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ほっとして隣を見たら「顔が半分ない死体」が...今も「戦地ウクライナ」に残る日本人たち、それぞれの物語

ニューズウィーク日本版 2024年6月6日 17時30分

小峯 弘四郎(フォトジャーナリスト)
<義勇兵、ボランティア、長期在住者......銃弾が飛び交う異国に日本人が滞在し続ける理由。現地レポート第2弾>

2022年4月に初めてウクライナを訪れ、その後の2年余りの間に何度もウクライナとその周辺国に行き、戦争の最前線である東部地域をメインに、そこに暮らすウクライナの人々やボランティア、兵士などの取材を続けてきたフォトジャーナリストの小峯弘四郎氏。「戦地ウクライナ」で取材をする中で彼が出会ったのは、背景も現在の暮らしも多種多様な日本人たちだった。

「ウクライナの日本人」たちは、現地でどんな生活を送っており、何を行おうとしているのか? 危険と隣り合わせの国にとどまり続ける彼らのリアルな姿をレポートする。今回はその第2回。

連載第1回:元福島原発作業員、起業家、ピカチュウ姿のボランティア...戦火のウクライナで生き抜く日本人たちの実話
連載第3回:ウクライナ戦場で勲章を受けた日本人「BIGBOSS」...48時間の「脱出劇」

隣に「顔の半分ない死体」

福島県出身の45歳のケンさんは23年8月、前出の富岡さんと同じ第204独立領土防衛大隊に所属していた時にドネツク州クラマトルスク近郊で取材した。その後部隊を移り、現在は領土防衛隊外国人軍団に所属。ケンさんも自衛隊や他国の軍隊での経験はない。

20代の時は料理人としてホテルで勤務していたが、営業職へと転職。明るい性格と人懐っこい雰囲気で成功していたが、離婚して子供と離れ離れになったタイミングで、それまで寄付などを続けてサポートをしてきたウクライナに行く決断をした。現地入りしたのは23年4月だ。

「子供が理不尽に殺されていく現実に自分の子供のことが重なり、許せない、何か力になりたいと思いました」と、ケンさんは言う。

ウクライナ入りした後、日本人義勇兵がいるジョージア軍団のキーウ基地に行き入隊を申し出るが、軍隊経験のなさと英語力の問題で契約を保留されてしまう。その後、6月にほかの日本人2人と共に第204独立領土防衛大隊に入隊した。

部隊では砲兵としてグレネードランチャーのAGS-17を使用するグループにいた。敵の情報が無線で入り、その場所に向けて撃つ、ドローンが確認してまた無線が入る、その繰り返しだ。とにかく覚えることが多く必死で、怖いと言っていられる状況ではなかった。たまに無線で弾が命中した、ロシア兵を殺したと連絡が来たが、肉眼では敵は見えないので全く実感はない。

ただこちらが攻撃を始めると、敵にこちらの位置が分かる。自分たちがいた塹壕から2メートルの場所に迫撃砲が落ちて、塹壕の上部を覆う丸太の屋根が吹き飛んだこともある。

歩兵部隊の応援として前線に行くこともあったが、その時は途中で車が故障し、自分の装備とは別にツルハシや特大マットなど、約40キロ近くの荷物を持って5キロ近く歩くことになった。任務を終えた後、ようやく味方の歩兵戦闘車が通りかかり、それに乗せてもらい帰ることができた。担架に固定された兵士が横たわっていたので、顔をのぞくと顔が半分ない状態で死んでいた。

前線に近い街ドネツク州クラマトルスクで、諸事情で部隊を移ることになり契約の切り替えを待っているケンさんに再会したのは24年3月初旬だった。ケンさんの目にも、見るからにウクライナ軍の弾薬が減っているのが分かった。そんな状況になっても戦い続けるのは、「この戦争を最後まで見届けたいと思っている」からだ。

中村さんは自らの意思で長年暮らしたキーウに残留することを決めた KOSHIRO KOMINE

誰もが認める人格者

23年8月に会った中村仁さん(56)も現地で22年間暮らす日本人だ。ロシアの侵攻後も、キーウのウクライナ国立工科大学内にある「ウクライナ日本センター」に勤務。茶道教室や将棋大会など日本の文化を広める活動を続けている。現地の日本人の誰もが認める人格者でもある。

ロシア軍がキーウに迫った当初、日本大使館から安否確認と避難を促す連絡が毎日来たが、中村さんは自らの意思でキーウに残ることを決めた。

高校生の時にラグビー選手だった中村さんは、高校の部活引退後に本格的に始めた筋力トレーニングにはまってパワーリフティングの選手になり、95年にロシアのイルクーツクで行われた重量挙げの大会に日本代表として出場した。

バイカル湖の別荘に滞在して、イルクーツク大学で日本語を勉強している学生たちと交流をしたことをきっかけに、自分でロシア語を学び始め、語学習得のためキーウ国立言語大学に1年間留学して、そのまま住み続けている。

「この戦争は終わりが見えない状況にありますが、どのような状況になったとしても最後までウクライナに残る、ウクライナと共にあろうと思っています」と、中村さんは言う。

現地でボランティア活動を続ける秋山さん(左)と土子さん KOSHIRO KOMINE

子供の心をアートで癒やす

ハルキウで無料食堂「フミカフェ」を運営する土子文則さんは「ウクライナで一番有名な日本人」だが、現地でボランティア活動をしている日本人は土子さんだけではない。

千葉県出身の40代、秋山小夜香さんは22年2月にロシアの侵攻が始まった時、夫のウクライナ人男性と2人の子供と一緒に東部のロシア国境沿いの街スーミ州スーミで暮らしていた。侵攻が始まった直後は砲弾の音も聞こえたが、すぐにスーミ中心部は比較的安全な状況になり、ウクライナに残ることを決意した。

とはいえ、秋山さんは戦争が続いている状況でどうすべきか、1年間ほど悩んだ。そんな時に日本のウクライナ支援団体とつながり、スーミで貧困層のボランティアを20年続けているアンナさんという女性を紹介された。年齢も近いせいか意気投合して、少しずつボランティア活動を始めた。

既に行っているのが、クレイアニメによるアートセラビー。子供たちと一緒にクレイアニメ動画の制作を行い、戦争で傷ついた心を癒やそうとしている。整備がなかなか進まない村の幼稚園のシェルターを整備するため、所属の財団法人「Peace do it!」で資金集めも検討中。地域の人々と協力して、ボランティアの輪を広げる予定だ。

渡辺さん(写真)と田所さん(次ページで紹介)はどちらも元自衛官でジョージア軍団に所属している KOSHIRO KOMINE

安定を捨てて戦場へ

開戦後、ウクライナに渡った日本人には、日本での安定した暮らしを捨てて、あえて戦地に行くことを選んだ人が多い。24年3月にザポリッジャで取材したジョージア軍団(編集部注:ジョージア人義勇兵で構成された部隊)所属の日本人義勇兵、渡辺さん(仮名)もその1人だ。

20代後半、中部地方出身で元自衛官の渡辺さんは23年11月にウクライナ入りした。自衛隊にいた時は工兵だったが、今は歩兵としてジョージア軍団に所属している。自衛隊を除隊した後は食品会社に勤め、不安もリスクもない生活を送っていた。

「訓練経験のない人がそのまま前線に送られているというニュースを見て、経験のある自分が行くことで少しでも助けになればと思いました」と、渡辺さんは言う。「自衛隊で得た知識と訓練経験が役に立つのなら、どんなリスクがあっても問題ない」

まず日本にいる時にSNSで情報収集し、2つの部隊とビデオ面談した。1つは英語力不足で断られたが、1つは参加を認められ、23年11月にウクライナへ。しかし、その部隊は健康診断で眼鏡の使用を理由に渡辺さんを不採用にした。

ボランティアをしながら情報収集をしたが、なかなか思うような情報が得られず、キーウにあるジョージア軍団の基地に直接行き、入隊を志願した。英語で交渉して自衛隊の在籍証明書を見せるととんとん拍子に話が進み、12月には北東部の前線に派遣された。

最初に前線での任務に就いた時は、それほど怖いとも思わなかった。ただ4回目ぐらいの任務で、近くにミサイルが着弾する音を聞いた時は、無意識に手が震えた。ものすごい爆発音がしてかなり揺れ、本来自分たちがいる塹壕の近くにぽっかりと1メートルくらいの穴が開いていた。

渡辺さんは家族や周囲の友達には変に心配をかけたくないので、「1年間ボランティアに行く」とだけ伝えてウクライナにやって来た。戦争が終わったら日本に帰り、自衛官の友人などに自分の経験を伝えたいと思っている。「兵士として実戦経験があるのとないのとでは、大きく違う。自分の経験を基に何が必要か、どのようなメンタリティーが求められるかを共有したい」からだ。

渡辺さんとともにジョージア軍団に所属する田所さん KOSHIRO KOMINE

「とにかく死にたくない」

渡辺さんと同じジョージア軍団で戦う田所さん(仮名)も元自衛官だ。

東北地方出身で現在20代前半の田所さんは、小学生の時に東日本大震災を体験した。地元の福島にもたくさんの自衛隊員が駆け付け、その活躍を見て自衛隊や軍への興味と憧れを抱くようになる。陸上自衛隊の普通科に入り、東北地方で2年間自衛官として勤務した。

もっと軍隊でキャリアを積みたいと、フランス外人部隊への入隊を考えるなか、ロシア軍の侵攻が長期化の兆しを見せるウクライナ行きを決心。自衛官を辞めアルバイトで資金をためた。「母子家庭で育ったため、さすがにウクライナに行くとは言えず、フランスで外人部隊に入ると伝えてためたお金の大半を渡してきました」と、田所さんは言う。ウクライナには約60万円を持って来た。

24年1月にウクライナに入り、SNSで知ったジョージア軍団のキーウ基地を直接訪ねた。直接交渉すると、既に入隊している日本人兵士のサポートを受けることを条件に入隊できた。

初めての実戦は、北東部の国境付近の塹壕で敵側を監視し、敵が来たら攻撃するという任務だった。

覚悟をしてきたが、まず思ったのは「とにかく死にたくない」ということだった。前線にいるという実感が湧かずに平然としていたら、自覚が足りないと上官にかなり怒られた。任務の前は今も不安になる。いざ配置に就くと、不安や恐怖心より、ドローンの音や些細な兆候に気を使わなくてはならないので、そのようなことを考えている暇はないが。

田所さんも、ウクライナで日本人が戦っていることに賛否があることは理解している。ロシア兵にも家族がいる。当事者ではない日本人の自分がロシア兵を殺すことは本当に正しいことなのか。ただし、前線で悩んでいる時間はない。そのためにも充分な睡眠を取り、感情をリセットすることを大事にしている。

<記事の続き>
連載第3回:ウクライナ戦場で勲章を受けた日本人「BIGBOSS」...48時間の「脱出劇」

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