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「立花隆は苦手だった」...それでも「知の巨人」を描く決心をしたのはなぜだったのか?

ニューズウィーク日本版 2024年6月7日 9時8分


<晩年、あえて非科学的な領域に踏み込んで批判を浴びた、立花隆。大学で教え、科学技術論やジャーナリズム論など、立花と近い分野で活躍してきたジャーナリスト・武田徹が描く、渾身の評伝とは>

『田中角栄研究』『宇宙からの帰還』『脳死』など、ジャーナリストとして膨大な著作を残した「知の巨人」こと立花隆は、なぜ晩年、あえて非科学的な領域に踏み込み、批判を浴びたのか......。

立花と同じくジャーナリストを名乗り、教員として大学で教え、科学技術論やジャーナリズム論など、近い分野で仕事をしてきた武田徹が「苦手だった」と語る理由とは何だったのか? 

その「苦手だった」立花に接触を試み、それから間もなく訃報を受けた無念から、立花隆というジャーナリストに向き合って描きだした渾身のルポルタージュ『神と人と言葉と 評伝・立花隆』(中央公論新社)の「まえがき」より一部抜粋。

◇ ◇ ◇

 

訃報は『毎日新聞』のスクープだった。

立花隆さん死去 ジャーナリスト、評論家「田中角栄研究」

 多くの調査報道やベストセラーを発表し、「知の巨人」として知られるジャーナリストで評論家の立花隆(たちばな・たかし、本名・橘隆志=たちばな・たかし)さんが4月30日、急性冠症候群のため亡くなった。80歳。葬儀は故人と遺族の意思により家族葬で行われた。
 1940年、長崎市生まれ。両親ともクリスチャンの家庭で育つ。教員だった父が赴任していた中国・北京で敗戦を迎えた。東京大文学部仏文科を卒業した64年、文芸春秋に入社し雑誌記者となるが66年に退社、フリーとなる。67年に東京大文学部哲学科に学士入学した。在学中から雑誌などにルポや評論などを発表。74年には月刊「文芸春秋」に「田中角栄研究 その金脈と人脈」を発表した。(略)

夜もふける午前2時にネット版で第一報が出て、その後、各メディアが追いかけた。『毎日』でも朝刊夕刊、ネット版で情報を更新しつつ報じ続けた。

この訃報に接して、「やはり亡くなられたのか」と思った。「やはり」と思ったのは体調が芳しくないとは聞いていたからだ。

この年の春先、立花に寄稿か、せめて聞き書きの依頼ができないかと考えていた。編集委員として関わる雑誌『アステイオン』で「アカデミック・ジャーナリズム」と題する企画を立て、その特集を象徴する最も著名な存在として立花に思い至った。

立花はジャーナリストとして一世を風靡しつつ東大で教壇にも立った。科学技術研究の紹介者として知られ、まさにアカデミズムとジャーナリズムを橋渡しする役目を果たしてきた。

しかし、気がかりだったのは、その時期、立花の活動に触れる機会がめっきり減っていたことだった。長く続けられてきた月刊『文藝春秋』の巻頭エッセーも2019年5月号が最終回となり、その後、新連載は始まっていなかった。

そこで様子をうかがってみようと、立花の著作の編集をしていた旧知の編集者に聞いてみた。「秘書役をしている妹さんに尋ねてみる」という返事がまずあり、ややあってから、「体調が悪く、難しいようだ」という報告を受けた。こうして「アカデミック・ジャーナリズム」特集への立花の起用は幻に終わっていた。

それから間もなくして死去を知るが、気になったのは『毎日新聞』の訃報記事内に亡くなったのが4月30日だったと書かれていたことだった。葬儀などを済ませた後に死去の情報が公開されることはよくある。立花の場合もそうだったようだが、気になったのは自分が間接的に様子をうかがおうとした時期との前後関係だ。

カレンダーを確認すると死者に原稿を依頼するというホラー小説的展開はかろうじて避けられていたようだが、死期が間近のタイミングだったことは間違いなく、配慮を欠いた問い合わせをしてしまったと心が痛んだ。

旧知の編集者を頼りに回りくどい打診をしていたのは、自分自身が立花隆と殆ど没交渉だったからだ。

そう書くと意外に感じる人もいるかもしれない。筆者は科学技術関係やジャーナリズム論など、立花と近い執筆領域で仕事をしてきている。ジャーナリストを名乗りつつ、大学にも並行して所属する立ち位置も似ている。そのせいだったのだろう、訃報が出た直後に追悼文の寄稿を読売新聞から依頼されている。

「ノンフィクション作家と紹介されることも多かったが、日本のノンフィクションの書き手としては、ドラマチックな展開で物語的面白さを出そうとする指向が希薄で、事実にこだわる姿勢が極めて強かった」

そう書き出された拙文は、以後、京大霊長研を取材した『サル学の現在』や分子生物学者・利根川進へのロングインタビューの成果である『精神と物質』などに触れ、「科学界にも与えた刺激」の見出しを添えられて緊急寄稿として翌日の朝刊に掲載された。

 

確かに仕事の傾向では似ている面もあっただろう。だが、ごくごく正直に告白してしまえば、立花は苦手だった。

立花の書く文章は平易で明晰だ。誤解されることの少ない文章であり、事実を伝えることがジャーナリズムの使命だと考えれば、理想に近いものだと評価できる。にもかかわらず筆者はそれが好きになれなかった。

追悼記事には「事実にこだわる姿勢が極めて強かった」と書いたが、本音をいえば、事実にこだわり過ぎだと思っていた。一つのテーマに邁進し、自分の調査で明らかになった事実を雑誌連載で延々と書いてゆく。

「今回も◯◯について書く」と冒頭で断って、すぐに事実の記述を始める。その文章には愛想も色気もありはしない。立花ほどの大物になれば編集サイドでもコントロールが利かなかったのだろうが、単調に続いてゆく連載記事は読む側としては辟易することもあった。

こうして事実にこだわったために蔑(ないがし)ろにされているのが言葉だと感じた。彼の作品を読んで、そこに描かれている事実の世界は伝わってくるが、彼の言葉自体が意識に残ることはない。

ジャーナリストとはいえ言葉で作品を作る。事実と意見を伝えるジャーナリズムの作品であっても、言葉の作品としても個性が伴うべきではないか。立花は間違いなく不世出のジャーナリストだが、言葉を「道具として」使いはするものの、「言葉そのもので表現」していないと筆者は思っていた。

そんな思いもあって、筆者は立花と距離を取ろうとし、接触の機会をなかば意図的に避けてきたように思う。その証拠に生前の立花に会ったのは、たった2回だけだ。

一度目は、2008年12月13日に東京大学大学院情報学環が読売新聞社と共催したシンポジウム「情報の海~漕ぎ出す船~」において。登壇者としてステージで同席した。立花はインターネットによってアメリカの名門新聞が廃刊になった話をしていた。二度目に会ったのは、それから随分と経った後のこと、地下鉄の神保町駅で、だった。

会ったというのは不正確で、こちらが一方的に目撃した。神保町の書店街で買ったのだろうか、本を大量に入れた紙袋を持っており、読書欲(書籍購買欲?)は相変わらず旺盛らしかったが、大きな紙袋を持つのも難儀そうで、顔つきも見るからに弱々しかった。

その姿を見て、心がざわついた。戦後日本のジャーナリズム史に燦然と輝く業績を幾つも残してきた立花が、活動に幕を引く時期が遠くなく訪れる。そう思って、立花というジャーナリストについてもう一度、その位置づけを確かめておかなければという気持ちが芽生え始めていた。

ただ、スタートがなかなか切れなかった。アカデミック・ジャーナリズム特集への起用が立花論を始めるきっかけになればと目論んだが、不発に終わった。そんなこんなのうちに立花は本当に人生の幕を引いてしまった。

さすがに筆者も改心した。主要な作品は既に読んでいたが、立花が自分自身の過去を語る自伝的な作品を本格的に読み始めたのはそれからだった。

それは、大袈裟な言い方に聞こえるかも知れないが、衝撃的な体験だった。苦手だったはずの立花の人生に筆者自身の過去の経験と重なる部分があまりにも多く、筆者の興味関心と響き合う内容が本当に次から次へと見つかったのだ。

 

立花と同じく小さい頃から本の虫だった人は筆者に限らず少なくないだろうが、キリスト教とつかず離れずの生活をしたり、古今東西の思想に触れようと大学時代に様々な言語を習得したりしていた立花に筆者は強い親近感を覚えた。筆者もそうだったからだ。

ただ、読書範囲、読書量を始めとして、悔しいことに筆者の方が常にスケールが小さい。我が人生を振り返ってみると、立花を避けて、あえて違う道を行こうとしていたと書いたが、とんでもない、実は同じ道を後から追いかけていた。自分がまるで立花の縮小劣化コピーのように思えてきた。

だが、スケールは小さくとも同じ道を通ってきたがゆえに気づけることもある。

武田徹(たけだ・とおる)
1958年生まれ。ジャーナリスト、評論家、専修大学文学部教授。国際基督教大学大学院比較文化研究科博士前期課程修了。著書に『流行人類学クロニクル』(サントリー学芸賞受賞)、『「隔離」という病い』『偽満州国論』『「核」論』『戦争報道』『原発報道とメディア』『暴力的風景論』『日本語とジャーナリズム』『なぜアマゾンは1円で本が売れるのか』『日本ノンフィクション史』『現代日本を読む』など。

 『神と人と言葉と 評伝・立花隆』
  武田徹[著]
  中央公論新社[刊]

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立花隆事務所(猫ビル)訪問

東京大学総合図書館 / UTokyo General Library

 


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