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SNSにおける教養は「人を殴るための棒」...民衆に殺される時代に「ジャーナリズムの未来」はあるのか?

ニューズウィーク日本版 2024年6月12日 9時0分

トイアンナ(恋愛・キャリア支援ライター) アステイオン
<ジャーナリスティックな態度は、もはや「病理」なのか。『アステイオン』100号の特集「特集:「言論のアリーナ」としての試み――創刊100号を迎えて」より「空から降る一億の石」を転載> 

『アステイオン』1986年の創刊号から、初期の原稿をたどり「ああ、寄稿者の多くがご逝去されていて、本当によかった」と思ってしまった。あの方々がいま生きていらしたら、誰か一人くらいは民衆に殺されていただろう。

普段、イエロー・ジャーナリズムで日銭を稼いで暮らしている私だが、たまに堅気の文も書く。ちょうど数日前に初稿をあげたのは、日本の「弱者男性」に関する特集で、日本人の3人に1人は、障害や貧困などに苦しめられる、弱者男性によって占められているという話であった。

つまり、男性の過半数は何らかのハンデを背負って生きているという推計である。そんな彼らが、当時の好景気に後押しされた教養主義にあふれる創刊号を目にしたら、革命の狼煙があがったやもしれぬ。

2号には袴田茂樹氏の「『知識人群島』ソ連」が掲載されており、そこにはロシアの民衆へ、同情的な言葉が並ぶ。

「『不足経済』の状況下では、商品や物的環境は即物的欲求充足のための『モノそのもの』として立ち現われざるを得ず、したがってモノと人間の関係はよりプラグマチックであってソフィスティケイトされる余地が少ない」

まさに、今の日本ではないか。小説は売れない。なぜなら、短期的な人生の役に立たないからである。3号にドラッカー氏がいて、確かにかれの本は読まれる。なぜなら、読めば商品の売り方がわかり、明日食べていけるからである。

教養の退廃を嘆く声は、大昔からある。実は『アステイオン』の初期にも散見され、思わず微笑んでしまった。だが、今は「学ばない若者」を悠長に嘆く段階ではない。研究費が削減されていることに、アカデミズム外から反対の声は少ない。

子どもは生まれない。育てる金がないからである。若者は結婚しない。そんな金はないからだ。誰もが、食べることで手一杯になっている。教養はおろか、享楽にすら金を使えぬ。

中谷巌氏は『アステイオン』の3号で日本人が60年代に年間3000時間も働いていたと嘆いたが、私は2023年は年間4000時間働いてしまっていて、実質賃金は当時よりうんと下がった。

パソコンも、インターネットもあるこの時代、AIはなぜ仕事を代行してくれないのか、我々は寝て暮らし、ロボットがGDPを稼ぐのではなかったか。バブル崩壊後に失われた30年は、いつ40年に言い換えられるのか。

とはいえ、こんな状況でも日本人は文章をよく読む方だ。2023年の日本人は、ネットの文章を大量に読んでいる。文字主体のSNSであるX(旧ツイッター)の利用時間は日本が世界一で、日に平均九分も使っている。

ここから概算すると、日本人は年に164万文字も投稿を読んでいるようだ。米国の51万文字、英国の69万文字に比べて、圧倒的である。

だが、そのSNSにおいて教養とは、人を殴るための棒である。まず、誰かが知識をひけらかす。すぐに、別の誰かがそれを引用して「お前は物知らずだ。正しくはこうである」とやり返す。偉ぶった人間がピシャリとやられるとスカッとするから、投稿は一斉に拡散される。

当初の「誤った意見」を投稿した人間には、千を超す非難が投稿される。中世の公開処刑のように、みなそれを楽しむ。

教養は、いまや正しさを証明するための武器だ。偉人の文献は「私の方がソクラテスを理解している」「いや、誤読ですよ。何でソクラテスを読んだのに、そんなこともわからないんですか?」と殴り合うためにある。

その風潮を揶揄して「ポリコレ棒=ポリティカル・コレクトネスで他人をぶん殴る棒」というスラングまで生まれる始末だ。教養の効用のひとつに自分の考えに疑問を抱き、自己の内省を促すことが挙げられたが、今は逆である。そして、それに悪びれもしない。

今年、とある漫画家がSNSで交わされる激しい中傷に耐えかねて亡くなった。それについて、私が個人的な怒りをXで表明した。

なぜ、軽い気持ちで誹謗中傷ができるのか。ブラウン管に話しかけているわけでないし、相手にその言葉は届いてしまうのだぞ。画面の向こう側にいるのは、人間だというのに。といったコメントに対し、すぐ返事がついた。

「安全圏から石を投げるのは最高の娯楽だからしゃーない」

なるほど、その石とやらは、新約聖書で姦淫した女性に投げられる石と同じである。こいつはまいったね。人権意識が、中世超えて古代であられるか。

と、さんざん庶民の代表ぶって偉そうに書いてしまったが、私が端っこを陣取るジャーナリズムこそ、学閥の世界である。私や同輩も、出身大学は慶應やら早稲田やらと、いけ好かない大学の出だ。

彼ら・彼女らにすれば、私もまた「優雅に文章で善や美意識を語る富裕層」に見ているに違いないし、いつか「何かを誤読した罪」で殺されるのは、私であろう。

SNSの登場によって日本はゆるやかな文化大革命を迎え、架空の罪をでっちあげては、相手へ自己批判を強いる。かつては、糾弾する声と我々の間に編集部があり、我々を守ってくれた。

ITはその垣根を飛び越え、権威だろうが専門家だろうが関係なく、殺害予告をデリバリーする。今の世に太宰治や中原中也が生まれていたら、SNSでの百人組手に傷つき、20歳まで生きられなかっただろう。

振り返れば『アステイオン』創刊号で、高坂正堯先生はのっけから、「嫌な時代になって来た」と書かれている。粗野な正義観を源泉とした、武力行使に対する批判である。

それから38年、いまや個がそれぞれの正義観をもとに、暴力を振るうことのできる時代である。

テロ組織の公式SNSへ一般人がフランクに話しかけることもあれば、無辜の一般人へ中傷が1万件も届く。国家をアクターとした武力行使は90年代より落ち着いたかもしれないが、我々一人ひとりが石つぶてを握っているのだ。

こうして、インターネット紅衛兵に囲まれ、いつ自分が総括させられる番かと断頭台を数えつつ「知的ジャーナリズムの未来」について考えるのは絶望的ではあるが、それでも二つの役割は残されていると信じている。

ひとつめは、サバルタン──権力から周辺化され、自らについて語る力を奪われたグループ──の言葉を拾うことだ。自民党政権によって女性活躍が推進される中、「弱者男性」という新たなグループが〝発見〟されたのも誰かの光明ゆえである。

長らく日本社会で強い立場にあるとみなされてきた男性は、たとえ経済的・社会的・肉体的苦境に陥っても自己責任で片付けられ、支援を得づらい。たとえその苦しみを当事者が語ったところで、苦痛の存在すら認めてもらえない。

ガラスの天井を女性が破れない一方で、ガラスの地下室には男性が押し込められる。そのグループに新たな名詞を与え、理解者を増やそうと試みること。これは、棍棒としての教養を持つ人間にはできないことである。

2024年現在、もっともジャーナリスティックに活動している媒体は『週刊文春』である。週刊文春の報道がなければ、ジャニーズ事務所にも、宝塚歌劇団にも暴力は認められなかった。

つまり、かつて被害者はサバルタンとして、透明化されたままだった。ジャーナリズムには、事件を報道する役割だけが任されているのではない。その時代を生きる我々にとって、「何が事件であるか」を定義する責務がある。

ジャーナリズムに与えられたもうひとつの役割は、情報を誠実に検証することである。棍棒として使われる教養には、誠実さがない。相手を殴るためなら、ありもしないフーコーの新説を唱えてもいい。自分のファンがそう信じてくれるなら、陰謀論だって唱えて構わない。

だが、ジャーナリズムはそうではない。自分が中立である、正義であるとは信じない。自分が物知りだとすら思わない。

その代わりに、事実を積み上げる。証言者の話を地道に集め、共通項を洗い出し、信ぴょう性を検証する。利害関係のない複数の人間が、似た証言をしているのだからと、被害に真実相当性があると信じて報道する。

あるいは、インフルエンサーが心から真実だと信じ、語っている言葉であっても裏取りをし、ときには疑惑を投げかける。仕事がなくなるリスクを背負いながらも、権力者が疎外し、透明にしたがっている人々の話を聞く。

完全情報のニュースなど存在しえないが、事実を積み上げることでピースを埋めていく。それが、ジャーナリズムの善性であろう。

特に、『アステイオン』のような雑誌が生き残るならば、「教養ある人たちのユーモラスな同人誌」の枠を超えて、知的ジャーナリズムの手本たる存在となっていくしかあるまい。

当然の情報として共有されるニュースの方向性へ誠実な疑問を投げかけ、検証する。そして、少し先の未来で解決されるべき社会課題を提唱する。見過ごされてきた人たちの言葉を見つけ、マスに広める。

それが、いつSNSで石を投げられて死ぬかわからない我々が、筆を......いや、スマホを捨てられない理由である。

最後に、この前提を揺るがす小話をしたい。

少し前に、うつの薬を飲んだことがある。効果はてきめんだった。注意力が身について、仕事をテキパキ進められた。その代わり、知的に誠実でありたいとか、この世の真実を検証したいといった意欲がまったくなくなってしまった。

私にとってジャーナリスティックな態度とは知的な衝動性を必要とするもので、うつの治療薬がそれを奪ってしまったのだ。

当時は仕事を続けるために薬を捨てたが、もしかすると、ジャーナリズム的な精神を持つこと自体が、今後は病理となり、治療対象になるのかもしれない。そうなれば、ここに連ねたジャーナリズムのありようはプレッジ(宣誓)でもなんでもなく、ただの闘病日記となる。

ただひたすらプラグマチックに成長した社会において、たしかにジャーナリズムは病理そのものだ。私はペシミストでいるのが好きなものだから、それくらい破滅的な未来予想図を、ジャーナリズムにも抱いておくとしよう。

トイアンナ(Anna Toi)
1987年生まれ。慶應義塾大学卒業後、外資系企業にてマーケティングに携わり、フリーライターに転身。専門は就活対策、キャリア、婚活、マーケティングなど。著書に『改訂版 確実内定』(KADOKAWA)、『モテたいわけではないのだが』(イースト・プレス)、『ハピネスエンディング株式会社』(小学館)、『弱者男性1500万人時代』(扶桑社新書)など多数。

 『アステイオン』100号
  特集:「言論のアリーナ」としての試み──創刊100号を迎えて
  公益財団法人サントリー文化財団
  アステイオン編集委員会 編
  CCCメディアハウス

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