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戦争を経験した人の2割以上が「心の病」に...求められるウクライナ戦争避難民の心の傷を癒やすケア

ニューズウィーク日本版 2024年6月5日 9時24分

エリー・クック
<戦場を逃れても祖国を離れても、自分の心からは逃げられない...ウクライナに残っても他国に逃げても続くPTSD、専門家が語る治療の一助となり得る対処法とは>

2年前の2月に始まったロシアによるウクライナ侵攻。その爪痕は至る所に見られる。流れる血、黒ずんだ血痕、廃墟と化した街......。だが見えにくい爪痕もある。心に刺さった深い傷だ。

国内だけではない、祖国を離れ遠くの国へ避難した人たちの多くも心に深手を負っている。

WHO(世界保健機関)の今年3月の推計でも、メンタルに何らかの症状を抱え、あるいは発症リスクを抱えたウクライナ人は国内だけで1000万に迫るという。

いわゆるPTSD(心的外傷後ストレス障害)をはじめとする戦争後遺症に苦しむ人は増える一方だ。そういう人たちへの支援・発症予防のニーズは高まっており、とても専門家だけでは手が回らない。

この非常事態に一般市民の手も借りて対処しようと奮闘しているのが、テルハイ大学(イスラエル)のムーリ・ラハド教授と彼の仲間たちだ。

長年にわたりテロや大規模災害の被災者支援に携わってきたラハドは、被災者のメンタルを支える基本的なノウハウを一般市民に授け、その知識を「人から人へ」と広げていく研修プログラムを開発した。

その取り組みは、ウクライナと国境を接するポーランドでも行われている。ポーランドはロシアの軍事侵攻が始まった直後からウクライナの避難民を受け入れており、その数は昨年末の時点で100万人に迫る。ポーランドを経由して、さらに第三国へ逃れた人はもっと多い。

こうした人たちは、取りあえず戦火を逃れることはできても、その悲惨な体験と記憶からは逃れられない。ベアタ・ズビルジンスカはそのことを肌で感じている。

ズビルジンスカはポーランド中部の町で、地元民とウクライナ出身者のボランティアを集めて戦争避難民を支援している。

最初のうちは戦火のウクライナを脱出してきた女性や子供たちに生活必需品を届けるだけの活動だったが、今はPTSDに苦しむ人たちを心理面でサポートする活動にも従事している。

「プレイバック・シアター」

支援物資を配っていた当初は、心の傷には気付けなかったとズビルジンスカは言う。ラハドの研修に参加してからは「避難してきた人の話に耳を傾けるようになり、破壊された家や、残してきた家族の写真も見た」。彼女は本誌にそう語った。

それで「目が開いた」とズビルジンスカは言う。だから今は「一人一人の状況を把握した上で、どう対処すべきかを判断できる」。

ラハドの研修プログラムでは、全くの初心者には最低限の対応ガイドブックを渡す。地域の活動家や学校の先生には、彼らのスキルを上げるためのトレーニングを施す。

それは理論と実践を組み合わせたもので、個々の被災者の特性に合わせてトラウマに対処する最適な方法を選び、誰もが持っている自己回復力を引き出そうとする。大事なのは、不安やトラウマの症状を軽減しつつ、自分の人生をコントロールする感覚を取り戻させることだ。

ラハドによれば、従来のPTSD治療は一対一で行われてきたが、彼のプログラムでは一度に複数の人々を対象にし、少しでも彼らのトラウマを緩和することを目指す。

例えば「プレイバック・シアター」と呼ばれる手法がある。必要に応じてプロの役者にも参加してもらい、被災者の体験を再現しつつ、被災者の意見を採り入れてストーリーを構成していく。

そうやって被災者が自分の体験を整理できるようにするのだが、1人ではできないから多くの人の協力が必要とされる。

ラハドはまた、より多くの人を救うためにオンライン治療も計画している。対面での治療には劣るが、何もしないよりはいいと思うからだ。

そこで留意しなければならないのは、治療への反応は成人と子供では異なるという点だ。一般に、子供は大人よりもフラッシュバックに強いとラハドは言う。大人は「なかなか自分のトラウマを再現したがらないが、子供は平気だ」。

そういう場面を、ズビルジンスカは何度も見てきた。「戦争ごっこ」をすることで立ち直れる子が少なからずいる。でも「ごっこ」が暴力的になったら、それは「トラウマが残っている証拠」だと彼女は言う。

心の傷からは逃げられない

現在、ラハドのプログラムにはポーランドとウクライナにそれぞれ45人前後のトレーナーがいる。中には、ウクライナとは無縁だけれど自らの戦争体験ゆえに「つながり」を感じて参加した人もいる。

例えば、かつてアフガニスタンの首都カブールで国連職員として働いていたカレダ・ナシール。彼女は20世紀後半に内戦の続くアフガニスタンで育った。今は家族とポーランドで暮らすが、戦争の記憶が自分や家族に与えた心の傷は今も消えない。

「戦争の中で生まれた私は」とナシールは本誌に語った。「平和がどんなものか、全く知らなかった」

そんな彼女がラハドのプログラムに参加したのは、他人を助けることが自分自身のトラウマを克服するのに役立つと気付いたからだ。

ウクライナについて語るとき、「心的外傷後ストレス障害」という表現は必ずしも適切ではない。戦争は今も続いており心的外傷は(「後」ではなく)現在形の問題だからだ。

しかもトラウマは何度も襲ってくる。その繰り返しに対処する方法を教える必要があるとラハドは言う。「そういう脅威を抱えて生きていくにはどうすればいいか。そこを伝えるのが本当に難しい」

「どんなときでも自分の暮らしを守り抜く」ためのスキルを少しでも多くのウクライナ人に伝授し、それを他の人たちにも伝えてもらう。それがラハドの望みだ。

ウクライナ政府もメンタルヘルスの問題に取り組み始めた。大統領夫人のオレナ・ゼレンスカは、開戦直後から一貫してメンタルヘルスの重要性を説いてきた。民間にも、そうした活動に取り組む団体がいくつも生まれている。

なにしろ事態は深刻だ。WHOによれば、この10年ほどで戦争や紛争を経験した人の2割以上は鬱病やPTSD、双極性障害、統合失調症などを発症している。心の傷は見えにくいが、だからこそしっかり対処し、患者を支える必要がある。

アフガニスタン出身のナシールが言う。「戦場を逃れることはできる。祖国を離れることもできる。でも自分の心からは逃げられない」

戦争の恐怖とPTSDの影響



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