守すべきところだが、冒頭に描かれる強引な調査でわかるように、生徒に密告を促したり、強制を詭弁でごまかした調査をするなど、手順を踏む気がない。言葉を変えれば、校長や彼女に従う教師には「証明」が欠けている。
その結果、盗難をめぐる問題の収拾がつかなくなり、「証明」を忘れた「主張」ばかりが激しくせめぎ合い、保護者や生徒も巻き込んだ負のスパイラルが巻き起こり、学校は混乱に陥っていく。
本作のラストは様々な解釈ができるが、少なくとも「証明」の価値が見失われていないことが希望につながる。
『ありふれた教室』
公開:5月17日(金)新宿武蔵野館、シネスイッチ銀座、シネ・リーブル池袋ほか
<中学校で起こった小さな事件が波紋を広げ、数日のうちに学校全体が混乱に陥っていく過程が、ひとりの新任教師の目を通して描き出される......>
トルコ系ドイツ人の新鋭イルケル・チャタク監督にとって4作目の長編になる『ありふれた教室』では、中学校で起こった小さな事件が波紋を広げ、数日のうちに学校全体が混乱に陥っていく過程が、ひとりの新任教師の目を通して描き出される。
ポーランド系ドイツ人のカーラは、仕事熱心で責任感が強い若手教師だ。新たに赴任した中学校では1年生のクラスを受け持ち、同僚や生徒の信頼を獲得しつつある。そんなある日、校内で相次ぐ盗難事件の犯人として、彼女の教え子が疑われる。校長らの強引な調査に反発した彼女は、自分で犯人を捜そうと思い立つ。
カーラが職員室に仕掛けた隠し撮りの動画には、ある人物の不審な行動が記録されていた。確信を持った彼女は、ベテランの女性事務員クーンを問い詰めるが、意外にもクーンは全面否定し、対立が騒動に発展する。カーラや学校側の対応は噂となって広まり、保護者の猛烈な批判、生徒の反乱を招いてしまう。さらに同僚教師とも対立したカーラは、孤立無援の窮地に追い込まれる。
リューベン・オストルンドの世界を想起させる
本作の舞台はほぼ中学校に限定され、カーラやその他の登場人物がどんな生活を送っているのかは、想像に委ねられている。イルケル監督は、緻密に構成された脚本をもとに、次から次へと難しい判断を迫られるカーラを追い、観客は彼女とともに混乱に引き込まれていく。
このイルケルのアプローチは、リューベン・オストルンドの世界を想起させる。たとえば、コラムでも取り上げた『ザ・スクエア 思いやりの聖域』(2017)で、主人公のキュレーター、クリスティアンが、財布やスマホを盗まれたときにとる行動だ。
GPS機能で貧困層が住む地域にあるアパートを突き止めた彼は、全戸に脅迫めいたビラを配って返却を迫る。その甲斐あって、財布とスマホがビラで指定したコンビニに届けられる。だが、ビラが原因で深く傷ついた少年がクリスティアンに付きまとうようになる。クリスティアンはなぜそんなことをしたのか。提案したのはアシスタントだったが、安易にそれに乗ってしまった。そこには、階層をめぐる偏見や自分が安全地帯にいるような錯覚が介在しているように見える。結局、クリスティアンが行動の責任を背負い、傷が広がり、精神的に追い詰められていく。
同調圧力をめぐる5つの物語で構成された作品から
本作で隠し撮りという手段に出るカーラも、冷静さを欠いている。そこには、先述したように校長らの強引な調査への反発もあるが、それだけではない。彼女は職員室で、同僚の教師が募金箱の小銭をくすねるのを目にする。さらに、リモートで別の人間と話しているときに、同僚の教師が話しかけてきて、教え子のアリがこのままでは進級できないと伝える。アリとは、盗難を疑われた生徒だ。すでにその疑いは晴れているにもかかわらず、その教師は学力とは無関係な盗難の一件にまで言及する。
苛立ちを抑えられないカーラは、隠し撮りという手段に出てしまう。財布を入れたままの上着を椅子にかけて席を離れ、ノートパソコンのカメラで決定的な瞬間を撮影しようとしたのだ。その後も彼女は、動画をめぐって安易な行動をとるが、そこに話を進める前に、オストルンドの作品をもう一本、思い出しておく必要がある。
それは、もっと古い作品『インボランタリー』(2008)だ。同調圧力をめぐる5つの物語で構成された作品だが、注目したいのは、とある小学校を舞台にした女性教師の物語だ。彼女は、同僚の男性教師が生徒に体罰を加えていることに気づき、行動を起こすのだが、その前に見逃せないエピソードが盛り込まれている。
女性教師は、心理学者ソロモン・アッシュの古典的な実験を思わせる実験を授業で行う。ひとりの生徒に長さの違う2本の線が描かれたパネルを見せ、どちらが長いかを答えさせる。その後で、実はサクラである他の生徒たちがそろって短いほうの線を選ぶ。それを繰り返すと、最初に答える生徒も短い線を選ばざるをえなくなる。
そんなエピソードの後で、女性教師は、生徒に体罰を加えている教師に対して抗議の声を上げるが、逆に周囲から彼女に問題があるかのように見られてしまう。観客は、同調圧力の実験を意識しつつ、そんなドラマを見ることになる。
さらに複雑にした仕掛け
本作には、それをさらに複雑にしたような仕掛けがある。ポイントになるのは、カーラが教える数学の授業だ。彼女が生徒たちに出すのは、小数点以下にずっと9が続く0.999...は1と同じかという問題だ。
最初に指名された女の子は、引き算を使って、ふたつが違うという答えを導く。するとカーラは、他の生徒たちにその答えが「主張」か「証明」なのかを尋ねる。女の子の答えは、証明ではなく主張になる。
次に指名されたオスカーは、分数を使う。0.111...は1/9と同じで、9×1/9=1だから、0.999...=1になる。それは、分数を使った証明だ。これに対して、「隙間がある」といって納得できない生徒もいるが、カーラは、「証明で大事なのは1つ1つ導き出していくことよ、それを学ぶの」と説明する。
ここでオスカーという名前を明記したのは、彼が、やがてカーラと盗難をめぐって対立する事務員クーンの息子で、鍵を握る人物になっていくからだ。カーラは数学ができるオスカーにルービックキューブを貸し、アルゴリズムについて、ある問題を解くための手順のことだと説明する。
「主張」と「証明」が意識され、対置されていく
こうして本作のドラマでは、「主張」と「証明」が意識され、対置されていく。たとえば、カーラはテスト中に、ひとりの生徒からカンニングペーパーを取り上げる。生徒は自分のものではないと主張する。だがカーラは、カンペの間違った答えがそのまま答案用紙に写されていることを指摘し、彼のものだと証明する。
カーラの隠し撮りも、そんな大きな枠組みのなかで、意味が掘り下げられる。確かに彼女の財布から金は抜き取られていたが、動画に記録されていたのは、特徴的な模様のブラウスだけだ。それでも彼女は決定的な証拠と判断し、動画は見せずにクーンを問い詰めるが、逆に追い払われる。
そんな仕打ちをされて気が収まらないカーラは、その足で校長室に駆け込み、校長自身がクーンを呼んできて、決定的な証拠であるかのように動画を見せてしまう。激高したクーンは、息子のオスカーを連れて帰宅し、電話にも出なくなる。そのときになってはじめてカーラは、対応を間違えたかもしれない、これでは証拠不十分だと思う。
それは彼女が冷静であれば、予測できただろう。この校長は、事あるごとに不寛容(ゼロ・トレランス)方式を導入していることを強調する。ならば学校側は、厳正に対処するために、手続きにおいて規則を遵守すべきところだが、冒頭に描かれる強引な調査でわかるように、生徒に密告を促したり、強制を詭弁でごまかした調査をするなど、手順を踏む気がない。言葉を変えれば、校長や彼女に従う教師には「証明」が欠けている。
その結果、盗難をめぐる問題の収拾がつかなくなり、「証明」を忘れた「主張」ばかりが激しくせめぎ合い、保護者や生徒も巻き込んだ負のスパイラルが巻き起こり、学校は混乱に陥っていく。
本作のラストは様々な解釈ができるが、少なくとも「証明」の価値が見失われていないことが希望につながる。
『ありふれた教室』
公開:5月17日(金)新宿武蔵野館、シネスイッチ銀座、シネ・リーブル池袋ほか