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ウクライナ戦場で勲章を受けた日本人「BIGBOSS」...48時間の「脱出劇」

ニューズウィーク日本版 2024年6月7日 13時50分

小峯 弘四郎(フォトジャーナリスト)
<義勇兵、ボランティア、長期在住者......銃弾が飛び交う異国に日本人が滞在し続ける理由。現地レポート第3弾>

元水陸機動団員の脱出劇

BIGBOSS(以下B)さんは関西地方出身で20代前半。23年6月にウクライナに入り、ウクライナ陸軍の「チューズン・カンパニー(選ばれし者の中隊)」に入隊。ドンバス地方の前線で戦闘に参加し、23年末に敵拠点を制圧する任務で重傷を負った。その功績が評価され、24年3月にウクライナ軍から勲章を授与された。

Bさんは、陸上自衛隊のエリート部隊である水陸機動団に約4年間所属した。自衛隊内で着実にキャリアを積み、将来有望な存在と周囲からも期待されていた。それがロシアの侵攻が始まると、周囲の反対を押し切って自衛隊を辞めウクライナで戦うことを決断した。

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「ウクライナで戦うと決めてから、準備に1年近くかけました」と、Bさんは言う。「『不安がある=死ぬ』ことだと思っているので、その不安がなくなるまで鍛え続けました」

ポーランドを経てウクライナに入国し、ウクライナ外国人部隊で最強とされるチューズン・カンパニーに参加してドンバス地方の前線へ。突撃、陣地奪取、特殊偵察など高度なスキルを要する任務が主の部隊だ。

兵士として完璧な準備をしたBさんが配置されたのは、敵の拠点まで100メートル以内、スコープで見ると赤いテープを腕に巻いたロシア兵が動いているのが見える最前線だった。そして、夜間に市街地の敵拠点を制圧するチームに選抜される。

曳光(えいこう)弾が狙ってくるなか、先頭で敵拠点の入り口まで行き、手製の手榴弾を中に投げ込むと大きな爆発が起きた。その衝撃で入り口に大きな穴が開き、Bさんはその穴から敵の拠点の地下部分に落ちてしまう。煙が立ち込めるなか、銃を撃ちながら中へ進むと敵が応戦してきて防弾ベストに4発、左足に3発の銃弾を受けた。とっさに中にあったコンクリートの壁に身を隠した。

暗闇の中、敵までの距離は約5メートル。相手の声が聞こえる状況でさらに撃ち合いが始まり、手榴弾7、8個を敵側に投げ込んでもまだ敵の声がする。その後も撃ち合いは続いたが、こちらは弾切れになり、敵もリロード(銃弾の装塡)を繰り返している音が聞こえてきた。お互い弾切れになったと気付いた直後に、敵のドローンが自分の落ちた穴から手榴弾を4発ほど落としてきた。

わずか2メートルのところで手榴弾が爆発して、無数の鉄の破片が体中に刺さった。戦闘中の興奮のためか、不思議と痛みは感じない。追い込まれ、自分が持っている限りの手榴弾を拠点内にいる敵に投げた。すると奥にあったガスボンベに引火して大爆発が起き、やっと敵の攻撃がやんだ。

Bさんは最初に落ちた穴からはい出て、そのまま匍匐(ほふく)前進で近くにあった瓦礫の山に身を隠し、足に止血帯を巻いた。敵陣地の中でろくに動くこともできず、誰か助けに来てくれないかと願ったまま、気絶してしまった。

気付いた時、辺りはまだ真っ暗だった。朝4時ぐらいで、明るくなると敵ドローンに見つかる。7~8メートル離れた場所に敵兵が身を隠していたらしいスペースを見つけ、匍匐前進でやっとそこにたどり着いた。自分がたどった地面に血の跡ができているのを見た後、また気を失った。

午前11時頃、今度はウクライナ軍の砲撃で目が覚めた。砲撃はどんどん激しくなり、近くで応戦しているロシア兵の声が聞こえ、前進しているのが分かった。今の自分は敵陣地の真っただ中で武器もなく動けず、気絶と覚醒を繰り返している。手榴弾で自決することも考えた。周囲には敵か味方か分からないドローンが飛んでいたことだけを覚えている。

その状態が続き、気付けば翌日になっていた。「どうせ死ぬならやれることをやってから死のう」と思い、まずは戦術式呼吸(編集部注:腹式呼吸法の一種)で気持ちを落ち着かせ、水の代わりに自分の尿を飲んで渇きを癒やした。

戦況を見定めつつ、最良の脱出ルートを考えた。夕方5時頃になると、空の色が変わり始めて視力が落ちる。ドローンにも発見されにくいので、その時間に脱出を始めた。

防弾ベストなど全ての防具を外し、防弾メガネ、ナイフ、手袋だけで雪の中を匍匐前進でロシア軍の陣地から出た。瓦礫で音を立てないようにと慎重に、20メートル進むのに2時間かけた。ドローンの音がするたびに動きを止め、やり過ごしたらまた少しずつ進む。

しばらく進むと塹壕を見つけたが、周囲には地雷がたくさん埋まっている。Wi-Fiアンテナもあったので、確実に敵がいる。迂回すると、今度は機関銃が配備されている敵の拠点に行き着く。それで仕方なく再び来た道を戻る......。

雪が積もる12月、気温はマイナス10度。来た道を戻る時に何度も気絶した。日本での楽しかった思い出が走馬灯のように頭に浮かび、そのまま気絶する。また起きて少し進んでの繰り返しだった。

頭の上を砲弾が行き交うなか、少し行ったところに小屋を見つけ、ウクライナ兵がいると思い、「ウオーター、ウオーター」とうめき声を上げたら、ロシア語が返ってきた。さすがにもう捕まるのを覚悟してそのまま気絶したが、なぜかロシア兵は構うことはしなかった。何が起こっているか理解できなかったのだろう。

その直後からまた戦闘が激しくなり、ドローンからたくさんの爆弾が降ってきた。まだロシア軍の陣地にいるのでウクライナ軍のドローンだ。さすがにウクライナの攻撃では死にたくない。なるべく速く匍匐前進すると、ついに自分たちの拠点が見える場所に着いた。

ただその場所に行くには、スナイパーが狙う大きな道路を横切る必要がある。匍匐前進で行くわけにもいかず、2キロぐらい迂回してやっとウクライナ兵のいる地域に着いた。負傷し、敵拠点から脱出を始めて約48時間が経過していた。

Bさんはすぐにドイツの病院に移送された。手術中に死ぬ可能性もあると言われたというが、手術は成功し、驚異的な回復力で3カ月後には歩行訓練を始めた。4月にウクライナへ戻り、リハビリを続けている。

「本当にいい経験になった」と、Bさんは言う。「本当の強さは、このような苦境から生まれる。完治したらまた戦線に復帰するつもりです」

この時の戦闘で、Bさんの仲間が4人戦死している。

「自分だけがここで兵士を辞めるわけにはいかない。自分の目で戦場を見てしまった以上、このまま無視することもできません」

◇ ◇ ◇

なぜ、ウクライナにまで行って日本人を取材するのか。ロシアの侵攻以前から在住する人、侵攻以後にやって来たボランティア、義勇兵、またはジャーナリストや写真家......。外務省から退避勧告が出ており、日本人義勇兵には戦死者も出た。それでも、それぞれが日本人として思いや考えを持ちながら、戦時下のウクライナに滞在し続けている。彼らを知ることは、ウクライナと戦争を忘れがちな日本人が、少しでも何かを考える助けになるはずだ。

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